昨日は休み、洗濯をしたり掃除をしたりして一日をすごす。
以前から気になってたアパートのベランダ掃除も終えてすっきり。
土ぼこりが多くて、洗濯物を落とすとすぐに汚れがついてしまうほどなので、
水をまいて30分ぐらいせっせとその土ぼこりを流した。
ところで昨日一日はほとんどマスクをしないでいたせいか、
夜中に鼻をつままれたような花粉症の発作に襲われる。
この時期にマスクしないで外に出るほうが無防備だと思われそうだが、
昨日、うちの地元はこんな天気だったんである。
粉雪と花粉が同時に舞うとは思わなかったわ。
まだまだ修行が足りないなあ(何の?)。
以前から気になってたアパートのベランダ掃除も終えてすっきり。
土ぼこりが多くて、洗濯物を落とすとすぐに汚れがついてしまうほどなので、
水をまいて30分ぐらいせっせとその土ぼこりを流した。
ところで昨日一日はほとんどマスクをしないでいたせいか、
夜中に鼻をつままれたような花粉症の発作に襲われる。
この時期にマスクしないで外に出るほうが無防備だと思われそうだが、
昨日、うちの地元はこんな天気だったんである。
粉雪と花粉が同時に舞うとは思わなかったわ。
まだまだ修行が足りないなあ(何の?)。
この週末は、職場の仲間とをするというダンナにくっついて泊りがけで出かけていた。
とはいっても、私はができないので(ちなみにダンスもできないが)、
ダンナが試合をしてるのをぼんやりながめたり、のなかでシートを倒して
を読んだり昼寝をしたりとのんびり過ごす。
家にいると洗濯物や掃除やらが気になって落ち着かないので、
こういうふうに過ごせるのは悪くない。
さて、時間がたっぷりあるので事前に図書館で借りた本を3冊持っていった。
その中で今回特にいいなあと思ったのが「沢村貞子という人」。
私は沢村貞子さんのエッセイが好きで、「私の浅草」から始まって、絶筆となった「老いの道づれ」まで何冊か読んでいる。
そのエッセイの中で、とてもご主人を立てて、家の中ではご主人を「殿」と呼び、
自身は女優の激務をこなしながら主婦業をこなしていることをよく書いていたが、
今回読んだ本で、その沢村さんの姿を客観的にもういちど見せてもらった。
ご主人が受けるなと言った仕事は一切受けず、エッセイを書く仕事もご主人の前ではやらず、
女優でかせいだお金を丸ごとご主人に渡して管理をまかせきり、食事はほとんどすべて手作りし、
ご主人が嫌いだった食材はたとえ自分が好物であっても絶対食卓に乗せない。
そしてご主人が亡くなったときは本当に「慟哭」し、遺影のそばに自分の写真を飾る。
そしてその写真をみて「自分の方が大きく写ってるのでは」と気にする。
読みながら心の中でなんども「かっこいいなあ」と思った。
本当にかっこいいと思う。
沢村さんはいわゆる古いタイプの女性だとは思う。
こうやって徹底的にご主人の後ろで、目立たないように目立たないように生きるのが、
必ずしも正しいかどうかは、正直、わからない。
でも「かっこいい」と思うのはなぜなのか。
そのかっこよさは、覚悟の決まりっぷりだろうと思う。
「女というものは」ということではないのだろう。
沢村さんと結婚するためにそれまでの仕事や家族を捨ててきたご主人への感謝を込めて、
徹底的にご主人を立てて、つくしていこうと決めたのだ。
「私はとにかくこういう風に生きていく」と決めたが最後、絶対引かない。
その生き方をきちんと具体的に実現しながら生きている。
その姿勢のりりしさがかっこいいんだなあ。
そして沢村さんが生き方を決めてきたように、ご主人も自分の生き方をまっとうされた。
家の中では徹底的に君臨した「殿」の死後、沢村さんは遺稿の中から
「自分のような人間が生きてこれたのは、
ただ一人、貞子という心優しく聡明な女性にめぐり合えたから」
という一文を見つける。
そのとき沢村さんは「涙が、とまらなかった」。
