6月25日現在、東京五輪は開催が既定事項のように扱われ、以前は開催可能だとしても無観客が主流だったのだが、観客を入れるのが当然となり、その上限は1万人となった。
観客上限を決定した「5者協議」で、IOCの「ぼったくり男爵」ことトーマス・バッハは満面の笑みを浮かべていたが、むしろ有観客に固執していたのは、日本政府の側だったことがメディアでも明らかにされている。(菅首相が「観客が応援する、普通の状態で開催したがっている」 と周辺に伝えていた 東京新聞6月に22日)。
IOCと日本政府が開催に固執する理由
多数の人が集まれば、感染リスクが増大するのは、「やかんに水を入れ、ガスコンロにかけ、点火すればお湯が沸く」と同じくらい自明の理なのは、正常な判断能力があれば理解できることだ。五輪がその最たるものなのは、言うまでもない。また、無観客より有観客の方が、リスクが高まるのも自明の理である。
それらが理解できないはずのないIOCと日本政府が、開催に固執し、「安心・安全」を口にしながら、リスクが高まることまでを選択するのは何故なのだろうか?
IOCにとっては、日本の感染リスク増大や世界中へのウィルス拡散は所詮他人ごとである。日本がどうなろうと知ったこっちゃないし、また世界の感染状況はIOCでなく、WHOが心配することで、WHOがやめろと言わない限り、自分たちの責任ではないので、IOCの利益を優先するという姿勢は、言わば当然と言える。
しかし、日本政府は国民の健康に責任を持つので、IOCとは立場が違う。にもかかわらず、政府が開催を強行するのを、メディアでは「賭け」だという報道が多く見られる。菅首相には「五輪成功と接種加速で支持率は好転」という 期待があり(毎日新聞6月16日)、強行すのだろうというものだ。その姿勢を、戦争に突き進んで無残な敗北を喫した戦前と酷似していると考える者も少なくない(井上寿一・学習院大前学長 )。
確かに、どの程度感染が広がるかは分からないので「賭け」の要素は大きく、無謀に見える姿勢は、戦前の軍部を想起させる。しかし決定的に異なるのは、「賭け」である勝負の結果を、どうにでも言い繕うことができる点だ。例えコロナウィルスに負けたとして、政権忖度評論家、学者、メディアを総動員して、それを認めないどころか、あたかも勝利したかのように見せかければいいのだ。
菅首相にとって、初めから開催強行以外の選択肢はなかった
もとより、政府の判断の決め手は政治的にプラスかマイナスかでしかない。「政治的に」とは、次の選挙に有利かどうかである。では、五輪の中止を決定した場合に、選挙に有利に働くのだろうか? これには、野党支持者や無党派層の大半は好意的に捉えるだろう。だがしかし、自民党のコアな支持層は、必ず失望する。一時期、世論調査で中止または再延期が2/3を超えたことがあった。しかし、これは1/3は開催支持を意味している。この 1/3の大半こそがコアな自民党支持層なのである。
そのことは、安倍・菅政権を強力に支持してきた「正論」、「Hanada」、「Will」、週刊新潮などの極右メディアが、コロナウィルスによる直接の犠牲よりも、防疫対策での規制でもたらされる経済の疲弊による犠牲の方が大きいとする主張を見れば理解できる。この考えは、トランプやブラジルのボルソナロなどの極右との共通点でもある。また、極右に属さないとしても、経済の疲弊を何よりも嫌う層(各種の経済団体がその典型)は、五輪による「経済効果」を重要視し、少しでも安全対策をとれば感染を最小化できると考える。これらの層が開催支持者であり、コアな自民党支持層を形成しているのである。
世論調査でも、内閣支持率が減ろうとも、自民党の支持率は30%以上を常に維持している。それは、これらのコアな支持層が存在するからである。五輪の中止を決定すれば、長年にわたり自民党を支えてきた、これらの層の支持を失うことを意味する。そのような選択肢は、絶対にあり得ない。五輪は今年だけの問題だが、選挙は未来にわたって繰り返されるのである。それこそ「アルマゲドンでもない限り、東京五輪は計画どおりに開催される」(IOCディック・バウンド)のは、当初からの既定路線なのである。
