夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

総選挙の問題(2)

2015-01-24 12:54:01 | 政治

 

3.凋落した民主党は再生できるのか?

 2015年1月18日、民主党は新代表に岡田克也氏を選出した。朝日新聞の世論調査によれば、民主党の立ち直りを期待する人は61%にのぼるという(2015.1.19)。しかし、ここまで凋落した民主党は再生できるのだろうか?

 民主党の再生に、法政大学の山口二郎や立命館大学の村上弘は『立ち位置を自民党の「左」に置くことが必要だ』という。かれらの参加する「党改革創生会議」の報告書(2014.7.25)も、「穏健中道」を目指すべきだと記している。また、岡田新代表も記者会見で「自民党もずいぶん右にシフトしていて、ど真ん中が空いている」と言っている(朝日新聞2015年1月19日)ことから、「穏健中道」や、自らも使用していた「保守中道」や「リベラル中道」(朝日、同)という言葉の意味は、民主党の立ち位置を「右」よりの自民党の「左」に置くことだ、ということが分かる。このことは、政治勢力の姿勢が、「右」から「左」へ一本の直線上のどこかにあるとする空間的隠喩から考えて、その意味だけにおいて、極めて論理的なものだ。「右」(適切な表現で言えば極右)の安倍自民党と社共の「左」の間に、政治勢力はないから、そこに軸足を置けば、居場所は確保できるというものだ。また、「リベラル・中道層の支持を回復することで、第2党の地位を確保し、少し強くなって無党派層の選択対象と」(村上弘 提言)なるということも視野に入れるというものだ。実に、もっともらしい意見である、但し机上の空論において、ではあるが。

 岡田新代表の言葉や「創生会議」の文言によれば、彼らは「右」と「左」の中間地点に位置すると言う。直線の中間地点は点であるが、厄介なことに点には数学上面積はない。面積がない点にどうやって乗って立つのだろうか? 空間的隠喩を用いればこのようなことになるが、実際の政治においても同じことが言えるのだ。そもそも、政治的な「右」と「左」の中間とは、一体どのようなものか? 彼ら「創生会議」の報告書を引用すれば、次のようなものだ。「穏健中道の政策理念は、憲法の枠内での自衛力と日米同盟に裏付けられた対話と抑止により平和を構築し、安全保障を維持する基本姿勢を明確にすることである。それにより「開かれた国益」を追求することである。また、経済を世界に開放し、市場経済を活用し、成長と雇用の増大を図りつつ、同時に、格差を縮小し、恵まれない人々に手を差し伸べ、……」云々というものだ。これが、彼らの中道だという言うのだ。短くすれば、基本的には、安全保障は日米安保による、そして経済では自由貿易と市場経済が第一であるが、格差も縮小したいというものだ。何のことはない、安倍政権以前の自民党と同じことである。岡田新代表自身も「宏池会の考え方を包含する」とさえ言っている。確かに、「ずいぶん右へシフト」した安倍政権と比べれば、いくらかは「左」であるが、所謂、中道右派政権の主張と変わるところはない。ついでに言えば安倍政権ですら、格差問題はどうでもいいとは言っていない。問題は、優先順位、何を第一義的なことと考えるかなのだ。なぜこのように、「右」と「左」の中間、中道と言っていながら、結局は「右」になってしまうのか? それは、政治的な「右」と「左」は、空間的隠喩と同じように、中間は点であり、立脚不可能だからだ。中間地点に乗って立とうとしても、結局どちらかに転んでしまうからだ。