この話は読むたびにこっちも涙が出てしまう。
あこがれながらも相変わらず迷い迷いフラフラとしている私だけど、
こういう本を読むと少しは背筋がしゃんとするような気がする。
とはいっても、私はができないので(ちなみにダンスもできないが)、
ダンナが試合をしてるのをぼんやりながめたり、のなかでシートを倒して
を読んだり昼寝をしたりとのんびり過ごす。
家にいると洗濯物や掃除やらが気になって落ち着かないので、
こういうふうに過ごせるのは悪くない。
さて、時間がたっぷりあるので事前に図書館で借りた本を3冊持っていった。
その中で今回特にいいなあと思ったのが「沢村貞子という人」。
私は沢村貞子さんのエッセイが好きで、「私の浅草」から始まって、絶筆となった「老いの道づれ」まで何冊か読んでいる。
そのエッセイの中で、とてもご主人を立てて、家の中ではご主人を「殿」と呼び、
自身は女優の激務をこなしながら主婦業をこなしていることをよく書いていたが、
今回読んだ本で、その沢村さんの姿を客観的にもういちど見せてもらった。
ご主人が受けるなと言った仕事は一切受けず、エッセイを書く仕事もご主人の前ではやらず、
女優でかせいだお金を丸ごとご主人に渡して管理をまかせきり、食事はほとんどすべて手作りし、
ご主人が嫌いだった食材はたとえ自分が好物であっても絶対食卓に乗せない。
そしてご主人が亡くなったときは本当に「慟哭」し、遺影のそばに自分の写真を飾る。
そしてその写真をみて「自分の方が大きく写ってるのでは」と気にする。
読みながら心の中でなんども「かっこいいなあ」と思った。
本当にかっこいいと思う。
沢村さんはいわゆる古いタイプの女性だとは思う。
こうやって徹底的にご主人の後ろで、目立たないように目立たないように生きるのが、
必ずしも正しいかどうかは、正直、わからない。
でも「かっこいい」と思うのはなぜなのか。
そのかっこよさは、覚悟の決まりっぷりだろうと思う。
「女というものは」ということではないのだろう。
沢村さんと結婚するためにそれまでの仕事や家族を捨ててきたご主人への感謝を込めて、
徹底的にご主人を立てて、つくしていこうと決めたのだ。
「私はとにかくこういう風に生きていく」と決めたが最後、絶対引かない。
その生き方をきちんと具体的に実現しながら生きている。
その姿勢のりりしさがかっこいいんだなあ。
そして沢村さんが生き方を決めてきたように、ご主人も自分の生き方をまっとうされた。
家の中では徹底的に君臨した「殿」の死後、沢村さんは遺稿の中から
「自分のような人間が生きてこれたのは、
ただ一人、貞子という心優しく聡明な女性にめぐり合えたから」
という一文を見つける。
そのとき沢村さんは「涙が、とまらなかった」。
この話は読むたびにこっちも涙が出てしまう。
あこがれながらも相変わらず迷い迷いフラフラとしている私だけど、
こういう本を読むと少しは背筋がしゃんとするような気がする。
ゆうべは仕事で中央区内をぐるんぐるんと回っていた。
朝一番でここの見学に行く。
周辺でノボリを立てたり騒いだりすることはあるけど、
中に入るのは10年ぶりぐらい。見学者用にキレイなロビーができていた。
そしてお昼は議員食堂。
いまは国会の会期中なので、運がよければ有名人に会えるらしい。
ちなみに奥のほうにこじんまりとこんなものもある。
ちなみに回っていません。
そのあとはここに行ったりここらへんをうろついたりここに行ったりして、帰りに居酒屋に入る。
そのときはまだ、ここで運命の出会いがあるとも知らずに。
ふつーの居酒屋なんですよ。ホントに。
ビールを飲んで、サラダなんか食べて、それでやっぱ定番かなあと思って頼んだわけですよ。カラアゲを。
そしたら出てきたカラアゲが、
小ぶりのコロッケサイズ。
おおっ、いいねえいいねえとかぶりついてみた。
サクッ
・・ん?
サクサクッ
・・あれ?
