夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

畏れ多くも畏くも、陛下が「反対」と宣い給うのだから、五輪は中止?

2021-06-28 09:19:59 | 政治
 
 6月24日に西村泰彦宮内庁が、天皇がコロナ危機下の東京五輪の開催を「懸念していると拝察した」と発言した。この発言に対し、菅首相は「(西村氏)本人の見解を述べたと理解 している」として、問題視しない考えを示した(読売新聞)という。しかし、五輪開催派の右派は「政治的発言で憲法違反」だという。極右の八木秀次麗澤大教授は「五輪を中止に追い込みたい人々は必ず政治利用するだろう。これは陛下のお立場として望ましくない(zakzak6.25)。」と反応した。
 
 この発言が物議を醸すことになったのには、海外メディアの報道も大きく影響している。24日にワシントン・ポストは「五輪開催に重要な不信任投票」と見出しを掲げるなど、海外メディアは概ね、天皇が五輪開催に反対しているという趣旨の報道をした。このような海外メディアの反応を、日本のメディアは大きく報じた。
 
 確かに五輪中止派の中には、「政治的発言でなく、陛下が国民を心配しただけ」「天皇の声は国民の声と捉えて真剣に向き合うのが当然だ。」(NEWポストセブン6.25)という声が多い。「歴史的メッセージはなぜ出されたのか?(aeradot.)」、「ご懸念を否定するのは、不敬ではないか(NEWポストセブン)」、立憲民主党の安住淳も「言葉の重みをかみしめなければいけない」などと言い(報道多数)、 天皇の「お気持ち」は重要だとして、中止に結びつけたいという意図が表れているものも散見される。
 しかし実際には、多くの国民が、天皇の発言によって、「開催すべきだ」から「中止すべき」にというように、意見を変えるというようなことは考えづらい。ネット上でも、もともとの中止派が「天皇も心配している」と言い、開催派は「政治利用するな」と言っているだけで、天皇の発言によって意見が変わったなどというツイートは皆無といっていい。国民の多くは、天皇がこう言ったから、それに従おうなどとは思わないのである。
 
 結局のところ、中止派の一部が重要視すべきだと言い、開催派は「政治利用を恐れた」だけであり、中止派の勢いが増したなどとはなっていない。上記のワシントン・ポストは「日本政府やIOCを当惑させるだろう」 と書いたが、天皇の意向が、世論を左右することはなく、日本政府もIOCも当惑するような動きは起きていない。

 メディアでは憲法学者の発言は多くは紹介されていないが、九州大の南野森教授(憲法学)が 「天皇の気持ちの代弁は悪用されれば政治利用につながる。それこそ憲法が警戒していること」(jiji.com)というのが、平均的なものだろう。憲法第4条の「天皇は」「国政に関する権能を有しない」とは、天皇の、国政に与える一切の影響を排除すると解釈すべきであるからだ。それは、歴史上、天皇の名において、様々な行為がなされたことへの反省でもある。これは極めて重要であり、天皇の「お気持ち」が、五輪が国家の事業という性格を持つ以上、それをどうすべきかに影響などあってはならないのである。
 当然のことだが、五輪中止派の多くの人たちは、その原則を理解している。立憲民主党を社会民主主義的な党に近づける努力をしている山口二郎法政大教授は、twitterで「私は天皇発言を契機に五輪中止の流れが強まることは日本の政治にとって結果オーライでは済まないになると思う。止めることには賛成だが、止め方が問題」と言っている。また、日本共産党の志位和夫は「天皇は憲法で政治に関わらないことになっており、それをきちんと守ることが必要だ」 と言っている。(複数の報道)
 本質的には、天皇が「ご心配されているから」などと言うのは、「畏れ多くも畏くも、陛下が『反対』と宣い給うのだから、五輪は中止すべき」と言うのと、大きな差はないのである。
 
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「自民党選挙対策のための五輪。真実をねじ曲げ、コロナに打ち勝ったと宣伝し、総選挙勝利」