 「創生会議」の報告書には、「右」と「左」という言葉はあっても、その意味するところは書かれていない。「右」と「左」という政治的区別の意味は書かれていない。山口や村上が、自民党の「左」と言っても、その意味するところは言っていない。結局のところ、「右」「左」「中道」という言葉を使い方ながら、何が「右」で何が「左」なのかについては、まったく言及していないのだ。では、「右」と「左」の区別とはどこにあるのか? それは、他ならぬ山口が認めているとおり(『ポピュリズムへの反撃』山口二郎 角川書店、山口のブログ等より)、ノルベルト・ボッビオの展開した理論、即ち「左」は平等主義を軸足とし、「右」は平等よりもむしろ自由に軸足を置いているという解釈である。勿論、その間の中間地点を否定するものではない。しかし、その中間地点あるのは別の原理による思想のことである。空間的隠喩で表現すれば、左右を一次元的原理とすれば、直線上に交わる垂直線上の二次元的原理のことである。ボッビオはその例として、緑の党などの環境問題を第一義的に考える集団挙げている。平等や自由という問題とは別次元の問題として、環境問題があるという発想からだ。逆に言えば、平等や自由の問題の次元では、「右」であり、同時に「左」であることはできないし、また、「右」でもなく、「左」でもないということはできないということだ。なぜならば、この次元において、「右」でも「左」でもないということは、その問題について判断をしないという態度しかあり得ないからだ。例を挙げれば、現状をより平等にしたいのか、そううではないのか、向いている方向はどっちなのか、そういうことを判断しないということだからである。勿論この場合に、現状をより平等にすることが他の問題より優先すべきだと回答すれば、完全に「左」である。現実の政治的「左右」も、空間的隠喩の「左右」も、中間点に立脚できないことでは同じなのだ。

 民主党は結局、「右」であることを選択せざるを得なかったのだ。日頃は、日本にもヨーロッパのような「右」に対抗できるドイツなどの社会民主党に似た政権を作りたいと主張していた、山口らの民主党ブレインも、結局「右」の再生報告書しか提出することができなかったのだ。恐らくそれは、ブラインたちが熟知している党内事情によるものなのだろう。党内の旧自民党の勢力は中間地点より「左」では、受け止めてもらえないと考えたのだろう。だがしかし、民主党が中道右派政党として再生できるのだろうか? 答えは残念がら、NOである。

  今回の総選挙で民主党は前回よりも微増の73議席を獲得したが、2009年の308議席と比べれば惨敗である。この民主党凋落の理由については様々な分析があるが、「期待はずれ」という言葉だけが共通している。では何に対する「期待はずれ」なのだろうか?

 民主党は政権獲得前に、「マニフェスト」を発表した。その中で国民に向けた約束として5つを挙げている。それは、税金の無駄使いの根絶、子供手当の支給、最低年金保障、地域主権、中小企業の法人税率引き下げ、求職者支援などである。これらは概して言えば、弱者救済と言える。税金の無駄使いの根絶というのも、自民党の多額の公共事業政策を批判したもので、一部の産業(主に土建業)にだけ利益をもたらすものではなく、国民の直接的利益のために使えというものだ。さらに言えば、子供手当の支給も最低年金保障も、明らかに富の再分配である。そしてこれらは、明らかに欧州の左派政権のプログラムにあるものだ。つまり、民主党の「マニフェスト」は、左派の主張に依拠したもの、少なくとも「左派的」であるとは言える。だから、民主党政権の発足に、フランスのルモンド紙もリベラシオン紙も「中道左派政権の誕生」と表現したのだ(「ルモンド」2009年9月1日社説、「リベラシオン」同年8月31日記事。国立国会図書館Issue Brief No663より)。

 この「マニフェスト」が、民主党に投票した人々の期待だというのを否定することはできないだろう。民主党に投票した人々は、「左派的」な「マニフェスト」に期待を抱いたのだ。もちろん、それが左派の主張であるとなど、まったく意識はしていないであろうが。それが政権発足後、ほとんど達成されないか、中途半端に終わったのである。鳩山由紀夫は、沖縄の基地問題で約束を簡単に撤回したし、野田佳彦は消費税率引き上げを主張した(消費税率については、中道左派の立場からも引き上げを主張する者がいるが、かれらは税制がどうあるべきかという問題に目を閉じている。単に税収を増やして社会保障に充てるべきだという彼らの論理からすれば、人頭税すらも否定できないだろう)。何よりも、八ッ場ダムの建設容認に転換したのが象徴的なことだ。「コンクリートから人へ」というスローガンは、「やはり、コンクリートが大事」に終わったのだ。要するに、左派の主張に希望を託した(繰り返すが、左派であるという認識はない)人々の期待が、はずれたのである。これらの希望は、創生会議の報告書で言う「穏健中道のフェアエーのど真ん中」から出てきたものではない。明らかに、毎日の生活に苦慮している多くの人びとから発せられたものである。その人びとの叫び声と言っても、過言ではないだろう。「マニフェスト」の約束を、税金を自分たちのために使え、子育てが大変だ、今の年金では食っていけない、地方が崩壊しつつある、中小企業は火の車という言葉に置き換えてみれば分かることだ。別な言い方をすれば、自民党政治が生活に苦慮している人びとの方を向いていないことへの抗議なのである。主として、ごく稀にではなく毎日の生活に苦慮している人びとの方向に顔を向けること、その人びとの生活改善を優先すること、それは決して「穏健中道」ではない。報告書の中には、「国民生活の安定を第一に考える、普通の人々の生活を支える」という言葉は、確かにある。だが、「それらをどのようにして」という方法がまったくないどころか、それを示唆する言葉すらもない。

