沖縄戦終結62年「慰霊の日」 戦没者追悼式に首相ら参列(産経新聞) - goo ニュース
沖縄に住んでいるときはかえって意識しなかったけど、
出てきてからかえって、この「慰霊の日」の重さを感じるようになってきた。
まぁ子供の頃は、祝日のない6月の唯一のお休みというだけの記憶しかないけど、
でもその日は、必ず正午に黙祷を捧げ、
祖母や母が、沖縄戦の頃の話をしてくれたっけ。
戦争当初、今の沖縄市に住んでいた祖母と母たちは、
戦火を逃れてやんばるの山奥を逃げ惑った。
その頃まだ9歳だった母は、死体を飛び越えることができずに山の中で立ちすくみ、
それを祖母が抱き上げて逃げた。
そして助産婦をしていた祖母は、
戦火の中、お産を手伝って欲しいといわれたが、
断ったよ、と語っていた。
もし、祖母がその戦火の中をくぐって、
他人のお産を手伝ったならば、
美談になって残っただろう。
でも、プロの助産婦である祖母をそうさせるほど、
当時の状態はすさまじかったのだということ。
そして、祖母自身にも守るべき子供たちがいたのだ。
私は、その瞬間自分の身を守った祖母の判断が正しかったかどうかはわからない。
ただ、そのとき祖母が手伝いに行ったなら、
私はこの世に生を受けなかったかもしれない。
もうひとつ、思い出したこと。
平和の礎ができたばかりの頃、両親を連れて行った。
父は、自分の生まれた集落の前で名前を見て、
「これは、自分の家の向かいに住んでたオジーだよ」と言った。
そして父は礎の入り口の売店に行き、
ワンカップを買ってきて、オジーの名前のところにお酒を注いだ。
「オジーは酒が好きだったサー、もうこのオジーにはこんなことをする身内も残っていないから」
私はその光景を見て、なぜか涙が出そうになったのだ。
父にとって平和の礎は、単なるモニュメントではなかった。
自分のごく近所のオジーの名前が刻まれた、
そして、そのオジーがこの世に残したたったひとつの生きた証だったのだ。
私は、確固たる意思を持つ主義者ではないけれど、
確かに62年前に、私の生まれた島でそんなことがあったのだということは、
忘れてはいけないし、伝えなければならないような気がしている。
うかうかしていると、教科書まで書き換えられてしまうからね。