2021-06-26 14:40:16 | 政治
 
 6月25日現在、東京五輪は開催が既定事項のように扱われ、以前は開催可能だとしても無観客が主流だったのだが、観客を入れるのが当然となり、その上限は1万人となった。
 観客上限を決定した「5者協議」で、IOCの「ぼったくり男爵」ことトーマス・バッハは満面の笑みを浮かべていたが、むしろ有観客に固執していたのは、日本政府の側だったことがメディアでも明らかにされている。(菅首相が「観客が応援する、普通の状態で開催したがっている」 と周辺に伝えていた 東京新聞6月に22日)。
 
 IOCと日本政府が開催に固執する理由
 多数の人が集まれば、感染リスクが増大するのは、「やかんに水を入れ、ガスコンロにかけ、点火すればお湯が沸く」と同じくらい自明の理なのは、正常な判断能力があれば理解できることだ。五輪がその最たるものなのは、言うまでもない。また、無観客より有観客の方が、リスクが高まるのも自明の理である。
 それらが理解できないはずのないIOCと日本政府が、開催に固執し、「安心・安全」を口にしながら、リスクが高まることまでを選択するのは何故なのだろうか?

 IOCにとっては、日本の感染リスク増大や世界中へのウィルス拡散は所詮他人ごとである。日本がどうなろうと知ったこっちゃないし、また世界の感染状況はIOCでなく、WHOが心配することで、WHOがやめろと言わない限り、自分たちの責任ではないので、IOCの利益を優先するという姿勢は、言わば当然と言える。
 しかし、日本政府は国民の健康に責任を持つので、IOCとは立場が違う。にもかかわらず、政府が開催を強行するのを、メディアでは「賭け」だという報道が多く見られる。菅首相には「五輪成功と接種加速で支持率は好転」という 期待があり(毎日新聞6月16日)、強行すのだろうというものだ。その姿勢を、戦争に突き進んで無残な敗北を喫した戦前と酷似していると考える者も少なくない(井上寿一・学習院大前学長 )。
 確かに、どの程度感染が広がるかは分からないので「賭け」の要素は大きく、無謀に見える姿勢は、戦前の軍部を想起させる。しかし決定的に異なるのは、「賭け」である勝負の結果を、どうにでも言い繕うことができる点だ。例えコロナウィルスに負けたとして、政権忖度評論家、学者、メディアを総動員して、それを認めないどころか、あたかも勝利したかのように見せかければいいのだ。

菅首相にとって、初めから開催強行以外の選択肢はなかった
 もとより、政府の判断の決め手は政治的にプラスかマイナスかでしかない。「政治的に」とは、次の選挙に有利かどうかである。では、五輪の中止を決定した場合に、選挙に有利に働くのだろうか? これには、野党支持者や無党派層の大半は好意的に捉えるだろう。だがしかし、自民党のコアな支持層は、必ず失望する。一時期、世論調査で中止または再延期が2/3を超えたことがあった。しかし、これは1/3は開催支持を意味している。この 1/3の大半こそがコアな自民党支持層なのである。
 そのことは、安倍・菅政権を強力に支持してきた「正論」、「Hanada」、「Will」、週刊新潮などの極右メディアが、コロナウィルスによる直接の犠牲よりも、防疫対策での規制でもたらされる経済の疲弊による犠牲の方が大きいとする主張を見れば理解できる。この考えは、トランプやブラジルのボルソナロなどの極右との共通点でもある。また、極右に属さないとしても、経済の疲弊を何よりも嫌う層(各種の経済団体がその典型)は、五輪による「経済効果」を重要視し、少しでも安全対策をとれば感染を最小化できると考える。これらの層が開催支持者であり、コアな自民党支持層を形成しているのである。
 世論調査でも、内閣支持率が減ろうとも、自民党の支持率は30%以上を常に維持している。それは、これらのコアな支持層が存在するからである。五輪の中止を決定すれば、長年にわたり自民党を支えてきた、これらの層の支持を失うことを意味する。そのような選択肢は、絶対にあり得ない。五輪は今年だけの問題だが、選挙は未来にわたって繰り返されるのである。それこそ「アルマゲドンでもない限り、東京五輪は計画どおりに開催される」(IOCディック・バウンド)のは、当初からの既定路線なのである。

