缶詰売場もそうだけど、牛乳売場もかなりオリジナル(^-^)
ちなみに『森永ゲンキミルク』のCMソングを作っているのは、
私の高校の先輩だったりします。
今日は自宅で仕事をしています。
結構切羽詰っております。
でもブログ打ってます
小田原はさっきまですっごい。
思わず見とれるほどの雨と雷であった。
でも止まっちゃってるらしい・・見とれてる場合じゃないか
さて、先週末は土曜日に新宿エイサー祭り、日曜日に琉球フェスティバルと、
沖縄好きにはたまらん週末であった。
まず土曜日、新宿のほうからご報告。
今年もダンナと友達と一緒に、見ましたよ。エイサー。
っていうか、なんで毎年この祭りになると異常なほど暑くなるのか
今回も会場で「ただいまの気温35℃です」ってアナウンスされておりました。
それにもめげずにがんばっている皆さん。
今年もやっぱり一番のお気に入りはこちらの町田「琉」
ほかのところも悪くないんだけど、ここのエイサーはなんというか、
昔ながらの、シンプルでいて、だからこそエイサーのよさが前面に出る感じ。
動きがダイナミックで、ホントにいつもながら男前度数50%アップ
友達と二人「うちらの青春のエイサーはこれや~~」と騒いでおりました。
そうそう、このエイサーを踊っている先輩にドキドキしてたのよ~
さて気を取り直して、今度は日曜日。
はじめて行く「琉球フェスティバル2007」。
なんともう30年以上の歴史のあるイベントらしい。
昨日の日曜日は「午後の降水確率100%」という、
気象庁自信満々の予報。
小田原を出るころから雨がぱらつき、東京ではがひっきりなし。
ダンナと二人「こりゃーあかんだろ」といいつつも会場へ。
会場の日比谷野外音楽堂には、あきらめない人々が結構集まってて、
なんと会場からは音あわせの音楽が流れてくる。
あきらめないねー!
と思いつつ、持ってきたカッパを着込んで会場へ。
・・と、しばらく経つと、なんと雨がやんだばかりか、に
これは絶対参加者の中に生まれ高いやつがいるね。
(沖縄っぽい表現だわ)
雨でとっくに日焼け止めなんか流れてる私の顔に、
夕日が容赦なく突き刺さる。
もうすぐ40なのに、すっぴんで紫外線浴びてしまった←気に入っている
オープニングのエイサーに続いて、大城美佐子&よなは徹のペアが
「かぎやで風」を演奏。よなは徹が和服の正装(紋付)でカッコイイ
野外音楽堂ということで、飲食は完全に自由。
とーぜん会場内にはと泡盛をはじめ、沖縄料理の屋台が
だからとーぜん、会場よっぱらいだらけ。
音楽にあわせて踊りだす人続出。っていうか踊ってない人のほうが多いか
という感じだが、
MCのキャン×キャンいわく、「楽屋が居酒屋なってます」という状態で、
会場一体となったよっぱらい状態
出演者が代わるごとに、客席から舞台に泡盛の差し入れが入るし。
毎回乾杯するし(毎年MCは飲まされているようですな)。
っていうか、最初から最後まで
会場に泡盛の匂いがただよっているライブってどうよ
その中でも、会場に入った午前11時半から本番の19時半まで飲みっぱなしだったという、
パーシャクラブが舞台に上がったころにはテンションも最高潮。
ふたたび降りだした雨の中での「五穀豊穣」は最高。
新良幸人の歌声が、日比谷の森に響き、溶け込んでいく。
日曜日だというのに明かりをつけて働いていた、
霞ヶ関のビルの中にいた人たちにもあの歌は届いただろうか。
そんなわけでいま、パーシャクラブの曲を聴きながら仕事してます。
後半日、まじめに働きます。
沖縄戦終結62年「慰霊の日」 戦没者追悼式に首相ら参列(産経新聞) - goo ニュース
沖縄に住んでいるときはかえって意識しなかったけど、
出てきてからかえって、この「慰霊の日」の重さを感じるようになってきた。
まぁ子供の頃は、祝日のない6月の唯一のお休みというだけの記憶しかないけど、
でもその日は、必ず正午に黙祷を捧げ、
祖母や母が、沖縄戦の頃の話をしてくれたっけ。
戦争当初、今の沖縄市に住んでいた祖母と母たちは、
戦火を逃れてやんばるの山奥を逃げ惑った。
その頃まだ9歳だった母は、死体を飛び越えることができずに山の中で立ちすくみ、
それを祖母が抱き上げて逃げた。
そして助産婦をしていた祖母は、
戦火の中、お産を手伝って欲しいといわれたが、
断ったよ、と語っていた。
もし、祖母がその戦火の中をくぐって、
他人のお産を手伝ったならば、
美談になって残っただろう。
でも、プロの助産婦である祖母をそうさせるほど、
