昨年来、ロシア軍はウクライナ国境沿いに大部隊を集結させ、今年になってからは、ベラルーシにも軍を派遣し、さらに黒海にも海軍を動員して、ウクライナを三方から攻撃するかのように軍事的威圧を強化している。
プーチンの狙いは、まずウクライナのNATO加盟を阻止し、ソ連崩壊後のNATOによるロシア包囲網を緩めさせることにある。それには、ロシアにとっては、ソ連崩壊後にそれまで西側との軍事的には緩衝地帯だった東欧諸国がNATOに加盟し、西側の防衛ラインがロシア周辺に迫ったきたことを深刻な脅威と認識していることにある。(防衛省防衛研究所「金子譲 新生NATOの行方 東方の拡大からミッションの拡大へ」を 参照されたい。(
そのことはロシアのラブロフ外相が、ロシアも加盟する欧州安保協力機構(OSCE)の1999年の憲章の中の「他国の安全保障を犠牲にして自国の安全保障を強化しないとの原則」を尊重するよう、 アメリカのブリンケン米国務長官に伝えた(ロイター 2月1日)ことでも明らかだ。
それは平たく言えば、敵と見做す相手国が感じるであろう脅威には無関心な西側の態度(北朝鮮が感じるであろうアメリカが与える軍事力の脅威も一顧だにされないことも同様)を改め、ロシアの身になって少しは考えてみろ、と要求しているのである。
もとより、ウクライナへの本格的侵攻などあり得ない。西側のもっとらしい侵攻説は、ロシアは軍事侵攻と同時に、サイバー攻撃などの「ハイブリッド戦」により、キエフにかつてあったような親ロ派政権を作り上げ、ウクライナをロシアの属国のようにする、というものだが、ロシア自身がそのような実力があると考えている根拠はひとつとしてない。もしそのようなことが可能とプーチンが考えているとすれば、彼に挙げられる情報はすべて役立たずで、無能な情報機関しかロシアにはないことになる。もはや、キエフに親ロ派政権などできる可能性はゼロに等しいのは、ロシア側も分かり切っているはずだ。軍事侵攻すれば、ウクライナ軍は既に手に入れているアメリカの最新鋭兵器で応戦し、周辺のNATO加盟国との戦闘も激化して、ロシア軍も多大な損害を受ける。総量で勝るロシア軍が全土を占領したとしても、結局は逃げ去るしかなかったアフガニスタンの二の舞いどころではない。人口5000万人のウクライナ人の抵抗にあい、西側の報復制裁でロシア経済は完全に崩壊する。逆に、ひいてはNATO軍のロシア領内占領もあり得ないとは言えない。そのような自滅行為を選択することはあり得ないのである。
ロシア・グルジア戦争
これらのことを考える上で、2008年のロシア・グルジア戦争が参考になる。1991年のソ連崩壊後、独立したグルジア領内には、ロシア系住民が多数居住する南オセチア、アブハジア地域があり、そこはグルジア人の支配を嫌う半独立状態になっていた。この状況は、東部地域に独立派のロシア系住民が多数居住する現在のウクライナと同様である。ロシア軍は南オセチア、アブハジア地域のロシア系住民を支援するとして、グルジア国境沿いに大部隊を集結させた。グルジア側は、その恐怖心から、我慢ができず、グルジア軍はロシア側に攻撃を開始した。それを待っていたかのように、強大なロシア軍は、先に攻撃されたことの反撃という正当性を盾に、グルジア軍を撃破した。この両地域をグルジア側から完全独立させるためである。しかし、ロシア軍はグルジア全土に侵攻したわけではない。南オセチア、アブハジア地域だけに限り、グルジア軍を撃破したのである。当たり前のことだが、グルジア全土にロシア軍を展開すれば、その抵抗にあい、泥沼にはまるからである。それは、ソ連軍がアフガニスタンで経験したことであり、米軍も同様にアフガニスタンで経験したことである。かつては、アメリカもベトナムで経験した敗北である。どんなに、重武装の強大な軍隊を投入しても、民族自決権で抵抗する勢力には勝てないのである。そのことを、プーチンは理解していないとは考えられない。ウクライ全土にロシア軍を侵攻させるという自滅行為を選択するはずはないのである。
ロシア側は、2014年、2015年のミンスク合意の遵守をも要求している。この「合意」は、ウクライナ東部のロシア系住民の武装勢力が支配するドネツク・ルガンスクの独立を事実上認めたもので、領土の不可分に固執するウクライナ政府はとしては容認しがたいものだった。また、武装勢力側も周辺地域への支配圏拡大を狙い、両者の戦闘は散発的に未だ続いている。そこには、「非公式のロシア軍」(ロシア政府が公式には認めない、シリアを始め中東に投入されている西側の言う「グレーな」ロシア軍)が投入されており、2014年以降、ウクライナ東部で軍事活動を行っているが、ウクライナに居住するロシア系住民の武装勢力そのものなのか、国境を越境してきたロシア軍なのか、簡単には判別できない。
これらのことを考えれば、ロシアの軍事行動は、ウクライナ東部のロシア系住民の支配圏拡大に限られ、到底、ウクライナ全土への進撃などあり得ないのである。