 五輪による感染拡大は、どうにでも言い繕うことができる
 元内閣参与の高橋洋一は、日本の感染状況を欧米の陽性者確認数と比べ、「さざ波」と言った。確かに示されたグラフでは、欧米の巨大な波に比べ、日本の波の大きさは「さざ波」である。このtwitterの発言は、「さざ波」という言葉で大きな批判を浴びたが、その悪質性は「さざ波」という言葉にあるのではない。それは、都合のいいデータを集めて比較し、真の姿を捻じ曲げることにある。この場合で言えば、日本が含まれる東アジア・オセアニア地域と比べれば、日本は「大波」である。
 このような恣意的操作をすれば、感染拡大はどうにでも言い繕うことができる。実際、感染拡大は人の集まりが終わった後にタイムラグをおいて現れるので、五輪開催中は大きなものにならない可能性が高い。その後の感染拡大は、GoToの時と同様に五輪との関連性は「エビデンスがない」と言えばいいのである。また、7月後半にはワクチンの効果も少しはあって、重症化する感染者は増えない可能性もあるので、目立った五輪の悪影響はない、と強弁することもできる。(このことは、五輪が開催されなければ、もっと重症者が減り、死なずにすむ人が増える、ということを意味する。)
 
 多くの人に、スポーツは好ましいものと認識されている
 ここ数週間で、テレビも新聞も五輪の予選を兼ねるスポーツ大会の報道が増えている。陸上日本選手権男子100メートルなどが大きく取り上げられるのはその典型である。これらの報道が、五輪開催を支持する層を増やす一因になっているのだが、そもそもそれは、多くの人にとって、スポーツ自体は好ましいものと認識されていることを示している。五輪が本番を迎えれば、視聴率や購読者稼ぎのためにマスメディアはさらに報道を加速させるだろう。
 菅首相が「観客の応援する普通の状態」のこだわったのも、成功した五輪と見せかけるのに役立つ。テレビ中継された映像で、無観客では「普通」でないとすぐに気づくが、ある程度の応援する観客がいた方が、五輪のお祭りムードを醸し出すには適している。メディアはナショナリズムを刺激し、「日本選手の活躍は凄い」と、五輪への讃歌を大きく奏でるだろう。そうなれば、和泉洋人首相秘書官が「(世論は)ころっと変わると思いますよ」と言ったが、政権の支持率上昇は間違いないだろう。
 
 
 他人の犠牲の上に成り立つ社会
 高橋洋一が、日本の緊急事態宣言を「欧米に比べれば、屁みたいなもの」と言ったのは、欧米の行動規制と比べて日本は「緩い」規制だという意味では正しい。しかしそこには、現実に困窮する人たちへの配慮が完全に欠如している。欧米の規制は厳しいが、それに対する金銭的な救済措置は日本よりもはるかに厚くなされている。高橋はそこには言及しない。要するに、この人物にとっては、他人の犠牲など「屁みたいなもの」なのである。
 菅政権の五輪強行開催は、コロナ対策に失敗し、落とした支持率を回復させる選挙対策としては正しいし、それ以外の選択はない。しかし、そこには五輪開催による犠牲は完全に無視されている。開催すれば、感染リスクは高まり、開催しなければ、それによるリスクはゼロである。ワクチンの効果で相殺され、数字として捉えられないとしても、開催による犠牲者(感染者と家族、医療従事者、感染リスクのために治療されなかった他の患者)は確実に出る。ワクチンの効果で感染と重症化リスクが減るが、五輪開催によるリスクが消滅するわけではない。五輪後にワクチンの効果で感染関連死が減少するとしても、開催されなければ、その数がさらに減るのは自明だからだ。
 新自由主義は、競争至上主義で必然的に敗者を作り出す。その犠牲を顧みない、あるいは、矮小化する。それと同様のことが、新自由主義に突き進む政権において行われているのである。
 
 
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菅首相は「分科会の了承を得ました」と言うが、「分科会」は首相より上位の機関なのか?

2021-06-22 10:17:43 | 政治
「分科会」は首相より上位の機関?

