久しぶりに演劇を観てきました。
このブログでも今までにいくつか演劇の感想を書いていますが、
最初のころは主役に惹かれがちだった私、
最近は存在感のある脇役に惹かれます。
今回のお気に入りは吹越満さん。
パンフの写真が色っぽすぎる!
「海をゆく者」を観たときにも思ったのですが、
バイプレイヤーの皆さんは、写真に写るのがうまい!
なぜに動かない画像が、ここまで饒舌なのか。
パンフを眺めてうっとりしています
さて、頭を冷やして作品に戻りましょう。
「華氏451度」-この温度で書物は燃える-
書物の所持が禁じられた近未来で
発見された本を燃やす「ファイアマン」として働く主人公が、
ある出会いから価値観を揺さぶられていく物語。
本を読むことを禁じられ、液晶パネルやスマホ(のようなもの)から
流れる情報だけを得て生きる登場人物たちは、
深く思索せず、楽しい時間だけを求めながら、
一方では薬なしでは眠ることもできないほどに病んでいる。
そんな暮らしに疑問を覚え、流れに逆らい、追われていく主人公。
レイ・ブラッドベリが原作を発表したのは1953年。
65年も前にこのイメージを描いた想像力に驚きます。
舞台を見ながらずっと
「本を読む」ことと「ネットから情報を得る」ことの違いについて考えていました。
「本を読む」ときは、本が語りかけてくることばを、
自分のスピードで受け止め、自分で消化して、
ときには本を閉じればそれ以上つながらなくてもいい。
「ネットから情報」は、まずとにかく分量が多すぎて、
上書きが早すぎて、ひとまず飲み込むしかない。
シャットダウンすることはちょっと難しい。
こんな風に書くと、ネット社会は悪い、というイメージになってしまうけど、
ネットが間口の広い価値観を創ったのは間違いないし、
数年前には知りえなかった情報が手元のちいさなスマホで手に入る
この時代はやっぱり素晴らしいし、楽しい。
なんというか、ネットでつながる暮らしは、
海の浅瀬で泳いでいるような感じがするのです。
ただ、時々潜っていける自分だけの深い海底を持っていると、
ちょっとだけ安心できるかもしれない。
舞台を観ている間もそのあとも、
さまざまに考えが広がり、つながり、
いま私は、ちょっと深みに潜っているところ。