安部政権によって、「集団的自衛権の行使容認」の閣議決定がなされてから2ヶ月が近くが経過した。これに対する賛否両論は、政党、新聞等のマスメディアはもとより、日頃、政治的な主張を控えている学者や著名人まで巻き込んでいると言っていいだろう(多くの人文系学者、作家、日弁連、なかにし礼等の芸能人)。実際には、こういった動きは、「集団的自衛権」の前の「特定機密保護法」、「原発」から出ているものだ。そして、その挙げられた声の多くは反対ないし慎重論とも言うべきものであるが、現に政権側は一定の方向に動き出していて、意見を主張しないことは黙認しているとも解釈できるのだから、発言多くがが反対ないし慎重論になるのは当然のことだ。何故このように多くの人々を巻き込んだ論争になるのかと言えば、これらの問題が、近い将来にも自分のあるいは家族の身に降りかかる恐れのある事柄であるのだから、これもまた当然のことである。
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その賛否両論を総じて言えば、賛成論は欧米の「普通の国」が行使していること、またはその権利を、日本がする(持つ)ことは正当なものであり、それによって「米国など国際社会との連携を強化」(読売新聞)することができ、「中国・北朝鮮への抑止力を高める」(産経新聞)というものだろう。また、反対論は民主主義や平和主義等の憲法理念に反しているというもので、民主主義の観点から「立憲主義の否定」であり、平和に対する懸念から「米国の戦争やその他の戦闘行為に巻き込まれない保証はない」(朝日新聞)というものだ。
こういった意見の違いはどこから来るものなのだろうか? 反対論者は平和への希求心が強く、賛成論者は好戦的ということなのだろうか? 実際に、反対論者の中には、防衛的戦争も含め、いかなる戦争にも(戦争へのリスクにも)反対を主張する者もいるし、賛成論者の中にはファシストがいるにしても、それらの者はごく一部でしかない。それに、軍事力の強化は相手に戦争を起こす意思を持たせないための抑止力になり、戦争へのリスクは低下すると大真面目に考えている賛成論者の方が多いのだから、かれらを単に好戦的と言うことはできない。
それらのことを考えるのに、ヒントになることがある。一体どういう人々が賛成ないし反対と言っているのかだ。前述の新聞では、賛成が読売、産経、日経、反対が朝日、毎日、東京といったところで、政党では、与党を除けば、維新、みんなが賛成、共産、社民が反対(国会に議席を有しない政党では、極右が賛成、極左が反対)で、民主はやりかたが乱暴だと言っているが、中身について賛成か反対かは不明である。そして、これらのことが、何の傾向と一致しているのかは、誰でもすぐに気づく。言うまでもなく、政治的な「右」と「左」である。
<そもそも「右」と「左」とは>
空間的隠喩である、政治的な「右」と「左」については、フランス革命以降の近代の社会的価値である「自由・平等・友愛」のうち、自由に軸足を置くのが「右」で、平等に軸足を置くのが「左」だとする説をノルベルト・ボッビオが唱えているが、ほとんどの場合、それでつじつまが合うと考えられる。自由と「右」との関係では、一見矛盾しているように思えるが、いわゆる政治的自由、市民的自由を強く主張する者の中で(この場合「左右」両方の者が存在する)、「左」に属する人々は、反面、平等をも強く希求し、経済領域における自由には否定的なので、矛盾はないのだ。「軸足を置く」とは、至上主義のことではなく、自由至上主義(libertarianism)だけが「右」でないのと同様に、完全な平等を求めるのが「左」という意味ではない。たいていの場合、「右」も「左」も両方に価値を認めている。しかし、少しでもどちらかの価値を優先すれば、「右」または「左」なのだ。自由も大切だが、現状の富の著しい偏在に我慢ができない。そのために富者の自由を少しでも制限すべきだと考えた時点で、もはや「左」なのである。(フランス社会党に対し、自由主義的な政策を実行しようとすると、社会党より「左」の人々から、もはや「左」ではない、という声が起こるのは、この「左右」の基準によるからである)
