夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

コロナ危機「このままでは、10年たっても以前の自由な生活に戻れない。鍵は徹底検査しかない」

2021-10-23 10:30:51 | 政治
 日本の医学専門家は、第6波は必ず来ると言う。冬に向かい、飲食の機会も増大するから、昨年同様、大きさは分からないが次の感染の波は確実に来るだろう。そしていくらかおさまり、またその次の波が来る。それを繰り返す。
 行動規制は、単に経済を抑制するだけではない。人間の根源的な生活の自由を束縛する、そのことが忘れられている。人はいつまで煩わしいマスクをしていなければならないのか? また、人間どうしのコミュニケーションの自由が保たれる、以前の自由な生活に、いつ戻れるのか?
 

認証店」に意味はほとんどない
 第5波から感染確認数は激減し、行動自粛を緩める動きが現れ、これまでの飲食店の営業の規制緩和が実施されようとしている。東京都では、10月25日から、特に「認証店」はこれまでの規制が全面解除となる。
 とは言っても、それまでも酒の提供は夜8時までだが、9時までの営業は許されていた(日経新聞によれば、実際には9時以降も営業を続けていた飲食店の方が多かったという)のだから、9時までは感染しないが、9時以降は感染すると言っているようなもので、日本的中途半端、いい加減さが如実に表れている規制だったと言える。
 「認証店」といっても、顔の位置を遮る程度のアクリル板、手指の消毒、できる範囲の換気、飲食時以外のマスク着用の推進、といったものぐらいで、ほとんど感染予防には、効果が極めて薄いものばかりである。
 Covid-19は、多くは唾液等による飛沫感染と呼気からの空気感染(エアロゾル感染)することが分かっており、アクリル板は飛沫感染にいくらか防止になるが、空気感染には役に立たない。また、手指の消毒、僅かな換気などをしたとしても、それでは防ぎようがないのは、世界的には常識である。マスク着用は、酒を飲む行為では、口に飲食物を運んでいる時間の方が長いのであり、また酒盛りは、お通夜ではないのだから、会話を楽しむ行為でもある。当然、飲みながら、食べながら会話を楽しむのである。食事だけなら黙りこくってマスクは可能だが、酒が伴えば、マスク着用など不可能なことは、酒を飲む者なら誰でも分かる。つまり、「認定店」であろうがなかろうが、そこに一人でも感染者(一定程度以上のウイルス保有者)がいれば、近くにいる者の感染リスクはほぼ同じである。
 日本は飲食店規制を重点にしてきたが、飲食店利用者の数が、第5波の前に増大し、第5波後に激減したなどということはない。つまり、確認数激減の理由は分からないが、その大きな増減には、飲食店利用者数は直接にはまったく影響していないのである。結局のところ、日本の飲食店規制は、飲食が感染リスクが高いというイメージを発信するだけのものだったのである。そのイメージにより感染予防に敏感なかなりの数の層が、飲食店を避けていたのである。この規制は、自粛ムードを保つ効果はあったと思われるが、飲食店はそのムードを保つための犠牲になったのである。
 日本のコロナ対策は科学を無視していると言われるが、上記のように、合理性もないのである。
 