プーチンは敢えて、ウクライナにとって極めて深刻な軍事的脅威をつくり出しているのは確かである。それは、ウクライナが震え上がれば、震え上がるほど望ましい。そのことによって、西側に譲歩を強要しているのである。それは、西側が与え続けているロシアへの脅威を考えさせ、態度を改めさせるためである。プーチンは、そうでもしないと、西側は「相手に与える脅威」を一切考慮しない、と考えているからである。それは、ソ連時代の情報機関の高官だったプーチンの、ソ連崩壊後、じわりじわりと西側に攻め込まれるという恐怖心にも由来しているのだろうが、ソ連を「悪の帝国」と呼び、現在のロシアも「中ロは1から100まですべて悪」とする西側へのプーチン流の「副反応」でもある。逆にプーチンにとっては、西側は「1から100まですべ悪」と映っているとも思えるからである。
そのために、プーチンはウクライナ周辺に大部隊を集結させたが、今のところ、やはりプーチンの狙いは100%裏目に出ている、というように見える。少なくとも、表面的にはそうように見える。この大部隊が西側の「ロシアの侵略(昔あったテレビゲームのinvadeという言葉が使われている)」の唯一と言っていい根拠とされ、欧州全体のロシアに対する恐怖心と嫌悪感を増大させ、かえって西側の軍事的結束を強めることになっているからである。
アメリカはウクライナに最新兵器を供給し、英国、フランス、ドイツなどもウクライナ周辺国に軍部隊を派遣している。肝心なウクライナのNATO加盟阻止は、2月14日にウクライナのゼレンスキー大統領がドイツのショルツ首相との会談で、NATO加盟を目指すと改めて表明したように、むしろウクライナのNATO加盟を促進させる効果しかもたらしていない。プーチンのNATOの包囲を緩めろという要求とは反対に、むしろNATOの包囲は強化されつつあるのである。
プーチンの隠された狙い
英紙ガーディアンは、「西側のロシアの侵略への焦点の当て方は、裏目に出て、プーチンを強化する可能性がある」との意見を載せている。
このキール・ジャイルズの意見では「ロシアが侵略以外の選択肢を選択した場合、米国は自国とその諜報機関を当惑させる危険を冒している 」と言う。どういうことかと言えば、第一にロシアの軍事侵攻説だけを強調して流すと、ロシアが侵攻を実行しない場合、それは虚偽情報と見做されるということである。実際の侵攻説の発信元アメリカだけであり、その他の西側諸国はその危険性は充分あるとの補完情報を流し、それに基づいて行動しているのである。2月16日に侵攻が開始されると情報(アメリカ政府の公式情報ではないが)が飛びかっているが、16日にロシア側から出て来たのはロシア軍の一部を撤退させるというものだった。
要するに、これではアメリカ政府の流す情報は「オオカミ少年」のようなもので、信頼度に著しく傷がつくということになる。そのことを、プーチンは計算に入れているのかもしれない、ということである。
このガーディアンに載った意見は、上記のことを懸念しながらも、ロシアの侵攻を思い留まらせるには、西側が強力に反撃するという軍事力と意思を具体的に示すことが必要で、それができていないということが「プーチンを強化する」という極めて通俗的な抑止論で終わるのだが、「ロシアが侵略以外の選択肢を選択した場合」を想定しているのは、他の主要メディアでは見られない。
ロシアは、昨年来から大部隊を集結させ、軍事演習を繰り返しているが、その期間は既に3か月を超える。口では「侵攻しない」と言いながら、侵攻するかのような軍事力を見せつける。そしてそれは、いつ終わるか分からない。したがって、いつまでもウクライナのみならず、西側は緊張状態に置かれる。西側政府が出したウクライナにいる人員の退避指示も終わらせることもできない。ウクライナ経済も悪影響は必至である。恐らく、それがプーチンの隠された狙いだろう。西側がロシアの満足する譲歩をしない限り、緊張関係は長い間続き、終わりが見えないという脅しである。「侵攻」を実行する必要はない。脅しだけで充分なのである。「侵攻しない」と言っているのだから、非難される筋合いはない、と突っぱねればいい。今回、軍を撤退させたとしても、また、いつか同じことをするかもしれない。アメリカはロシアの侵略を声高に叫ぶ。その度に、欧州の首脳は、プーチンに会わなければならない。このプーチンよって作り出された緊張関係以前には、西側首脳がプーチンと頻繁に会談することなどなかった。その内、NATO内の首脳の中から、緊張状態を終わらせるために、冷戦時のようにデタント(緊張緩和)の必要性を主張する意見が出るだろう。口先ではNATOは、ロシアを攻撃することはないと言いながらも、ロシア同様に軍事力強化(世界の軍事費は、全体で僅か減少しているが、欧州諸国では4.8%増加している。英国の国際戦略研究所(IISS)の報告 2021年)に走っているのである。NATO諸国が、ロシアに攻撃する意図がないなら行動で示せと言っているように、NATO諸国も「行動で示す」必要がある。そのことを、プーチンは分からせよとしているのである。
西側は、プーチンはNATOを弱体化させ、相対的にロシアの攻撃能力を高め、ロシアの支配圏拡大を意図していると見ている。しかし結局のところ、プーチンがどんな行動に出ようとも、どんな意図があろうとも、戦争を起こさないためには、対話と双方の軍縮しかないのである。