欧州では、左派を自ら名乗る政党はいくらである。イタリアのかつての「左翼民主党Partito Democratico della Sinistra」,「欧州左派党Party of the European Left」,ドイツの「左の党Die Linke」(緑の党の名Die Gru¨nenを模したもの)、フランスの「左派党Parti de Gauche」など、国会(欧州議会)に議席をもっている政党も数多くある。なぜならば、「左gauche」とは、ある程度の積極的な思想的傾向を表し、その傾向を持つ人々にとっては、それによって結束ができる、価値のある誇るべきものであるからだ。逆に、それらの思想に反対するのが「右」なのだから、「右」もまた、「右」の人にとっては価値のある誇るべきものなのである。
<日本では>
そういった「左右」という言葉の出どころである欧州とは異なり、日本では政党も新聞も、自分たちのことを「右」や「左」とは言わない。むしろ、「右」または「左」と呼ばれることを極度に嫌っている。それは、「左右」が、相手を非難する言葉になっているからだ。警察が「極左」暴力集団、ネトウヨが「反対するのは左翼だけ」、あるいは「安倍の政権の右傾化」というように使う時、「左右」はろくでもない連中という意味を含んでいる。
日本では、「右」と「左」は、「偏った考えをもった集団」という含意があり(すべての思想は本来偏っているのだが)、こりかたまった考えをもっている、良くないもの、あげくは狂信的な集団とみなすことが、マスメディアを中心に行きわたっている。おそらくは、「中庸」という考え方の誤解(足して2で割った真ん中が正しいという意味ではない)と、特にアメリカの影響だと考えられる。アメリカでは、OECDで唯一、国政議会に左派政党が存在しない(無所属の左派議員はいる)ので、表立って左右の対立が起こらない。また、「左」が社会主義や共産主義を指しているので、敵対していたソ連を連想し、「evil悪(の帝国)」と同意語となっている)なのだろう。だからその替わりに、「保守」や「リベラル」という言葉が使われる。「保守」も「リベラル」もそこで使われている意味と、それぞれの元々の思想とはかけ離れているにもかかわらず。
日本において、「集団的自衛権の行使容認」以外でも、与党のある政策に対して、政党や新聞の賛成ないし反対という立場は、ある程度のまとまりを持っている。政党では、多くの場合、維新やみんなは自民党の政策に基本的には賛成であり、少なくとも真っ向から反対はしない。逆に、共産、社民は真っ向から反対する。新聞でも、朝日、毎日、東京と読売、産経、日経は、経済の分野を除くと、対立した社説を掲げている。それを、明確に説明する区分が、政党や新聞が自認するか否かにかかわらず、「右」と「左」なのである。
日本での一般的な使われ方がどうあれ、政党を「右」から「左」に並べることが、それぞれの政党の政治的立場の近さと対立軸を表している。それは、それらの政党が根本的に寄って立つイデオロギー(または、特定のイデオロギーに反対する)が「右」であったり、「左」であったりするからだ。自民、維新、みんなが「右」で、共産、社民が「左」なのは、寄って立つ思想が、新旧自由主義、自由民主主義、国家主義、「科学的社会主義」、社会民主主義であったりするからだ。もちろん、「左右」の区別ができない政党も存在する。民主党は、「左右」両派が合体しているので、党としては旗幟不鮮明であるし、宗教政党の公明党は別の次元で考えなくてはならない(宗教はイデオロギーかという別の問題が発生する)ので、「左右」の区別には適さない。
また、新聞で言えば、「左右」とは、相対的なものでもあるので(「共産主義における左翼小児病」「左翼反対派」というようにも使われる。つまり「左」の中にも相対的に「左右」があるということ)、少なくとも、外交や安全保障の問題では、朝日や毎日が読売や産経より「左」だと言っても、まったくおかしくはないのだ。さらに言えば、人間が人間であるのは、その人が人間だと考えているからではない。その人が何と思っていようと、それ以前人間だからである。同様に、その組織や人が、自分たちを何者だと考えているかにかかわらず、「右」であったり「左」であったりするのである。「集団的自衛権の行使容認」に対する賛否両論は、「右」であっても、民主主義の観点から反対している者もいるが、おおまかに言って、「右」が賛成、「左」が反対しているのは明らかだ。しかし、このようなことは日本だけのことではない。世界中で戦争に反対する平和団体に、実際には「左」の組織にいる人間とそれに賛同する人々が数多く参加している。アメリカにおいて、ベトナム戦争に反対したのは、アメリカ共産党や群小左派集団であるし(民主党内の相対的左派が反対にまわったのは敗北が濃厚になってからである)、ドイツでアフガン派兵に反対しているのは「左の党」と「緑の党」の一部や極左集団である。ほとんどどこの国においても、社会民主主義右派を除いた「左」は、現に起きている戦争に、自国の兵士を派遣するのに反対しているのであり、そういった左派の政党が平和団体をも組織しているのが実態なのだ。
