2015年9月19日未明安保法案は可決された。反対派には、いくらかの喪失感が漂うのは免れないだろう。しかし、反対派は今回の抗議行動で以前にない多くのものを勝ち取った。それは明らかな一歩前進と言える。
そもそも安保法案の成立は、国会の与党議席占有率から考えれば当然のことだ。むしろ、国会内でここまで抵抗できたことが予想外とも言える。この国会内の予想外の出来事の要因は二つあると考えられる。一つはマスメディアが報じているように、国会周辺の大規模デモと日本中で行われた抗議行動である。そしてもう一つは、野党5党、特に民主党の「予想外」の強硬な抵抗である。なぜなら、民主党内には、細野豪志や前原誠司などの集団的自衛権に賛成の勢力が存在するからだ。この思想的寄り合い所帯の民主党がここまで激しく抵抗するとは、与党にとってのみならず、大方の予想に著しく反するものだったろう。勿論、民主党の激しい抵抗も、維新の党が抵抗する側についたのも、一つ目の大規模な抗議行動と、今国会での法案成立に反対が多数派だという世論調査に押されたもの(岡田克也代表が我々の後ろには反対する7000万人がいると言ったことがそれを表している)、だから、元々の要因は一つと言ってもいいのだが、今後の国会内勢力の動きを考慮すれば、一つ目の要因に触発された二つ目の動きと考えるのが、今後の展望のために意味をなす。
今後の展望として、成立した安保関連法を廃止するためには、国政選挙で反対派が多数を握ること、そのためには反対する野党の選挙共闘以外の道はないのは誰の目にも明らかだ。そのような状況で、成立の同日、日本共産党が「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」という暫定政権の樹立を呼びかけた。
これまでも日本共産党には、憲法9条や原発の問題で市民運動の一部から選挙協力への要望があったが、共産党自らが選挙協力を申し出るのは初めてだ。前回の衆院選での「オール沖縄」の成功を踏まえてのことだが、国政全体でそれを呼びかけるのは、反安保関連法運動の一定の成果によるものだろう。この運動は、共産党も含め、極めて党派性が薄く、市民が前面に出るというものだった。この市民運動の盛り上がりが、共産党の背中を押したのである。民主党が自民党に拮抗するほど支持率がない以上、選挙協力以外に、国政選挙で安保関連法に反対する勢力が多数となることはありえない。これは、運動に参加した多くの人びとの考えに一致するものと考えるのが自然だ。法案可決前後のデモで、賛成議員は落選させろという声が高く挙がってのも、裏を返せば、反対派を当選させろということになる。この市民の気持ちを受け止めれば、どこの政党が初めに言い出すかの問題に過ぎなかっただろう。これこそ、反対派が勝ち取った「以前にはない多くのもの」のひとつなのである。
しかしながら、この日本共産党の提案には、いくつかの大きな壁が横たわっている。一つ目は、民主党が素直に提案を受けることはできない、ということだ。民主党内の、このところおとなしくしていた集団的自衛権容認派は受け入れないだろう。彼らは野党だから反対するが、与党になったら自民党と同じことをしかねない、そういう思想信条の勢力なのである。また、今回強硬に反対した民主党議員も、「反安保」が最も優先する課題だと考えているかは疑問だからだ。とは言っても、民主党が受け入れる可能性がない訳ではない。この提案は、民主党の議席を確実に増やすことができるからだ。多くの国会議員は、議席を獲得するためには、少々思想信条に反することにも目をつぶる。したがって、民主党が受け入れるかどうかは、共産党の提案が、例え共産党の議席を減らしたとしても、「反安保」を優先するかにかかっている。選挙区での協力が、そういう具体的な中身があるかどうかにかかっている。選挙協力で共産党の議席が増えないということは、民主党が増えるということだからである。