 山口は、「マニフェスト」を「ひと言で言えば、思想や理念がなかったということ」(「ポピュリズムへの反撃」)だと素直に認めている。しかし、この創生会議の報告書にも「思想や理念」はやはり書かれてはいないのだ。自民党の「左」が空いているからそこに立つという論理は、決して「思想や理念」とは言えないだろう。仮に、「右」が空いていればそこに立つとでも言いたいのだろうか? そもそも、論理が転倒しているのだ。「思想や理念」が先にあるべきであり、それを政治的隠喩で表現すれば、自民党の「左」だというのが本来の論理だろう。

 なぜ、このようなことになってしまうのかと言えば、自民党の側からの指摘のとおりだからだろう。「民主党は意見の違う人間の寄せ集め」だというものだ。これは、もっともな指摘だ。実際には、民主党は靖国に参拝する極右から、旧社会党の中道左派までの寄り合い所帯なのである。組織的には、自民党の党基盤をそのまま引き継いでいる者から、連合を支持母体としている者までいる「寄せ集め」に過ぎない。その「寄せ集め」集団に自民党の「左」と言ってもまとまる訳もなく、所詮無理な話なのだ。そもそも極右から中道左派の寄せ集め集団に、「思想や理念」をまとめることなどできる筈はないのは、冷静に考えれば分かることだ。彼らがまとまっているのは、「思想や理念」が近いからではなく、政権を取りたいという欲望、ただそれだけである。だから、「思想や理念」は後回しにして、自民党の「左」がたまたま空いているから、選挙で票が取れるよ、という報告書にならざるを得なかったのだ。

 では、なぜ政権獲得時に「左」の「マニフェスト」を掲げることができたのか? その謎解きは、簡単だ。民主党のブレインが前記の山口を始め、中道左派の立場に立ち、そのブレインの主張を百花繚乱的に記したものだからだ。その「マニフェスト」が「右」なのか「左」なのかは、書いたブレインしか分からないからだ。厳しい言い方をすれば、箇条書きに並べられた項目からは、民主党の議員には、「右」も「左」も区別できないのだ。区別できないのは、彼らの頭が悪いということでない。「右」と「左」という概念が、日本では確立していないからなのである。

 いずれにしても、民主党は政治力学的に、極右の自民党よりやや「左」を選択した。恐らく、選挙ではいくらかの支持は集めるだろう。しかし、政権獲得時に比べれば、遥かに及ばないものになるだろう。それは第一に、極右に走っている自民党は、いずれ中道右派にも所謂「ウイング」を広げるだろうからだ。安倍政権は未来永劫にわたって続くわけではない。近い将来、過去の自民党、即ち極右から中道右派までの広い集団に戻るだろう。安倍政権の政策に、ほころびが出るのは確実だからである。また、安全保障問題でも自民党とほとんど変わりはない。その時に、民主党の居場所はあろう筈がない。第二に、生活に苦慮する大多数の人びとにとっては、相変わらず「期待はずれ」なのだ。安倍政権の、金持がさらに金持になることで、庶民にもおこぼれが廻ってくる(トリクルダウン)という政策に、おこぼれを少し増やせと言っているだけなのが、民主党だからである。「経済を世界に開放し、市場経済を活用」を第一義的な政策にすれば、トリクルダウンの論理以外にはあり得ないからである。

 つまるところ、自民党の2軍と化した民主党は、所詮1軍には勝てないのである。

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