そういった意味で、ネトウヨが「反対のデモにいるのは、左翼の奴ばかり」というのは、ネトウヨの主張の中で唯一正しいものだろう。このことは、実際の「集団的自衛権の行使容認」に反対する集会やデモをつぶさに見れば明らかだ。これらの場では、参加者は自分の属する組織ののぼり旗の周りに集結しているのだが、そののぼり旗は全労連系の労組、独立系ユニオン、共産党、社民党、民商、革マル等極左集団などが圧倒敵に多く、9条の会、日弁連など「左右」とは無縁の市民団体のものは少数でしかない。
こういった実態をマスメディアも書かないし、参加している組織も書かない。朝日も毎日もデモの写真は、政党名を写さない画像を使っているし、しんぶん赤旗も多くの一般大衆がいかにも参加しているように表現している。その理由は、恐らくマスメディアは報道の中立というたてまえから、特定の政党に味方していると見られたくないということなのだろうし、政党は、その運動が実際より大きなもので、大衆への拡がりも深いように見せようと「大本営発表」をしているからだ(極左の機関紙などを読むと、明日にでも革命が起きそうな気配だ)。
実態としては、極右(極右も極左も「極」というこの言葉自体が、良いとか悪いとかの価値判断を表すものではない。単に、急進的な、ラディカルなという意味だけである)から中道右派まで多くの「右」が賛成で、知りうる限り全ての「左」が反対している。 それは何故なのか?(こういう疑問は誰でも思いつくもので、インターネット上では、ネトウヨの立場から「なぜ左翼は反対するのか?」というコラムが散見され、かれらの意見が書かれているが、コメントする価値もないほど馬鹿馬鹿しいので、ここでは触れない。)
一般に、世界は非常に複雑で、物事の真理や法則を導き出すのには、何が重要で、何が無視して良いのかを考えることから始めなくてはならない。ガリレオ・ガリレイは「些細なことを気にしなければ、物体はすべて同じ速度で落下する」(アリゾナ州立大学 ローレンス・クラウス教授による,NHK宇宙白熱教室)と言った。物体の落下という物理現象を考えるのに、空気抵抗などを気にすれば、同じ速度とは言えなくなるので、それらは些細なことに過ぎない、そうでなければ法則を導き出すことはできないということだ。 同じように、現実社会も非常に複雑で、些細なことを削り落とさなくては、本質的な問題には迫れない。「集団的自衛権の行使容認」の閣議決定を考えるのに、民主主義的な手続きの問題は、些細なことに過ぎないだろう。閣議決定ではなく、憲法そのものを変えろというのは、結局は同じことだからだ。それが民主的な決定を踏まえようと、どうであろうと、戦争は戦争である。民主的な手続きさえ経れば良いというのは、戦争をしても人は死なないと言っているようなものだ。それとも、民主的な人の殺し方というものが、あるのだろうか? 結局、こういう理屈は無視するしかないのだ。(あらゆる事象に、常に民主主義の問題としてのみ扱うことは、民主主義には誰も反対できないだろうから、自分の意見には賛成しなけれならない筈だという論法を使っているのだが、それは、世の中の全てのことは民主主義の問題以外にはない、という論理にほかならない。アメリカは先進国の中で、最も貧困率が高いが、それはアメリカが民主主義において劣っているからだ、と言うようなものだ。これには、そこに別な問題があるのは誰でも想像がつく。しかし、社会のありとあらゆることが、民主主義の問題としてのみ主張することがたびたび行われると、一見もっともらしく、多くの人はそれ以外の問題があることに気づかずに終わってしまうのだ。民主主義が重要なものには違いないが、すべてではない。むしろ、民主主義以外の問題を覆い隠すために、民主主義が問題にされるということが、しばしば行われているのだ。)
<第一の論点>
「集団的自衛権の行使」は、賛成派の「米国など国際社会との連携の強化」という言葉に深く関わっている。「米国など国際社会」をどう捉えるかで、「連携を強化」すべきか、どうか、あるいはどのように「連携の強化」をするのかが、問われるからだ。そしてこれこそが、「右」と「左」の本質的な相違に関わっているのでである。