 
 コロナ予防対策は、物理的距離の対応(行動規制等)、ワクチン接種、医療体制の強化、検査が世界的標準と言っていい。その内、日本では世界と比較して、ワクチン接種だけは進んでいる。
日本のワクチン接種2回完了者は、欧米平均を超えた。
主要国全人口ワクチン完了割合と直近1日当り平均死者数(10月17日)
スペイン79.2% 48人
中国72.6% 0
イタリア71.4% 33人
フランス67.1% 15人
日本66.4% 27人
英国65.7% 148人
ドイツ65.1% 28人
韓国62.5% 18人
アメリカ56.1% 1819人
オーストラリア54.9% 10人
ロシア31.3% 1002人
Our World in Dataによる
 欧米では、ワクチン接種が頭打ちになっているが、日本では現在も1日70~80万回の接種が行われており、順調に進んでいる。その理由は、欧米では思想的ワクチン忌避者が多く、接種が頭打ちになっているからである。日本の場合は、ワクチン忌避といっても、「何となく不安だ」というようなもので、強い意思による者は少ないと思われる。多くに人が多数派に従うという国民性なので、「みんながやるなら自分も」というように、順調に進んでいるのである。勿論そこには、政府のワクチン供給遅れの不手際はあったものの、接種を直接行う地方自治体がフル回転している功績が最も大きい。医療従事者、65歳以上が90%を超えていることを考えれば、全体で80%程度は、1,2か月で進むと思われる。ワクチン接種の遅れが、欧米の場合は、アメリカを見れば分かるるように、政治的思想と深く関係しているが、このようなことは日本では見られない。
 上記の表で、ロシア、アメリカ、英国の死亡数が多い。それは、ロシアは、ワクチン接種が進まないこと、アメリカ、英国はワクチン完了率が50%を超えたところで、早々と7月に行動規制を撤廃したため、それが結果的に早すぎた影響だと思われる。アメリカは、民主党支持者の多く住む地域は完了率70%(バーモント州70.1%)、共和党支持者の多い地域は50%未満(アイダホ州42.4%)と差が大きいので、ワクチン接種が遅れている地域の死亡者が多い。英国では、直近で1日感染確認数が4万人を超え、死亡者も周辺国の人口比で5倍以上である。
 欧米で早々と行動規制を撤廃したのは、ワクチン接種が60%程度で既感染者と合わせれば、集団免疫獲得に近づくと考えられていたことと行動の自由の抑制に我慢ができなくなったからである。英国もアメリカも新規感染確認数がそれぞれ4万人、8万人と人口換算で日本の100倍、死亡者も日本の英国10倍、アメリカ50倍と、ワクチン接種率の低いロシア並みに悪化しているのだが、行動規制の動きは見られない。両国とも規制への反発が強く、今後の規制は不可能である。
 
医療体制は、いくらか改善
 医療体制は、いくらか改善され、コロナ対応病症も増加しているが、根本的な欧米並みの公的医療体制の強化は、新自由主義の影響下にある自公政権では不可能である。したがって、現行医療体制のもとでのいくらかの改善で、日常生活の復活を考えなければ、何年たっても、そこには戻れないことになる。
 
日本の検査数は、相変わらず少ない
 1000人当り直近1週間1日平均検査数(PCRと抗原、主にPCR)10月17日
英国 13.42
イスラエル 11.24
シンガポール 10.23
フランス 6.65
アメリカ 3.88
ドイツ 1.53
ベトナム 1.36
インド 0.96
タイ 0.74
韓国 0.66
日本 0.44
(中国 データなし)         
Our World in Dataより
このデータは主に国主導の行政検査で行われている検査数が主で、民間で行われ、国に報告されていない検査は含まれていないと思われるが、各国の検査数の概要は表われている。相変わらず、日本の検査数は著しく少ないのである。
 ここうして見ると、日本は世界との比較では、ワクチン接種は最先端、医療体制はやや改善、検査だけが著しく劣るということが分かる。政府系専門家の尾身茂は、昨年、「本当の感染者は、何人いるか分からない」と国会で答弁したが、検査数が少な過ぎて、本当のところは皆目分からないと認めたのである。それが、未だに改善されていないのである。
 そもそも、日本で検査が抑制されてきたのは、抑制論に立つ専門家が、PCR検査の偽陰・陽性の可能性と「無症状の感染者は感染させない」ので無症状の検査は不要という主張をしたためである。それによって、未だに行政検査は有症状者とその濃厚接触者に限っている。しかしその主張は、前者は複数回の検査で精度を上げ得るし、後者は、発症前の無症状感染者は有症状者と同様に感染させるということから、根拠が極めて薄いと証明されている。後者の方は、未だに主張する医師がいるが、無症状感染者全体では、有症状者の感染力の3~25倍低い、さらに無症状者はウイルス量が少ないので、偽陰性が出やすいという論文を根拠にしている。しかしそれは、発症前からウイルス量は増大し、発症2日前、つまり無症状の時点から感染力が上がることを無視している。無症状の状態からその感染者が発症するかどうかは分かりようがない。無症状者の検査が無駄だというのなら、濃厚接触者の多くは無症状であり、検査の必要性もなくなり、無症状者は感染させないのなら、無症状の濃厚接触者は隔離の必要もない。したがって、どう考えても無症状でも検査は有効なのである。それはオリンピックの選手・関係者にも行われたことである。そのこと自体がまったく批判されなかったのは、全員・複数回検査が検査抑制派も有効であることを認めざるを得なかったということである。
 