「イベント上限1万人案を分科会了承」ANN6月16日
「東京など『重点措置』移行 関東3県の期間延長 分科会了承」NHK6月17日
 昨年来、このようなコロナ対策の政府案を「分科会が了承」という言葉が、マスメディアから、たびたび流される。菅首相も「分科会の了承を得ました」と記者会見で、この言葉を使う。「了承」とは、「上司の了承を得る」というように使われる言葉であって、「部下の了承を得る」とは使われず、言外に「上司の了承を得なければ、それはできない」という意味を持つ。この言葉を言葉どおりに捉えれば、了承が得られたから実施するのであり、了承が得られなければ政府案は実施しないというふうに解釈できる。これでは、あたかも内閣府総理大臣より「分科会」は上位にあり、政府案に対する決定権を持つことになってしまう。こんな馬鹿げたことがあるのだろうか?

分科会とは
 この分科会とは、新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成 24 年法律第 31 号)の 第七十条の二 「新型インフルエンザ等対策の推進を図るため、内閣に、新型インフルエンザ 等対策推進会議(以下「会議」という。)を置く」の「会議」の一部のことである。同年8月3日、上記の法に基づく「新型インフルエンザ等対策閣僚会議」の下に「有識者会議」が置かれた。その中の分科会として、令和2年2月14日の「感染症対策本部」決定により「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が置かれ、令和2年7月3日の 閣議決定で「新型コロナウイルス感染症対策分科会」に変更され、現在に至っている。それがこの「分科会」である。しかし、政府が設置したのはこれだけではなく、厚労省内に「アドバイザーリポート」「クラスター対策班」、有識者会議の下に「諮問会議」などがあり、ほぼ同じメンバーで設置されている。法的根拠は特別措置法にあるはずなのだが、実際には「感染症対策会議決定」の名のもとに乱立され、それがこの「分科会」の位置づけを不明瞭にした一因ともなっている。
 その役割は、上記の特別措置法以外の根拠はあり得ない。それは、第七十条の三での、「次に掲げる事務をつかさどる」ことであり、「内閣総理大臣又は政府対策本部長に意見を述べること」と、「新型インフルエンザ等対策について調査審議し、必要があると認めるときは、内閣総理大臣又は政府対策本部長に意見を述べること 」だけである。当然のことだが、「調査審議し」、「意見を述べる」だけの機関であり、どこにも「政府案を了承する」かどうか権限がある、などとはなっていない。
 
 政府に飲み込まれた「会議」
 日本政府は数多くの専門家による諮問会議を設置しているが、その狙いは政策は「専門家」の意見を聴いて実行しているという形を取りたいためである。だから、「専門家」と言っても、政府に忠実な意見を持つ人物しか選考しない。コロナ対策も、「専門家」の意見を聴いて対策を講じているとしたかったのだと思われる。しかし、通常の政策とは違い、コロナ対策は大問題であるため、他の政策とはけた違いに失敗は責任を問われるので、それは避けたい。また、対策は専門家の意見と同じで医学的・科学的見地に基づいているというイメージをつくりたい。そのために、「専門家会議」も実際は政府の一部機関に過ぎず、上からの圧力で政府案に沿った意見を言わせる。あるいは、部分的な反対意見は公表しない。記者会見に同席させ、一体化しているように見せかける。そういった工作が行われた。この責政府側の罠に「専門家」がまんまと嵌ったのである。
「国の政策や感染症対策は専門家会議が決めているというイメージが作られ、あるいは作ってしまった(毎日新聞2020.6.30)」と専門家会議の脇田隆宇が言ったのは、実情を表している。
 菅首相が「分科会の了承を得ました」というのは、その延長線上にあるのである。
 
