夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

<パリ同時多発「テロ」> 「何をすべきか」より、「何をしてはいけないか」を考える その2

2015-11-29 08:03:00 | 政治

<3>軍事的行動に勝利など絶対にない

 オランドもバルスも「敵を叩き潰す。我々は勝利する」と言ったが、これは旧日本軍の嘘で塗り固められた大本営発表のようなもので、軍事的勝利などあり得ないのは、二人が一番知っていることだろう。「テロとの戦い」以来、欧米の軍事作戦にもかかわらず、イスラム主義急進派による「テロ」の件数は減っていない。アフガニスタンでも、タリバーンは復活しているという事実を見るがいい。

 「イスラム国」を壊滅させるには、空爆だけでは不可能である。「イスラム国」がある地域には、「イスラム国」とは無縁の人びとが支配される状況で暮らしており、全面的な空爆などできないからだ。それが、有志連合が数千回にわたり空爆しても彼らの支配地域が減らない理由でもある。報道で伝えられているのは、クルド人部隊とアサド政権軍との地上戦で「イスラム国」がいくらか劣勢にになってきたというだけである。では、地上軍で壊滅できるのだろうか?

 イスラム主義急進派が衰えないのは、アメリカが地上軍を引き上げたからだという意見が、共和党の一部や国際関係論の専門家にある。オバマの弱腰のせいだ、というものだ。確かに、そういうふうにも考えられる。駐留米軍がイラクから引き上げなければ、「イスラム国」はできなかった可能性は高い。米軍が軍事占領していれば、まとまった形の反米武装勢力は存在できないからだ。しかし、それは終わりのない軍事占領である。誰が敵なのかもわからない、常に東西南北どこからでも攻撃される占領である。ひとりのイスラム主義急進派を殺せば、その行為そのもの、またはそれに付随することによって新たなイスラム主義急進派を生むという連鎖の中での占領なのである。それを米軍に替わってフランス軍がやるというのであろうか? アメリカにとっても、現地の住民とってもとてつもない犠牲をもたらす軍の駐留を辞めると判断したオバマ政権の替わりに、オランド政権がやろうというのであろうか? 

 リビアのカダフィ政権が崩壊したのは、NATOの主に空爆による軍事介入という全面的な支援を受けた、リビア国民評議会という弱小勢力によってだった。欧米はこれをモデルにしているのかもしれない。パリの事件後、すぐさま空爆を開始したのもそれを裏付けるものとも考えられる。空爆によって敵を弱体化させ、現地の欧米が支援する勢力に勝利させるという作戦である。しかし、リビアの場合、欧米は勝利したのだろうか? リビア国民評議会はトリポリの政権を転覆させただけである。リビア全土には、未だに統治機構は存在せず、群雄割拠、さながら戦国時代のような状況に過ぎない。日本の外務省海外安全ホームページですら、その事実を認め退避勧告を出しているのである。考えてみれば、当然の成り行きだろう。NATOは敵を殺すのと同時にリビアの統治機構そのものを破壊したのである。国民評議会に全土の統治能力がないのは、分かり切った話だ。だから、NATOの助けなしに、カダフィ政権を転覆させることができなきなかったのだ。これは、イラクも同じことだ。米軍はフセイン政権を崩壊させるのと同時に統治機構そのものを破壊したのである。マリキ政権がスンニ派を排斥したという「失政」があってもなくても、フセイン後の政権に全土の統治能力はないからだ。なぜこのようなことになるかと言えば、これらの戦争がリビアでもイラクでも、権力の総入れ替えになったからだ。日本、ドイツやイタリアは連合国に対し、戦争を起こした政府が降伏宣言したのだが、中東におけるこれらの国に降伏宣言などあり得ないからだ。フセインもカダフィも、およそ政権側についた高官は全員殺されたのだ。殺されるのが分かっていて降伏する愚かな者はいない。もし、新しく政権につく側が統治能力を持っていれば、外国軍の支援など必要としない。統治能力を持つということは、それだけの広範な人民の力の結束があるからだ。初めの「アラブの春」のチュニジアが、成功とするには遥か道半ばとは言え、その例と言っていい。ノーベル平和賞を受賞した、労働総同盟UGTTなどの4つの団体で構成する「国民対話カルテット」が2013年に成立するが、これらの団体が存在すること自体が人民の力を証明している。そこには外国軍の力は必要としない。それは、成功したあらゆる革命についても同じことだ。結局のところ、外国の強大な軍事力という支援によって政権を崩壊させれば、無法地帯が現れるだけなのである。