日本の「実証実験」
 日本でスポーツ観戦などに、「接種・検査済み」者を対象に、事後の健康アンケート調査を実施するという試みが行われている。感染が出た場合の事後の追跡と観戦のマスク着用等の行動パターンで感染に変化があるかなどを調査するというものだ。政府は、今後は飲食店、小劇場にも拡大する予定だという。しかし、ここでも、問題は検査にある。日本医師会の釜萢敏理事は「陰性証明の結果が本人のものだという担保」が難しいと認めている。要するに、行政検査としての検査が少なく、かつ簡便に受けられるシステムもなく、しかたなく民間で受けた検査は本当のものかわからない、ということである。

衛生パスpass sanitaire(ワクチンパスポート、グリーンパス)
 マスク着用は、かなりの確率で感染を予防できるので、街中の人混みや公共交通機関では、それが予防対策になる。しかし、マスク着用が難しいのは、飲食時だけでなく、観戦観劇等の非日常的感情に包まれる場所では難しい。また、恋愛の入り口にいる者たちなど、相手との深いコミュニケーションを取ろうとする状況では、マスクは着用したくないと誰しも思うだろう。
 これらのことから、感染が起きやすい状況では、ウイルス保有者が少なければ少ないほど好ましいと判断されのである。そして、ウイルスを保有している可能性が低いことを示せるのは、今のところ、ワクチン接種2回完了とPCR検査陰性証明である。当然、ワクチン接種かつ検査陰性が最もウイルス保有の可能性が低い。したがって、日本でも検討が進み、欧米中心に行われているワクチンと検査のパスポート、衛生パス(pass sanitaire)やグリーンパスは、合理性があるのである。
 実際に、イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア 、スイスなどは、飲食店、文化施設等に入るには、このパスの提示が義務化されている。欧州内ではこれらの国は、導入していない国に比べ、感染確認数が5~10分の1である。例えば、実施を見送った英国との感染状況の差は、直近1日確認数英国5万人に対し、厳格に実施されているフランス6千人、イタリア4千人と歴然としている。このことは、衛生パスが国民全体のワクチン接種と検査を押し上げており、それが感染抑止に繋がっていると考えられる。
 
 このパスは日本政府も進めようとしている。しかし、「実証実験」同様、ここでも問題は検査にある。日本政府もマスメディアも「ワクチンパスポート」とワクチンだけを強調するが、海外ではそのようには呼ばない。ワクチンが接種できない人もいるので、ワクチン接種と検査はセットとして扱われており、衛生パスやグリーンパスと呼んでいる。日本でワクチン接種は公的証明が可能であるが(システムの入力ミスが散見されるが)、民間の検査は本人かどうかの証明ができない。自宅等で検査キットに入れたサンプルが本人のものかどうかなど、分かりようがない。さらに抗原検査では精度が劣る。検査証明をより正確に行うには、PCR行政検査の拡充が必要だが、行政検査でないにしても、現状のように民間検査の野放し状態ではなく、公費の補助と公的証明化と同時に、いつでも検査を受けられる体制が必要である。
 さらに付け加えれば、どうやって現場で証明を確認するのか、という大問題が残る。COCOAで失敗した政府は信用度が低く、デジタルで実施するのは、極めて困難であることから、日本での衛生パスは現状では不可能に近い。
 
外出する人がほぼ無感染者なら、一切の行動規制は必要ない
 この当たり前の理屈が、現状では無視されている。そこに感染者がいなければ、マスクも必要ないし、飲食も旅行もすべて自由である。ほぼ感染していないことを証明できれば(ほぼというのは100%は不可能だからである)、飲食店に入り、自由に飲み食いできるという衛生パスも、論理としては同じである。
 感染予防、中・重症化予防には、ワクチンが最も有効である。国は、今後もできる限りの2回接種者を増やし、3回目の追加接種も順次実施していく必要があるが、恐らくそれは日本では順調に進むだろう。それで感染者を減らすことができるのは、当たり前なことである。しかし、もう一つのこと、検査で早期に陽性者を見つけ出し、街中に出さないようにすることも当たり前のことなのだが、そのことが、まったく行われていないのだ。オリンピック選手が、マスクなしで競技ができるのは、毎日の検査で、ほぼ非陽性者と判断されるからである。その論理を、社会全体に拡大すれば、ほぼ非陽性者は、マスクなし、すなわち一切の規制をしなくてもいいのである。
 中国では、1人陽性者が出れば、100万人の住民のPCR検査を実施する。複数回のPCR検査で陰性であり、2週間経過すれば、一切の日常生活は自由である。それ以外の地域は、当然のことながら一切の日常生活は自由である。強権を使った手段に批判はあるとしても、複数回の大量検査で感染者が確認されなければ、行動規制など必要ないという、この方針は論理的に正しい。
 以前の自由な生活への近道は検査体制を最大限拡充すること
 誰でもどこでも、無償または低費用でPCR検査を受ける体制をつくる。それによって、陽性であれば外出はしないというマナーが浸透すること。そうなれば、外出する人は、ほぼ無感染者(感染者と遭遇するのは、交通事故の確率より下がること)なのだから、一切の行動規制は必要ない。それ以外に、今のところ、自由への道はない。
 
