フランス風刺画週刊紙シャルリー・エブドに対する襲撃事件に対して、フランスを中心に大規模なデモが起こり、そのスローガンとして<Je suis Charlie>(I ‘m Charlie)私はシャルリーという言葉が使われた。あたかも、シャルリー・エブド紙の漫画を、デモに参加した全員が好みとしているかのように。そして、それに反発した人びとから<Je ne suis pas Charlie>(I’m not Charlie)と否定する言葉が挙げられた。
そもそも<Je suis Charlie>の意味として、<Je suis~>は、単に<I am~>ではなく、フランス語の<suis>は、<suivre>(英語follow~の後について行く)の一人称単数形でもあるので、私は(シャルリー・エブド紙の内容を必ずしも支持するわけではないが)シャルリーの側にいる、私は表現の自由を守る側にいる、それについて行くという意味だとする解釈がフランスでは一般的らしい(ワシントン・ポスト紙の解説等より)。確かにそう解釈すると、発行部数から考えてそれほど多くの人が普段から読んでいることは考えられず、筋道が通る。要するに、「ひとりのシャルリーを倒しても、表現の自由を守る人間は後に続く。なぜなら、私もシャルリーなのだから」という意味だというのは、冷静に考えれば分かる。しかし、世界中の多くの人びとの間で、I’m~では、シャルリーそのものを支持している、賛成していると解釈されるのも、また自然なことだ。「私は、例えイスラム教徒がムハンマドを侮辱していると言っても、シャルリーが好きで読んでいる」というふうに解釈されてもおかしくはない。これでは、イスラム教徒への挑戦とも取れる、あまりにも誤解を生む表現なのである。だから、当然のように「私はシャルリーには賛成できない」という意味で、Je ne suis pas(I’m not )という言葉が、少なくない人びとから挙げられたのだ。
このことには、二つの問題が含まれているのは誰でも分かるだろう。勿論、テロリズムの問題はそれ以前のものとしてである。ひとつは、言論の自由の問題であり、二つ目は言葉の問題である。
言論の自由については様々な議論がなされているが、煎じ詰めれば、言論の自由は絶対的なものではないということだ。それは、言論の自由より優先されるものがあるという論理であり、「(言論の自由という)正義はなされよ、しかし世界は滅びることはなく」という論理のことである。既にヨーロッパでは、人種・民族差別等の発言や行動は禁止ないし、制限されているが、それに続くものがあるかどうか、あるとすれば何か、ということである。そして、デモに参加した人びとは、そこには宗教は含まれないのだ、という意思表示をしたのである。確かに、それは「正義」である。たとえ、それがその宗教に対する侮蔑だと解釈されても、宗教批判は言論の自由の範疇から外されてはならない。まさに、そのとおりだろう。しかし、その「正義」も、「世界は滅びることなく」なのだ。
この「シャルリー」の問題だけに関して言えば、侮辱であれ何であれ、一切の宗教批判は許されるべきだろう。一般論として、言論の自由は支配される側の勝ち取った権利であり、その制限は、極小化すべきだからである。したがって、「シャルリー」を嫌う人びとは、この週刊紙の会社を取り囲み、連日連夜「お前たちは地獄に落ちろ」と叫び、デモという形で言論の自由を行使すれば良かったのだ。
政治において、ひとつの言葉は、数時間をかけた演説より、数百ページに及ぶ論文より、人びとを動かす力がある。だからこそ、その言葉を吟味し、時として批判する必要があるのだ。批判すべき、典型的な例を挙げれば「テロに屈しない」だろう。ジョージ・w・ブッシュが使ったこの言葉ほど、政治的に巧妙でかつ狡猾なものはない。誰も「テロに屈しろ」とは言えない。だから、「屈するな」に反対するわけにはいかない。問題なのは、「屈しない」ためにどうするのかなのだが、それは言わない。ブッシュにとっては、それは武力行使であり「奴らを殺せ」なのだが、それは言わない。そして反対できない雰囲気を作っておいて、武力行使に突き進む。大衆扇動として、これほど成功した言葉はないだろう。何しろ、今でも世界中で使われているのだから。安倍首相も含めて。
言葉は吟味され、時として批判されねばない。Je suis Charlieもそのひとつだ。デモに参加した人びとは、イスラム教徒に配慮すれば、その内何人かは、こう言うべきだったのだ。
Je suis Chrlie,mais Je n’aime jamais Charlie.私はシャルリーの側にいるけれど、でもシャルリーは決して好きじゃないないのよね、と。