 酒井啓子千葉大教授によれば、「イスラム国」は「イラクであれシリアであれ、中央政府による統括ができておらず、行政が破綻状態にあった地域でした。つまり、「空き地」に勝手に陣取って、自分たちが好きな国づくりをやっているようなもの」(酒井啓子 中東徒然日記)だという。その「空き地」をつくりだしたおおもとは、イラクの場合は米軍であり、シリアの方は内戦である。

 シリアでは、2011年3月、「アラブの春」に触発された民衆が反乱を起こし、それに対し、アサド政権は虐殺という手段をもって応じた(内藤正典 「イスラム戦争」等からも明らかである)。そしてそれにもかかわらず、抵抗運動は収まることはなかった。ここから欧米は、反乱勢力の政教分離世俗派である自由シリア軍に軍事的経済的支援を与えることになるのだが、反乱勢力は欧米が言うほど単純なものではなかったのだ。抵抗する勢力のうち、欧米が期待する世俗派はその一部に過ぎなかった。それはプーチンが「どこにこの自由シリア軍がいるというのか?」(2015.10 フォーラムでの演説 ロシア大統領府)と言ったように、世俗派は少数であり、「穏健なイスラム主義者からサラフィー主義者(スンニ派の一部)、さらにアルカイダに近いジハード主義者まで含む、様々な宗教勢力の寄せ集めなのである(ルモンド・ディプロマーティーク「アラブの春は終わっていない」 スタンフォード大学国際研究員ヒシャム・ベン・アブドラ・エルアラウィ)。だからプーチンは、この勢力への軍事援助は「テロリスト」の支援と同じだという主旨で言ったのだ。

 実際には、シリアでは誰と誰とが戦争しているのか分からない状態になっている。それは、欧米からロシア、周辺の国々、政治勢力の代理戦争と化しているからだ。アサド政権を支援しているのは、ロシア、レバノンのヒズボラ(戦闘に直接参加)、イランであり、反乱勢力には欧米、トルコ、カタール、サウジアラビアなどである。おのおの自分たちの政治的経済的利益(宗教も政治的利益だろう)のために支援しているのである。それに、トルコ政府が敵としているクルド人部隊は、「イスラム国」に最も打撃を与えている。さらに言えば、アサド政権がいかに腐敗した独裁体制であるにしても、アラウィ派(イスラム教少数派)や一部のキリスト教徒も政権側にいるのである。彼らは、アサド政権が崩壊すれば、対立する宗教勢力に弾圧されかねない恐怖の中にいるのである。それを欧米は、アサド独裁政権と民主派の戦いという、欧米にとって好都合で単純な図式とみなしているのだ。結局、利害関係のある国や勢力の大量の軍事援助によって、シリアは死者10万人以上、国外難民400万人、国内難民760万人(UNHCRホームページ)の血みどろの内戦と化すのである。

 そもそも、「西洋と中東には関係が悪化する複数の理由が存在するのだ。西洋の経済、社会、地政学的な冒険である十字軍、帝国主義、植民地主義、中東のエネルギー資源の西洋による支配、親西洋派による独裁体制、西洋による果てしない政治的・軍事的介入、西洋が勝手に線引きした国境、西洋によるイスラエルの建国、米国による侵略と戦争、パレスティナ問題に対して偏狭で頑迷な米国の政治家などである(ルモンド・ディプロマーティーク「テロ撲滅の正しい処方箋」より転載 前CIAイスラム専門高官、グラハム・フューラー著”A World Without Islam”)。これらを、西洋の側は忘れたとしても、痛めつけられた側の人びと、即ち中東の人びとは決して忘れてはいないのだ。そして、「これらすべてはイスラムという宗教とは無縁(前述)」なことである。これらは、西洋が行った行為に属することであり、それに対して中東の人びとに反発する心理があるのは、当然なことだろう。欧米が軍事力を行使すれば、欧米が想像する以上の反撃を浴びざるを得ないのは当然なことだ。