他の野党については予想ができない。これもまた、その政党の浮沈が具体的な協力方法によるからだ。維新の党は、政府手続きが乱暴だから反対と言っているだけで、法の中身には賛成しているので問題外だが、例えば、社民党は党勢の衰退が著しい。確かに、「護憲=反安保」は党是だが、党の浮沈も大問題だろう。党が存続できる協力方法でないと受け入れることができない、そう彼らが考えてもおかしくはない。
二つ目の壁は、市民運動内部にあるものだ。自然な流れとしては、政党に選挙協力を呼び掛けても良さそうだが、日本の市民運動はそうはならない。それが壁なのである。その理由二つある。二つ目の1は、市民運動にスタッフ等で参加している者の中に、かつてのマスメディアが呼ぶ「新左翼」の元運動家が少なからずいることだ。「新左翼」といっても、日本共産党をスターリン主義者だとして打倒対象とする革共同から、構造改革派までさまざまだが、日本共産党を敵視していたのは共通している。元運動家が今でも敵視している訳ではないと思われるが、わだかまりは残っているだろう。そして、二つ目の2は、日本の市民運動の伝統的とも言える選挙嫌いである。恐らくこれは、丸山眞男や鶴見俊輔などの左派知識人が政党とは距離を置き、選挙には押し黙っていたことと無関係ではないだろう。彼らは、現にある政党を敵視していた訳でもなく、支援した訳でもなく、さりとて、自らの思想に合う政党を作ろうとした訳でもない。むしろ、根底には政党そのものに対する嫌悪感すらにじませていた。この伝統的な嫌悪感が市民運動には漂っていたと言っていい。それが、選挙運動を侮蔑し、デモや集会等の大衆運動のみに力点を置くという運動を作り上げてきたのだ。
こういった空気が、選挙に関して消極的になる、それが壁として選挙協力の動きを妨げる、これは杞憂ではないだろう。本来ならば、市民運動の側から選挙協力をしろという声を出すべきにもかかわらず。
だが今度の抗議行動は、そういった大衆運動至上主義からの脱却をも示唆している。それは、この運動が政党を超えていると同時に、以前からの市民運動をも超えているからだ。今までの市民運動とは無縁の市民が抗議行動の中核に踊り出ているからだ。それらの人びとの声は、「政党や市民運動家の思想信条などどうでも良い。肝心なのは、現に成立した戦争法制をつぶすことだ」というものに違いない。その声が限りなく大きなものになれば、選挙協力は必ず実現するだろう。
選挙協力といっても、政党間で違いがあり過ぎるという意見がある。これには一連の抗議行動を主催した、総がかり行動実行委員会の次の文章が参考になる。「安倍政権の暴走は、原発の再稼働、福祉の切り捨てや労働法制の改悪などによる貧困と格差の拡大、歴史認識の改ざんと教育への国家統制の強化、TPPや企業減税の推進など大企業と富裕層への優遇策などあらゆる分野で進められています。このため私たちは、これらの分野で行動している人びととも手をつなぎ、総がかり行動を名実ともに拡大・発展させていきたいと考えています。」 これは、安保法制以外の課題をまとめたものだ。つまり、この文章で明らかにされている課題で一致できるかどうかで、政党をあるいは政治家を峻別すればいい。したがって、総がかり実行委員会がこの文章に基づいて政党を協力への方向にもっていけるかどうか、そこに大きな役割が課されている。
しかし、今回の抗議行動での一番の成果は、多くの人が行動に参加したことだろう。法律家も学者(特に、一連の行動で山口二郎の努力は称賛に値する)も反対への組織を作り上げた。芸能人も反対の声を挙げた。テレビに出演する著名人が「干される」ことを恐れずに参加した。「お上にたてついても、テレビから追い出されることはない」ということを学んだ意義は大きい。それは、今後も続くだろう。そして、何よりも大きいのは、デモに参加するのは異常なことではないという雰囲気が醸し出されつつあることだ。「売り上げ」を気にするマスメディアも、「デモ行くのは左翼の活動家で特殊な人種」とはもはや表現できないだろう。普通の人もデモに行くというありふれたことが、ようやくこの国で「空気」として生まれつつある。これが、何よりの一歩前進なのだ。