当時の状態はすさまじかったのだということ。
そして、祖母自身にも守るべき子供たちがいたのだ。
私は、その瞬間自分の身を守った祖母の判断が正しかったかどうかはわからない。
ただ、そのとき祖母が手伝いに行ったなら、
私はこの世に生を受けなかったかもしれない。
もうひとつ、思い出したこと。
平和の礎ができたばかりの頃、両親を連れて行った。
父は、自分の生まれた集落の前で名前を見て、
「これは、自分の家の向かいに住んでたオジーだよ」と言った。
そして父は礎の入り口の売店に行き、
ワンカップを買ってきて、オジーの名前のところにお酒を注いだ。
「オジーは酒が好きだったサー、もうこのオジーにはこんなことをする身内も残っていないから」
私はその光景を見て、なぜか涙が出そうになったのだ。
父にとって平和の礎は、単なるモニュメントではなかった。
自分のごく近所のオジーの名前が刻まれた、
そして、そのオジーがこの世に残したたったひとつの生きた証だったのだ。
私は、確固たる意思を持つ主義者ではないけれど、
確かに62年前に、私の生まれた島でそんなことがあったのだということは、
忘れてはいけないし、伝えなければならないような気がしている。
うかうかしていると、教科書まで書き換えられてしまうからね。
今年も沖縄からムーチーが届きました。
本来はコドモの年齢の数だけこうやってぶら下げるのですが、
ウチはまだ子供がいないし、
私の年齢の数ぶら下げたら地べたにくっつくので、
とりあえず適当な数をぶら下げてみました。
それにしても、この時期はこうやってで
ムーチーを送る人が多いんだろうから、
この時期の飛行機の倉庫はサンニンの香りでいっぱいだろーなー。
きっと小田原東郵便局のおかあさんも、
この香りにギモンを抱きつつ配達してたに違いない。
好きな人はクセになる香りなんだけどね
私は今日から仕事始め。
久々に湘南ライナーから朝日をながめて、
その後爆睡し、新年早々東京駅でほかの乗客に
「終点ですよ」と起こされてしまった。
あいかわらずゆるゆるである
さて、せっかく沖縄で写真を撮ってきたので、
ここでまとめをしてみようかと。
これは、南風原ジャスコの中にあるA&W。
「ユイマール通り」と名づけられた一角に、
ちょっと懐かしい沖縄の風景をイメージした空間があって、
その中のひとつ。
今回はここと、牧港の本家本元のエンダー(地元ではこう呼びます)に行ってきた。
私にとってはマクドナルドより先に味わったファーストフードです。
これは、おもろまちの「回」というお店で食べた、チーズでできたスヌーピー。
お誕生日のお客様には「Happy Birthday」も作ってくれるそうな。
残念ながらこの日は酔っ払ってしまってゆっくりできず残念無念。
この「おもろまち」というところ(那覇新都心)は、
私が沖縄を出てから生まれた街なので、馴染みがない。
ちくしょー、いいなあ。沖縄のみんな、遊び場所が増えて。
これは平和通りにあるスーパーなみさとで撮ったやつ。
色もすごいが香りもすごいよ
洗剤からシャンプー、石鹸と、およそ天然素材が見当たらないよな世界が繰り広げられている。
100%合成素材のお花畑ですな。
ちなみにこの「なみさと」、金物や食器や食品もあって、
こういう風に書くと普通のホームセンターみたいだが、
ちょっとそれとは違うんだなぁ。
新宿にある三平ストアの地下の食器売り場をご存知の方、
あの雰囲気です。
(私は沖縄出身の友達と二人で「これは新宿のなみさとや(彦麻呂風)」と思った)
最後はこれ。
沖縄を出発する日、全国的に天候がくずれて、
飛行機の欠航やら遅れが出た。
那覇空港に着くなり、このホワイトボードを見てびっくり
このボードを見たら、皆さんどうしますか?
そう、11番カウンターにまっしぐらですね。
私たちもそうしました。
もちろん、11番カウンターは長蛇の列。
でも、他のカウンターはそんなに混んでない。
・・あれ??なぜ他のカウンターで受け付けられないの??
と思い、他のカウンターに行ってみると、
なんと、他のカウンターでも手続き可能!!
手続き変更しながら、ホワイトボードの件でクレームを伝えたけど、
直してなかったなぁ。なんか人数が足りない感じでした。
疑いを持たずにそのまま並んでたら、出発も危うくなるところでした。
(実際、20人ぐらいは間に合わず、飛行機の離陸が遅れた)
JAL対応悪すぎっ気をつけろ
ということで、沖縄のまとめでした。
今回は気候もよくて、楽しく過ごしました。
太って帰ってきましたが。