 軍事力の行使によって、「イスラム国」の戦闘員だけを選別して殺害することなどできない。彼らは、「イスラム国の戦闘員です」という名札を付けている訳ではない。空爆でも地上戦でも、一般市民と混在しているのであり、峻別することはできない。攻撃することは、必然的に一般市民を含めて殺害することになる。それを欧米は、「誤爆」と呼んだり、「作戦ミス」と呼んだりしているのだ。パリのビルに「テロリスト」が立てこもった時、ビルごと爆撃したりはしないが、イラクやシリアではビルごと爆撃するのである。当然、市民も巻き添えである。敵の戦闘員が誰であり、どこにいるのか正確に把握できないために、そうせざるを得ないのだ。軍事力の行使とは、そういうもの以外にはあり得ない。

 「空爆や軍事介入によって、テロリスト集団の除去という私たちが期待する結果はもたらされないと、我々は過去の経験から知っている。50-60年の経験から、いやここ10年の経験だけでも、軍事介入はテロを根絶するのでなく、テロの土壌をつくってしまうのは明らかだ」とドミニク・ドヴィルパン元首相は言った(2014.9.29フランス国営ラジオ、FRNCE10日仏共同テレビ局より)が、こういった発言は無視されている。百歩どころか、千歩譲って「イスラム国」を軍事力で殲滅できたとしても、その軍事力の行使そのものによって、第2、第3の「イスラム国」を生むのである。

 イラク・シリアに、有志連合に加え、ロシアも空爆に参加した。これらの行為は、「テロ」に対する報復以外の意味をなさない。自国の人間が殺されたから、殺してやるという意味以外には何もない。空爆による解決への展望がまったくないまま、実施されているからだ。「イスラム国」の残虐行為をやめさせるために、何をすべきかは難しい。シリアの内戦を止めるために何をすべきかは難しい。しかし、何をしてはならないかは、明らかだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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<パリ同時多発「テロ」 > 「何をすべきか」より、「何をしてはいけないか」を考える その1

2015-11-21 05:29:00 | 政治

 11月13日、パリを武装集団が同時多発的に攻撃し、多くの犠牲者が出た。すぐに、フランス大統領フランソワ・オランドは、この攻撃が「イスラム国」によるものだと断定した。それは、間違いないだろう。また、多くの政府とマスメディアは、この行為を「テロ」と呼んでいる。確かに、恐怖を与えることや一般市民を標的にしているという要素から考えて、これを「テロ」と呼んでも間違いとは言えない。しかし、この「テロ」という言葉の定義は極めて曖昧で、常に敵に対して使われる言葉であり、状況の変化によって変わり得るということは認識していなければならない。かつては、PLOパレスティナ解放機構もネルソン・マンデラが副議長だったANCアフリカ民族会議も、アメリカのメディアやロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、ベンヤミン・ネタニヤフが「テロリスト」と呼んだのだから。

<1>命の価値は同じだとみなされていない

 今回の事件で、129人の死者が出ていると報道されているが、重体者を考えれば、死者はさらに増えるだろう。これにはフランスはもとより、多くの国で哀悼の意を表す行動が行われているが、至極もっともなことだ。しかし、既に忘れられていることがある。11月12日パリの事件の前日、レバノンのベイルートであった「テロ」事件である。Newsweek電子版によれば、これには「イスラム国」の犯行声明があり、43人の死者と240人以上の負傷者が出たという。どちらも、むごたらしい惨劇である。しかしこれに対しては、哀悼の意を表した行動が行われたという報道はまったくない。日本の民放テレビ局に至っては、パリの事件に関する特集で、レバノンの事件にはまったく触れない。ゲストで呼ばれた中東問題専門家の高橋和夫放送大学教授も、軍事専門家の小川和久も知らない筈はないのに言及しようとはしない。さらに言えば、内戦下のシリアでは、このような殺戮は毎日のように行われている現実がある。すべて、パリの事件と同じようにむごたらしいものだ。にもかかわらず、パリの事件だけが大々的に報道されるのである。

 報道による大きさの違いは、戦闘によるものだけには限らない。例えば、「後進国」のバングラデシュでは、度々洪水に見舞われ、1970年に30万人、1991年に138千人の命が奪われている(Bio Weather Serviseホームページ)。とてつもない数の犠牲者である。しかし、先進国の人間で覚えている者は稀だろう。これだけの数の犠牲者が先進国であれば、マスメディアはどのように報道するのであろうか? 

