朝日新聞4月10日のオピニオン投稿欄の1番目に「行動制限は市民自らの判断で」という意見が載っている。「我々市民は、市民社会の構成員として、自分の判断で自粛する」として、公権力による強制としての行動制限には反対するという趣旨だ。それが「真の民主主義社会なのだ」という。一見、実にもっともらしい。
実際にコロナウイルスとの闘いで、日本を除き、世界中で行われているのは、軍隊を動員してまでもの、国家による強制的なsocial distancing社会的距離を置く措置である。この理屈からいくと、「民主主義社会」の欧米も含め、日本以外はすべて民主主義に反する公権力の強制をしているということになる。投稿意見は、その強制をやめて、「自らの判断による自粛」にまかせろと言うのだ。この理屈は「正義はなされよ、たとえ世界は滅びるにしても」にそっくりである(勿論、カントは、この言葉はその後に続く、「世界の邪悪な連中が……滅びる」として「提示される」べきだと言っているが)。言い換えれば「民主主義はなされよ、たとえコロナウイルスで世界中何百万人が死んだとしても」ということである。
「市民による自らの判断で自粛」によって、コロナウイルスの蔓延を防げれば、それに越したことはない。当たり前のことだ。しかし、そんなことが可能ならば、世界中の政府指導者は何の苦労もなく、何も考える必要もない。強制的措置を講じてもなお、世界では、多くの市民が集まって、ビーチで寝ころび、酒を酌み交わし、至近距離で談笑し、コロナウイルスをまき散らすのだ。コロナウイルスに感染するのは、この社会的距離をとるのを無視している人たちだけではない。市民全員が感染のリスクにさらされることになるのだ。
朝日新聞がこういう読者の意見を一番に載せたのは単なる偶然ではないだろう。この新聞は、安倍政権によるコロナウイルス対策を、ほとんど自ら思慮することなく、厚労省、専門家会議はこう言っていますとだけたれ流してきた。自粛だけを強調し、何もしない政府を強くは批判しなかった。むしろ、批判的に報道したのは、中国政府の強制的社会的距離政策の方である。そこには、この新聞社の経営判断、自民党支持者も読者に取り込みたいとい思惑が透けて見える(今や、朝日新聞の安倍政権批判は「森友・桜」だけである。この問題だけは以前から報道し続けてきた経緯があり、手のひらを返せば、以前からの読者にばれてしまうので、そのままの姿勢を続けていると思われる)。
民主主義は維持され、発展されなければならない。しかし、それ以上に、人びとの生命は尊重されなければならないのだ。人びとの生命を守る、そのための最も効果的で具体的な措置が講じられなければならないのだ。ベルトルト・ブレヒトに「家が火事なのに、外の天気は雨なのか、雪なのかを気にして、家から逃げない人」というたとえ話がある。家が燃えていれば、たとえ嵐でも外へ出なければならない。「民主主義」であれ、どうであれ、死なないために、まず、家の外に逃げなければならないのだ。
より本質的には、民主主義はそれを語る人によって、同じものではない、という問題が潜む。今日、民主主義を否定する者はほとんどいないだろう。しかし、そこで言う民主主義は人によって、大きく異なる場合もある。民主主義はそれが、どのような、誰のための、それがどう作用するのかを常に問われなけばならないのだ。