五輪による感染拡大は、どうにでも言い繕うことができる
元内閣参与の高橋洋一は、日本の感染状況を欧米の陽性者確認数と比べ、「さざ波」と言った。確かに示されたグラフでは、欧米の巨大な波に比べ、日本の波の大きさは「さざ波」である。このtwitterの発言は、「さざ波」という言葉で大きな批判を浴びたが、その悪質性は「さざ波」という言葉にあるのではない。それは、都合のいいデータを集めて比較し、真の姿を捻じ曲げることにある。この場合で言えば、日本が含まれる東アジア・オセアニア地域と比べれば、日本は「大波」である。
このような恣意的操作をすれば、感染拡大はどうにでも言い繕うことができる。実際、感染拡大は人の集まりが終わった後にタイムラグをおいて現れるので、五輪開催中は大きなものにならない可能性が高い。その後の感染拡大は、GoToの時と同様に五輪との関連性は「エビデンスがない」と言えばいいのである。また、7月後半にはワクチンの効果も少しはあって、重症化する感染者は増えない可能性もあるので、目立った五輪の悪影響はない、と強弁することもできる。(このことは、五輪が開催されなければ、もっと重症者が減り、死なずにすむ人が増える、ということを意味する。)
多くの人に、スポーツは好ましいものと認識されている
ここ数週間で、テレビも新聞も五輪の予選を兼ねるスポーツ大会の報道が増えている。陸上日本選手権男子100メートルなどが大きく取り上げられるのはその典型である。これらの報道が、五輪開催を支持する層を増やす一因になっているのだが、そもそもそれは、多くの人にとって、スポーツ自体は好ましいものと認識されていることを示している。五輪が本番を迎えれば、視聴率や購読者稼ぎのためにマスメディアはさらに報道を加速させるだろう。
菅首相が「観客の応援する普通の状態」のこだわったのも、成功した五輪と見せかけるのに役立つ。テレビ中継された映像で、無観客では「普通」でないとすぐに気づくが、ある程度の応援する観客がいた方が、五輪のお祭りムードを醸し出すには適している。メディアはナショナリズムを刺激し、「日本選手の活躍は凄い」と、五輪への讃歌を大きく奏でるだろう。そうなれば、和泉洋人首相秘書官が「(世論は)ころっと変わると思いますよ」と言ったが、政権の支持率上昇は間違いないだろう。
他人の犠牲の上に成り立つ社会
高橋洋一が、日本の緊急事態宣言を「欧米に比べれば、屁みたいなもの」と言ったのは、欧米の行動規制と比べて日本は「緩い」規制だという意味では正しい。しかしそこには、現実に困窮する人たちへの配慮が完全に欠如している。欧米の規制は厳しいが、それに対する金銭的な救済措置は日本よりもはるかに厚くなされている。高橋はそこには言及しない。要するに、この人物にとっては、他人の犠牲など「屁みたいなもの」なのである。
菅政権の五輪強行開催は、コロナ対策に失敗し、落とした支持率を回復させる選挙対策としては正しいし、それ以外の選択はない。しかし、そこには五輪開催による犠牲は完全に無視されている。開催すれば、感染リスクは高まり、開催しなければ、それによるリスクはゼロである。ワクチンの効果で相殺され、数字として捉えられないとしても、開催による犠牲者(感染者と家族、医療従事者、感染リスクのために治療されなかった他の患者)は確実に出る。ワクチンの効果で感染と重症化リスクが減るが、五輪開催によるリスクが消滅するわけではない。五輪後にワクチンの効果で感染関連死が減少するとしても、開催されなければ、その数がさらに減るのは自明だからだ。
新自由主義は、競争至上主義で必然的に敗者を作り出す。その犠牲を顧みない、あるいは、矮小化する。それと同様のことが、新自由主義に突き進む政権において行われているのである。