 腰砕けの「尾身会長の反乱」
 「分科会会長」の尾身茂も、さすがに医学者としての良心に目覚めたのか、最近になって、政府と異なる意見を公表するようになった。5月14日に政府方針に反し、緊急事態宣言の対象地域を拡大すべきだと発言し、東京五輪には「パンデミックの状況でやるというのは、普通はない 」と言った。パンデミックは終わりそうもないのであるから、「普通はない」というのは、「中止すべきだ」という意味である。
 しかし、その後は菅政権幹部からの批判もあり、トーンダウンし始めた。尾身と分科会有志でまとめた「提言」でも、無観客開催が望ましいとも記したが、中止は求めなかった。 また、開催での感染リスクを「無観客」「有観客」に分けて 細かく注文をつけた。
 にもかかわらず、それに対して、政府、IOCや組織委員会の対応は、「完全無視」というものだった。数ヶ月前までは、開催しても「無観客」の流れができつつあったのだが、世論調査で開催中止派が減少したのを見計らって、観客上限1万人と決定したのだ。政府に逆らう「専門家」に用はない、ということである。 
 
 政権から独立した医学的機関?
 現在の政府内部に取り込まれた「専門家会議」や「分科会」ではなく、アメリカのCDCのような、政権から独立した機関が必要だという意見がある。確かに、そうであれば、尾身茂も「学者の良心」を疑われることなく、もっと自由な発言ができただろう。しかしそれでも、安倍・菅政権は耳を傾けるふりをするだけで、政策決定には影響させないに違いない。もともと政権には、科学的、医学的見地に従う気などさらさらないのである。この辺は、トランプやブラジルのボルソナロと同様なのであって、最も優先すべきは「経済」なのである。それを変えさせるのには、やめてもらうしかないのである。
 
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「ワクチンの接種 高齢者の中で、弱い立場の人たちは置き去り」

2021-06-14 09:33:00 | 政治
 政府は接種数稼ぎに邁進
 4月23日に、菅首相は「希望する高齢者に7月末を念頭に、各自治体が2回の接種を終えることができるよう、政府を挙げて取り組んでいく」 と言った。3,600万人の高齢者に接種完了するためには、7,200万回が必要だ。「希望する高齢者」と言っているので、その8割としても、5,760万必要になる。実際の接種状況は、6月10日累計で高齢者は、1,250万回である。単純計算で、4,510万回、残り51日で割れば、1日平均88.4万回で可能ということになる。首相は1日100万回と言ったので、それより少ないので一見できそうな数字である。
 しかし、これは「捕らぬ狸」に過ぎない。5月下旬から大規模会場の設置等で接種が加速したと言っても、6月に入った10日間で、1日平均50万回を超えるのがやっとという状況である。今後平均88万回に達するには、途方もない加速が必要になる。
 政府の大規模会場でも、予約が減り、対象を全国に広げざるを得ない状況である。さらに、7月になれば、酷暑が待ち構えており、高齢者は熱中症の心配もしなければならない。また、諸外国の例でも、接種開始から3、4か月程度で接種数はピークを迎え、その後が下がり続ける傾向がある。それは、早く打ちたいという層は一定限度しかいないので、様子見や躊躇する層がかなりいるからである。国の大規模会場だけでなく、自治体設置の大規模会場も予約が埋まらないという現象が起きている。早く打ちたい「元気な高齢者」は、当初、予約に殺到したが、少し遅れても自宅近くの比較的安全な場所で打ちたいという高齢者の方が、実際にははるかに多いのである。
 政府は、高齢者だけでなく、対象を大幅に拡大し、職域接種などを開始し、接種数稼ぎに躍起になり始めた。接種体制の人材・資材には限界がある。高齢者以外にそれらがまわれば、その分、高齢者分は減ることになる。それらを考え合わせれば、全体の接種が100万回に達したとしても、高齢者分は、恐らく平均では、60万回が限界だろう。
 1日平均60万回だとして、7月末まで残り5 1日で、3,060万回。現在累計の1,250万回と合わせ、4,310万回である。これを、接種1回と2回に分ける。先行するドイツでは今の現状は、1回だけ1,900万人、2回完了2,000万人(4,000万回)、計5,900万回である(少なくとも1回は3,900万人)。およそこの比率で行けば、1回だけ1,510万人、2回完了1,400万人(2,800万回)、少なくとも1回が2,910万人となる。
 これは、2回完了者が高齢者3,600万人の39%、少なくとも1回が81%となる。恐らく政府はこれだけの接種率をあげれば、7月完了などと言ったことはわきに置き、少なくとも1回が8割を上回るのだから、希望者は終わったも同然だと喧伝するだろう。