反対論の中に、「アメリカの戦争に巻き込まれる」というものがある。もちろん、「左」の側の危惧である。しかし、アメリカは自国を含め、「国際社会」の政治的経済的利益のために、戦争をするのであり、「米国など国際社会」を守るべきだとする立場からすれば、それは正しい戦争なのであり(アメリカの戦争を日本政府は常に支持している)、むしろ積極的に参加すべきだというのは自然な論理だろう。安倍政権は、「行使の3要件」を挙げ、直接的な戦闘行為には参加しないというが、それでは何のための行使容認なのか意味がなくなる。それでは、意味のない閣議決定を敢えて行ったことになってしまう。したがって、直接的な戦闘行為には参加しないとは、反対論を鎮めるための、嘘も方便なのは言うまでもない。状況が変わったことにすれば、いつでも、「3要件」を変更すればよいからだ。結局のところ、「アメリカの戦争」に賛成ならば、「集団的自衛権を行使」してアメリカに協力する。反対ならば、協力しない。結局のところ、「右」と「左」は、それで対立しているのだ。
「米国などの国際社会」をどう捉えるか。それは、取りも直さず「国際社会」が資本主義によって構築されていることからくる問題なのである。今日、植民地は姿を消し、レーニン的帝国主義の時代からは明らかに変化しているとはいえ、金融資本が世界を席巻し、経済成長率がその国の政治を左右し、TPPやTTIP(環大西洋貿易投資パートナーシップ)が協議されるこの時代を、資本主義以外に何が形づくっていると言うのか? 「国際社会」が、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの言う「帝国」にまで成長していると言い切れるか疑問だが、資本主義によって、世界的規模にまでつくられた秩序(システム)であることは否定することはできない。実際には、資本主義の世界的システムの土台に、国際法等の政治的なシステムが融合しているのだ。したがって、資本主義自体をどう見るのかで、「国際社会」の捉え方が決定される。当然のように、「右」は現にある資本主義を維持・発展させる(極右は非民主的な方法で)立場であるのに対し、「左」は資本主義の修正、改善、廃棄等を主張している。より正確には、「右」はかれらなりの良き資本主義システムを目指し、「左」は現にある資本主義システムとは別の(alternativeの)システムを要求しているのである。(「左」の中では最右派の社会民主主義者social democratsでさえ、レーニン的ボルシェヴィズムを否定しているが、社会主義socialismを否定しているのではない。)短い言葉で言い換えれば、資本主義システムに肯定的な「右」は「国際社会」にも肯定的であり、資本主義システムに否定的な「左」は「国際社会」にも否定的なのである。ごく自然な論理として、「右」は肯定的な「国際社会」とはもっと連携を図らなければならないし、「左」は否定的な「国際社会」に無批判に追随するわけにはいかないのだ。「国際社会」を形成する武力行使の可能な「普通の国」になるな、という「左」の主張の根底にあるのは、現にある「国際社会」自体への異議申し立てなのである。
<第二の論点>
「集団的自衛権の行使容認」には、もうひとつの大きな論点がある。中国と北朝鮮の軍事的脅威にどう対抗するのかということであり、賛成論の根拠としては、実はこちらの方が大きいと言っていいだろう。逆にこの問題は、反対派の弱点にもなっている。反対派の多くは、中国・北朝鮮の軍事的脅威は個別的自衛権で対処できるのだから、集団的自衛権の問題ではないという論理を用いている。だから、日弁連も日本共産党も、「中国・北朝鮮の問題」を、まったく言及しないか、言及しても僅かである。確かに、中国・北朝鮮からの日本への攻撃は、論理的には個別的自衛権の問題である。今回は、集団的的自衛権の問題であり、個別的自衛権の問題ではないと言えば、それはそのとおりだ。しかし、「集団的自衛権の行使容認」は、当然のようにアメリカと日本の軍事力強化に繋がることは間違いない。中国と北朝鮮の軍事的脅威に、こちらも軍事力で対抗することを前提にすれば、「集団的」だろうと「個別的」だろうと自衛権を行使する軍事力は強化されるのだから、「集団的」は駄目で、「個別的」は別の問題とするのは、机上の空論だと反対派以外には写るだろう。