 
 

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野党は、まずは、服装を変えろ。今のままのスタイルでは、千年たっても勝てない。

2021-10-05 15:36:01 | 政治

スペイン 新興左派ポデモスの議員たち。全員、ラフな服装

 10月4日、自民党新総裁岸田文雄は、第100代首相に就任し、早速、衆院選を19日公示、31日投開票することに決めた。まだ世論調査は報道されてはいないが、自民党の支持率は大きく上昇していると思われる。いわゆるご祝儀相場で、「後手後手、無能な菅」よりは、何かいいことをしてくれるだろうと期待する国民の支持率が冷めないうちに、1日でも早く、選挙をやってしまえ、というわけである。
 マスメディアは、新内閣の顔ぶれといった内容を細かく放送し始めている。野党は、1か月にもおよんだ自民党総裁選の加熱した報道、特にテレビにクレームをつけたが、どだいテレビ局は、カネと権力に弱く、それに視聴率が優先されるので、公平性など期待しても無理な話しなのである。報道の自由とは、他の自由同様に、強者の自由が、弱者の自由の数倍もある世界なので、公平性など当然に後回しにされるのだ。公平性は平等という概念に近いが、そもそも、自由は平等とたびたび衝突し、相反する価値なのである。(「自由と平等の、……一方の実現が他方を制限することなしには、究極の結果がえられない」ノルベルト・ボッビオ「右と左 政治的区別の理由と意味」)

 政党の主張を国民が知るのは、メディアから
 日本の公職選挙法は、諸外国では類を見ない制度で、戸別訪問を禁止している。欧米に限らず日本以外のどこの国でもこんな制度はない。日本以外では、政治家の主張を国民に伝えるのは、運動員が人びとと出会い、直接話しをして伝える。例えば、英国では、運動員が家々を回り、自分たちの主張を伝え、有権者の賛否両論を聴く。昨日、保守党が来たかと思えば、きょうは労働党、という具合である。このやり方なら、運動員の力が重要なだけで、与党も野党も公平である。しかし日本では、法で禁止されている上に、政治を話題にすること自体を嫌う風土があり、また、あそこの家は、野党寄りなどと思われれば、何かの機会に不利益を被るのではないかという危惧もあり、決して個別訪問は歓迎されない。結局、国民に主張を伝える手段は、演説、ビラ配り、選挙カーといった、支持者以外には、うるさい、煩わしい、迷惑と思えることだけである。
 結局のところ、政党の主張を国民が知るのは、メディアからということになる。

 テレビを制する者が勝つ
 今日のメディアは、テレビ、新聞、雑誌、ネットとあるが、国民の政治的意向に最も大きな影響を与えるのは、テレビである。新聞、雑誌は、そのどれを選んで読むかは、読者の政治的意向に左右され、それはある程度固定化している。右派の産経新聞やHanada、Will,週刊新潮などを読む層が立憲や共産党支持者などとは考えられない。どこの国でも同じで、共和党支持者がニューヨーク・タイムズを読むとは考えれられない。
 しかし、テレビ視聴者は、政治的意向、意識とは無関係である。テレビは表向き、新聞や雑誌と比べ、政治的には公平な建て前をとっているので、多くの視聴者は、そのように視る。また、政治的意向は固定化していないが、ある程度政治に興味を持ち、選挙には行く層には、最大の情報源である。また、ネットニュースで流されるのは、動画として流されるテレビからのものが最も見やすく、印象が強くなってしまう。