 接種が難しい高齢者『ワクチン難民』のおそれ
 しかし、高齢者接種には、もっと多くの問題がある。認知症や寝たきりを含めた要介護の人たちのことである。テレビに映る予約に殺到する「元気な高齢者」は一部でしかない。厚労省によれば、要介護の人口は全国で658万人(2018年)、65歳以上の認知症患者は16.7%602万人(内閣府高齢白書2020年)にものぼる。当然、認知症で要介護の場合も多く、合算することはできないが、65歳以上でそれらに該当する人口は、800万人程度はいると思われる(正確なデータは厚労省にもない)。
 もともと、厚労省が計画した65歳以上を対象とする接種は主に(1)市区町村が実施する集団接種(2)かかりつけ医による個別接種(3)自衛隊や都道府県が運営する大規模接種会場での接種 となっており、それ以外は例外扱いで、寝たきりの在宅接種は、訪問診療している医師が対応することになっている。
 
 4月12日から始まった高齢者への接種は2か月が経過し、1回目1,100万人、2回目180万人が接種したという実績は公表されているが、施設や寝たきりの人たちへの接種がどうなっているのかは、厚労省でも把握していない。メディアによれば、「外出難しい高齢者『ワクチン難民』のおそれ」(京都新聞6月13日)など、遅れている状況が断片的に報道されている。寝たきりの人への一軒一軒の訪問接種は、とてつもない労力と時間を要する。さらに、認知症の人の接種に対する意思をどう確認するのかなど、難問は山積みである。このことからも、自治体も接種実績を増やすため、集団接種やかかりつけ医の支援に力を注ぐが、高齢者施設や在宅者にはなかな手が回らない現状が見て取れる。

 
 上図は、原田隆之助筑波大教授がワクチン接種の意向調査をまとめたものである。60代以上で、「多分打つ」が47%、「様子を見て判断」が10%である。これは、半数以上が「慌てて打つことはない」ということを表しており、大規模会場の予約が埋まらない現状に合致している。それより若い世代では、「絶対打つ」は10%を超える程度で、「様子を見て判断」が1/3から半数近くになる。これはどういうことを示しているかと言えば、先行する欧米の数か月ごに徐々に接種数が減っていく現象の理由を表わしている。アメリカでは、1回目接種が成人の50%を超えた頃に、急激に接種数が落ちた。これは、日本同様に「多分打つ」「絶対打つ」層が打ち終わると、残りの成人の半数近くは「打たない」「様子を見て」という意向を持っていることの表れなのだと解釈できる。
 アメリカでは、接種数を増やすために、高額当選のくじびきをつけるなど様々な接種のプレミアをつけている。それほど、一定期間が経過すると接種速度が落ちるのである。これは、いずれどこの国も体験することになるだろう。つまり、その分だけ集団免疫の獲得までの期間が延びることを意味している。
 日本の集団免疫獲得を、早くて来年春という予測もあるが、もっとはるか先に延びるだろう。その間は、ワクチンによる効果で、感染は以前より抑えられる。しかしそれでも、低いレベルで拡大・縮小を繰り返し、感染者がいなくなることも、それによる死亡者がなくなることはない。ワクチン未接種者の感染リスクと重症化リスクは、接種済みの人たちより、高いのは変わらない。
 集団免疫獲得は国民全員の接種を意味しないので、接種が困難な対象者の接種を必要としない。そのことが、接種を希望する、あるいは、重症化しやすいので接種すべきと考えられる層を置き去りにしかねない。その層こそが、高齢者の中で弱い立場の人びとなのである。このまま行けば、その人たちは忘れさられ、間違いなくワクチン接種から置き去りにされるだろう。
 


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五輪が惨憺たる結果に終わっても、首相はエビデンスがないと言って間違いを認めないだろう