また、憲法を遵守せよという主張(それ自体に大きな意味はあるが)には、「憲法を守れれば、侵略されてもいいのか?」という素朴な疑問も、疑問としては成り立つ。これは、「立憲主義の破壊」だという主張も同様なことで、「立憲主義」のために、中国と北朝鮮の侵略を受けてもいいという論拠にはならない。「中国と北朝鮮の侵略」という問題、それ自体にまったく答えていないからだ。
中国と北朝鮮の侵略は蓋然性が低いと主張している反対派もいる。確かに、蓋然性は極めて低い。しかし、蓋然性という言葉を使うことは、それはあり得ないことではない、ということの裏返しであり、反対派以外には説得力のある論拠にはなり得ない。「難しいことはよく分からないが、中国の軍艦や戦闘機は日本の近くまで来ているし、北朝鮮はミサイルを何回も飛ばしてくる。きっと、そのうちに攻めてくるに違いない」という、市井の人々の不安に答えるものにはならないのだ。
では、この問題では、賛成論が論理的整合性や説得力を持っているといえるのか? そうではないだろう。賛成論の中で、軍事的勢力均衡が戦争の抑止力になっており、中国の軍事的台頭が均衡を壊し、危険であるので、日米は共同で軍事力の向上を目指さなければならず、そのために、集団的自衛権の行使ができることが必要だというものがある。この理屈は、実にもっともらしいし、以前からある広く知れ渡った戦争抑止論でもある。しかし、これには落とし穴がある。実際には、勢力の均衡は、客観的には把握することはできず、双方とも常に相手側の軍事力に恐怖を覚えるので、軍拡を招くという危険性のことだ。そして、それ以上の問題(欺瞞と言っていい)がある。最新の技術力を持ち、世界の軍事費の半分を使っている米軍と、その同盟国である日・韓の軍事力が、中・朝のそれを圧倒しているという現実に、目を向けさせないということである。そういった現状を、軍事的勢力均衡と言っているに過ぎないことだ。軍事的に圧倒していなければ、相手を抑えられないと考える。そのことが、たとえば、北朝鮮にとっては圧倒されていることが恐怖であり、政権存続のために軍拡に走るという(愚かな)選択をさせているのだ。
7年前に没した小田実が、かつてのワルシャワ条約機構軍幹部へのルポルタージュ記事を書いていた。軍幹部は言う。「NATO軍の侵略から祖国を守るために、われわれは活動している。われわれ側から一方的に西側に侵攻することはあり得ない。われわれにとって、何の利益にもならず、われわれが侵攻すれば、反撃をまねき、祖国が壊滅的打撃を受けるからだ」(手元に出典が見つからず、言葉は不正確だが、要旨は間違いない。ついでに言えば、公開されているソ連共産党政治局会議議事録にも、一方的に侵攻する計画は見当たらない)と。そして、NATO軍幹部にも訊くが、「ワルシャワ条約機構軍の侵略から守るため」と全く同じことを答える。これは、ワルシャワ条約機構軍幹部もNATO軍幹部も本音を言ったものだろう。道理が頷けるからだ。さらに、米軍司令官や多くの軍事専門家も「中国や北朝鮮が米軍基地を置く韓国・日本に大規模な軍事侵攻を行えば、米軍は反撃せざるを得ず、中国・北朝鮮は壊滅的打撃を受けることになる」と言う。おそらく、北朝鮮の場合はキム・ジョンウンも含め、支配層は全員死ぬことになるだろう。したがって、かれらが自殺願望者でない限り、一方的に攻撃してくることはあり得ないのだ。これは、蓋然性などの問題ではない。これは結局、ワルシャワ条約機構軍とNATO軍の対峙と同じことなのだ。相手が攻撃してくれば、反撃せざるを得ず、双方が壊滅的打撃を受けることになる。そして、それは何の利益ももたらさない。では、なぜ相手側が一方的に攻撃してくるかもしなないと考えるのか? 言うまでもなく、相手側は悪であるというイデオロギーのせいである。レーガンの「悪の帝国」、ブッシュの「悪の枢軸」、「中朝の反日勢力」、逆からは、(ナショナリズムに煽られた、根拠の乏しい)「日本軍国主義の復活」等の言葉を思い出せば、理解できる。湾岸戦争は、イラクに大量破壊兵器があろうと無かろうと行われたのだ。大量破壊兵器がないことが分かった後も、間違った戦争とは言っていないのだから。要するに、悪は武力で排除するしかないというネオコンのイデオロギーによって、実行されたのだ。相手は「悪」なのであるから、フセインは攻撃してくるかもしれない、という思い込みによって実行されたのである。中朝にも同じことが言える。だから、中朝が攻撃してくるという主張の中に、「なぜ、何のために?」という文言がまったくないのだ。考えられることの中で、中朝が先に攻撃してくるのは、唯一次の場合だけである。かれらが、韓国・日本・米国から攻撃されると確信した時である。それは、韓国・日本・米国側も同じことだ。高度に緊張した軍事的対峙は、小さな偶発的衝突を生じさせかねない。それを、相手からの一方的攻撃だと信じれば、大規模な先制攻撃をしかけることは、軍事的には自然な発想でもある。