 マスメディアの報道は、その国の政府や所謂世論の反映でもある。報道が政府の政策や世論に影響を及ぼすが、反対にマスメディア自体も政府や世論の影響力の一定の範囲内にある。政府の意向や世論を無視しては、マスメディアは「商売にならない」からである。つまり、先進国での報道は、先進国の人びとの意識の反映でもあるのだ。

 先進国の人間の命と後進国の命の価値は同じ扱いでは報道されない。これには、人間どうしの近さの度合いもないとは言えない。隣近所の人が死んだのと、遥か遠くの見知らぬ人が死んだのとは同じようには感じられない。確かに、それはそうだ。それと同じ理屈で先進国どうしの間には親しみと近さがあるとも言える。心理的にはそのような理由から、報道の大きさになって現れるのかもしれない。だがしかし、それが世界をどう見るのかに明らかに影響しているのだ。何をすべきかに影響しているのだ。先進国の人間の命の価値が、後進国の人間の命の価値より明らかに大きいという心理的な要因が、世界で何が起きているのかの判断に影響しているのだ。

 2001年以降、アフガニスタンから中東に至る地域で、数万人の一般市民が「標的爆撃」、無人機攻撃、ゲリラ攻撃、不当な拘束、CIA顧問による拷問によって殺されている。数万人というのは、正確には分からないという意味であり、分からなくなるくらいの多くの命が失われているという意味でもある。米軍または有志連合による結婚式への爆撃は度々報道されているが、今年の10月にはアフガニスタンで国境なき医師団の病院すら爆撃されている。こういった「後進国」の人びとの命は、パリで殺された人びとの命よりも、明らかに先進国が「何をすべきか」の判断には影響力が低いのである。

 イスラエル人が1人殺されれば、パレスチナ人を10人殺すというのは、イスラエルの戦術的方針だが、これと同じ論理が先進国の政策の中にも意識的か無意識的にかにかかわらず、反映されている。だから、パリの事件後、G20などのあらゆる国際的な会議・機関でも、たちまち反「テロ」が主要な優先課題になるのである。先進国、中国・ロシアはもとより、先進国の機嫌を損なうわけにはいかないその他の国へも大きな影響を与えるのである。ジョージ・W・ブッシュの唱えた「テロとの闘い」(正確には「テロとのグローバル戦争Globol Wor On Terror`」)もその延長線上にあると言える。9.11のニューヨークでの5000人の犠牲者は、アフガニスタンや中東での数万人の犠牲者よりも、遥かに大きな影響力をもち、Worすなわち軍事的行動を選択させたのである。

<2>攻撃すれば、攻撃される

 オランドも首相のマニュエル・バルスも「武装したテロリストによる組織化された戦争行為だ」と言った。確かに、戦争に違いない。だが、二人とも肝心なことを忘れている。戦争ならば、攻撃すれば攻撃されるという極めて単純な論理をだ。フランスが何もしないのに攻撃されたというのではない。フランスは北アフリカのマリ北部への軍事介入を始め、シリアへの空爆にも参加しているのだ。攻撃されて、反撃しないなどという国家も武装勢力も世界には存在しない。だからこそ、フランスすぐさま「イスラム国」のラッカを爆撃したのだ。その命令を下したのはオランド自身なのだ。

 フランスが攻撃されたのは、直接的には「イスラム国」を空爆しているからだと考えられる。それは、空爆が正しいか否かなどとは関係がない。空爆が正しければ、反撃されないなどということはないからだ。また、欧米の攻撃が戦闘員を標的にし、それに付随する「誤爆」によって一般市民を殺している(数は膨大だが)のに対し、「イスラム国」は戦闘員も一般市民も見境なく殺しているということととも関係がない。殴られれば殴り返す、相手側はただそれだけの行動とったのである。

 

 

 

 

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