2021-06-09 13:23:50 | 政治
 
 もはや、五輪が強行開催されるのは、間違いなさそうだ。世論調査でも6月に入り、読売新聞、JNNとも、中止・延期が減少し、観客制限を含めた「開催すべき」が全体の半数近くにまで達した。5月までは、日に日に開催中止の意見が強まっていたのだが、6月なって反転した形だ。これは、どうせ開催されるのだから、少しでも安全にやってもらいたい、という一種の諦めの気持ちから来るものだと思われる。JNN調査で、無観客と観客数制限が計8%増えたことが、それを表している。政府も組織委員会も、この「開催すべき」の増加に図に乗り、それまでの無観客から有観客に方針を切替つつある。
 強行開催される五輪が、惨憺たる結果になるのは間違いない。変異株の脅威と相まって、感染は日本にも、海外にも拡大するだろう。また、選手を派遣できる国と派遣できない国、五輪に向けた練習を満足にできた選手とできなかった選手、それらの五輪史上最悪の不公平な大会となる。さらに、最近は忘れ去られたようになっているが、日本の酷暑により、選手、関係者に体調を崩す者が続出するだろう。6月で既に30度を超える日がある日本の7月8月は灼熱地獄のようなものであり、コロナウイルスともに、危険であるのは明らかである。
 これほど惨憺たる状況が誰にでも予見可能な五輪を強行開催する責任は、一体誰にあるのだろうか?
 
 首相の菅義偉は、国会答弁で「私は主催者ではない。東京都、組織委員会、IOCなどによって最終協議される」(6月7日)と言い、自分に責任はないと、早 々と逃げ口上を使っている。これは、菅自身がいい結果に終わるはずはないと予見していることを、暗に認めたようなものだが、主権国家の政府が拒否すれば、五輪などできるはずはないのは自明であり、「馬鹿げた」としか言いようのない発言である。主権がIOCだというのは、単なる形式に過ぎない。2024年のパリもマクロン(マクロンは来年の大統領選に負けるだろうが)、がNonと言えば、実際には開催できない。
 そもそも、五輪の誘致をしたのは自治体の東京都だが、政府の全面的支援によるものだ。これは、日本に限らず、全世界で行われていることだ。リオデジャネイロで、スーパーマリオに扮し、「次は東京」とアピールしたのは、日本の首相である。五輪が国家の威信をかけた行事であるのは、誰も疑うことはできない。
 第一義的に、主権国家の中で行われることの責任が、出入国管理を含め、あらゆる秩序を統治する政府にあるのは当然のことである。

 菅首相も西村康稔経済再生担当相 も、GoToトラベルが感染拡大の主要な要因であることの「エビデンス」はない、と言った。恐らく、五輪による感染拡大に対しても、この「言い訳」が使われるだろう。感染拡大には多くの要因があり、その内の一つの事象を主要因と結論づけるのは、容易ではないからだ。「エビデンス」がないと言えば、いくらでも言い逃れることができる。そこには、「見解の相違」が入り込むので、政府系の学者・評論家を総動員すれば、いかようにも言い逃れることができる。高橋洋一元内閣参与が、都合のいいデータだけを比べ、日本の感染状況を「さざ波」と言ったように、五輪と感染拡大は無関係と言い放つ学者・評論家を総動員すればいいのである。例え酷暑による熱中症で死者が出たとしても、暑さ対策は個人の責任、現場管理者の責任だ、と言えばいいのである。
 
 五輪後に待っているのは、総選挙である。9月には、ワクチン接種もいくらかは進んでいると思われる。接種の優先順位を無視し、社会的不公平も不平等もかなぐり捨てて、全体接種数を上げることだけを目指す政府は、国民全体の接種人数が増えたことだけを宣伝するだろう。そして、ワクチンの接種率上昇とともに、感染も少しは抑えられている可能性がある。菅首相は、9月に解散、10月初旬に総選挙に打って出るだろう。その時が、政府の責任を問う唯一の機会なのである。
 GoTo政策と五輪を強行し、科学とは正反対の感染防止対策をとり、医療を逼迫させ、1万数千人の死亡者を出した政府の責任を、国民はどう追求するのか? それが、この総選挙の意義となる。

 
 
 
 
 
 
 
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