中国が今まで以上に、軍事力を強行に展開しようとしているのは事実である。そして、アメリカが、世界中に世界最強の軍隊を展開しているのも事実である。また、フランスや英国、ロシア、その他の国が核武装を続けているのも事実である。なぜ、このようなことになっているのか? それは、自国の(と同盟国の)軍事力は防衛のためであるという理由のほかに、軍事力が政治的・経済的利益(しばしば国益と呼ばれる)を確保するための道具だと信じられているからだ。それは、「中国は、経済に見合った軍事力を持とうとしているだけで、他国と比べて突出しているわけではない」という中国側の言葉にも表れている。戦争をしたいわけでは決してないが、政治的・経済的利益の確保ために強い軍事力が必要だという思考が信じられている。国際的な発言力の大きさに、軍事力の大きさが影響していると信じられている。「弱腰だから、中・朝になめられる」という言葉も同じ思考と言える。「弱腰」でないとは、軍事力で威嚇しろということなのだから。それを徹底して実践しているのが、アメリカであるし、フランスや英国が核を手放さないのも、そういった理由からだ。それが世界中の戦争をする「普通の国」の論理なのだ。日本の右派が、日本を「普通の国」にしたいというのは、特殊な考えではなく、世界中で信じられている「普通の」論理なのだ。そして、また中国も同じ思考で動いているに過ぎない。「経済に見合った軍事力」とは、大きな経済的利益確保のためには、強い軍隊を展開する必要があるという意味だ。「アメリカが世界中で行っていることを、中国がやって、なぜ非難されなければならないのか。むしろ中国はアメリカより控えめだ。ハワイ沖まで軍用機を飛ばしているわけではないからだ」と、中国政府高官は言う。もっともな理屈である。同じ行為をアメリカが許されて、中国が許されないと考えるのは、「自由民主主義」というイデオロギーのせいで、それ以外では、同じ思考で、同じ行為をしていると言えるからだ。とどの詰まり、大きな経済的利益確保のためには、強い軍隊を展開する必要があるという点では、中国も日本もアメリカも、政府は同じ穴のムジナなのである。
マスメディアに登場する国際関係論の専門家に、欠落しているものがある。それは、誰の立場でものを考えているかである。国際関係を単に解説するのなら、それでいい。しかし、こうあらねばならないと、一定の価値判断を下す場合に、誰にとってという視座がなければ意味を持たない。では、誰の立場でものを考えなければならないか? 勿論それは、一般大衆、すなわち、資産もなく、生きるために労働力を売るしかない人々、賃金労働者である。労働者にとって、小さな島の領有権は果たして意味があるのか? 労働者にとって、国家の政治的・経済的利益とは何か? 国家の利益と労働者の利益は同じものなのか? こういう視点に立たない限り、どっち着かずの意味のない議論になってしまうのだ。
自由主義的経済発展が、ゆくゆくは労働者の利益になるという「おこぼれ論」がある。大金持ちがさらに大金持ちになれば、労働者もおこぼれを頂戴できる、というものだ。そのために、軍事力を強化し、国益を確保すると言う。しかし、自由主義的経済発展は、一部を除いて労働者の多くをさらなる貧困化に陥れるだけだというのが、20世紀から続いている世界の現実である。
究極的には、労働者の立場に立てば、次のことが言える。労働者に祖国はないのであって、「祖国防衛戦争を内乱へ」とまでは言わないが、祖国防衛戦争に到るいかなる道も拒絶する、と。祖国防衛に狩り出されるのは、労働者であり、それは相手側も同じことだ。空爆で死亡するのは、一般大衆であり、それも、相手側も同じことだ。日本人の命の価値も、外国人の命の価値も等しく尊い。外国人の命のために、日本人は死んではならないのと同様に、日本人の命のために、外国人も死んではならない。それこそが、「左」の平等という真の根源的価値なのである。