 2009年民主党勝利はテレビが最大の貢献者
 2009年に民主党が政権を奪取したが、それは2006年に首相に就任した安倍晋三が体調不良で1年で辞職、その後の福田康夫は自信喪失で、またも1年で辞職し、最期は麻生太郎が数多くの失言・誤読で辞職と、さんざん「みっともない」ことこの上ない失態を演じたからである。その状況を写実に映し出したのがテレビである。当時のテレビのワイドショーは、連日、麻生太郎が「未曾有」を「みぞうゆう」と誤読したことを繰り返し放送していた。そのことが、3人の首相の無能さの象徴として、首相としての能力不足をさらけ出し、自民党の支持率にとどめを刺したのである。
 近年の選挙、例えば2020年の都知事選も、2021年の都議会議員選も、メディア、特にテレビでの露出度が高い者が当選する傾向が顕著である。それは、多くの有権者は、政党や候補者の政策などを知らないし、イメージだけで投票するからである。選挙演説を聴くのは、その固定的支持者がほとんどであるし、政党のパンフレットなどは同様に読まれない。政権放送も選挙公報も、ほとんどの有権者は「くそ面白くもない」と見向きもしないのが現実である。実際は、有権者の多くは、テレビを視てイメージを抱き、それによって投票するのである。
 テレビ露出度が高ければ、視聴者によって賛否両論があり、プラスマイナスがある。しかし、テレビ主演者の「好きなタレント」の上位者は、「嫌いなタレント」上位者でもあるように、テレビに露出しているからこそ、そこに入るのであり、露出していない者は、意識されない存在であり、「好きなタレント」上位には絶対に入れない。それと同じことが、政治家にも起こるのである。テレビに露出していれば、嫌う者も出るが、支持者も増えるのだ。野党が自民党総裁選の加熱報道にクレームをつけたのは、暗黙にそのことを理解しているからである。
 
 与党政治家と野党政治家のテレビ露出度は、恐らく10対1ぐらいだろう。勿論それは、与党が行政の役職についているからであり、日々行われる行政の動向を報道すれば、そのようになるのは当然のことである。いくらか公平性を保つために、僅かに野党の動向も報道する、というのが実情である。自公政権がコロナ対策に失敗し、内閣支持率が下がっても、野党の支持率が上がらないのは、そのためである。たまにしか顔を見ない人たちの政党が、どんなものなのかを知らないのは当然で、支持率など上がるはずはないのである。メディアに登場する評論家は、野党が「だらしない」からだ、というが、「だらしなく」ても、「だらしなくない」としても、知らない人たちの政党を支持することなどあり得ないのだ。
 野党の指導者がテレビに露出する場合の多くは、政府を批判するスピーチだけである。それを熱心に、あるいは肯定的に視聴するのは、野党の固定的支持者だけだろう。それ以外の視聴者には、落語に出てくる「小言幸兵衛」のようなもので、人のミスだけにうるさい人間が、いつものように相変わらず、何か文句を言っている、としか映らないだろう。テレビ局としては、それで視聴率がとれるとは思わない。「面白くない」ものは、テレビには向かないのである。


 
 政治家は見た目のイメージが大事
 上の写真は、日本共産党衆議院議員穀田恵二の赤旗開きの着物姿である。穀田は当選9回で、共産党議員としては、異例の人気を誇っている。穀田は、写真のように正月には着物を着る。議員在職25年には、西陣織の肖像画が、京都の「西陣織会館」で披露された。そういう姿は絵になる。人気はそのせいだけではないだろうが、着物を着るだけでメディアに露出することができることを示している。
 スペインのポデモス、ギリシャのシリザという新興左派連合は、短期間に支持を伸ばし、政権入りを果たした。この二つに共通するのは、既成勢力との違いを見せつけるために、他の議員たちが、男性は必ずスーツにネクタイといった服装なのに対し、ノーネクタイ、ジーンズ、セーター、Tシャツなどラフな服装で臨んだことだ。それだけでなく、ドイツのメルケルは、徹底して地味な普段着で通している。そこから、メルケルの人間性を表そうとしているのは明らかだ。どこの国の環境保護政党「緑」は、議会でも普段着着用者が多い。これらは、明らかに「見た目のイメージ」を意識していると言っていい。

 野党は、自公と違うことを見せつけるために、まずは、服装を変えろ
 テレビは面白くないものは取り上げない。絵にならないものは、取り上げない。とにかく、話題作りのためにでも、服装を変えるべきだ。ジーンズ、Tシャツ、ポロシャツ、セーター、作業服、紋付き袴、何でもいい。そうすれば、必ず、テレビは放映する。大きな批判は起こるだろう。しかし、批判が大きければ大きいほど、メディアは取り上げ、そこから必ず、新たな支持者は現れるのだ。

 国会の服装規定は、上着着用だけだ。穀田は、国会にも着物姿で通すべきだ。まさか、着物に品位がないとは言えないだろう。

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