肉が出てこないんですけど。
食べても食べても・・・コロモだらけ・・・・
やっとラスト近くで、小指の先ぐらいにちいちゃく切ったトリを発見。
カキアゲ頼んでんじゃねぇーよ!!
肉に行き着くまでに、たっぷりとアブラを吸い込んだコロモの長い道のりが。
1コ食べたら胃がふくれてしまった。
ひさしぶりに、カラアゲに負けた夜であった。
朝一番でここの見学に行く。
周辺でノボリを立てたり騒いだりすることはあるけど、
中に入るのは10年ぶりぐらい。見学者用にキレイなロビーができていた。
そしてお昼は議員食堂。
いまは国会の会期中なので、運がよければ有名人に会えるらしい。
ちなみに奥のほうにこじんまりとこんなものもある。
ちなみに回っていません。
そのあとはここに行ったりここらへんをうろついたりここに行ったりして、帰りに居酒屋に入る。
そのときはまだ、ここで運命の出会いがあるとも知らずに。
ふつーの居酒屋なんですよ。ホントに。
ビールを飲んで、サラダなんか食べて、それでやっぱ定番かなあと思って頼んだわけですよ。カラアゲを。
そしたら出てきたカラアゲが、
小ぶりのコロッケサイズ。
おおっ、いいねえいいねえとかぶりついてみた。
サクッ
・・ん?
サクサクッ
・・あれ?
肉が出てこないんですけど。
食べても食べても・・・コロモだらけ・・・・
やっとラスト近くで、小指の先ぐらいにちいちゃく切ったトリを発見。
カキアゲ頼んでんじゃねぇーよ!!
肉に行き着くまでに、たっぷりとアブラを吸い込んだコロモの長い道のりが。
1コ食べたら胃がふくれてしまった。
ひさしぶりに、カラアゲに負けた夜であった。
昨日、かねてより懸案の?お寿司大会を開催。
っていうか、大会ってなんやねんという思いのまま週末を迎えたわけなんだが。
実は金曜日の夜から土曜日の日中にかけて、
すさまじい勢いの蕁麻疹に襲われていた。
ちょっとかゆいなーと思いつつポリポリかいてたら、
ああっというまに蚊にさされたような中心が白いポコっとしたふくらみが、
群れをなしてお肌に出現した。
最初はひじ、翌朝には両方の太もも、首筋、両腕、背中などに集団移動。
これが消えるときには立つ鳥後を濁さずにキレイに消えて、
コンニチワとポコポコポコポコと出てくる。
あまりに面白いので写真を撮ろうかと思ったのだが、
自分で自分の蕁麻疹を撮る姿もいかがなものかとわれに返ってやめてしまった。
リンクの画像に負けないすさまじさだったのだが。
とはいっても、これ以上広がるとまずいだろうと、あわててあいているに飛び込む。
そこで前日食べた食事のメニューを言うが、特に引っかかるものはなく、
原因ははっきりしないまま(もしかしたら花粉かも・・と勝手に思っている)
そして最後に確認しておく。
「食事で特に気をつけることはないですか?」
「まあ、食事を聞いてる限り食物が原因ではなさそうだから、大丈夫でしょう」
これを聞いてホッと一息。
さて前置きが長かったが、お寿司大会である。
何を競うかということもなく、実にさりげなく始まったのだが、
トップの画像の寿司盛が届いたときには、
会場のテンションはいやがうえにもピークに。
いや~、回ってないお寿司食べたの何年ぶりだろ。
イクラちゃんも中トロちゃんも、そしてアナゴくんもうまかったですねえ。
ラストに、合計金額当てでみごとニアピンに輝き、
支払い2割引のおいしいおまけもついた夜でありました。
ちなみにじんましんはその夜にはほとんど消えて、
1日たった今のところほぼ完治です。ほっ
っていうか、大会ってなんやねんという思いのまま週末を迎えたわけなんだが。
実は金曜日の夜から土曜日の日中にかけて、
すさまじい勢いの蕁麻疹に襲われていた。
ちょっとかゆいなーと思いつつポリポリかいてたら、
ああっというまに蚊にさされたような中心が白いポコっとしたふくらみが、
群れをなしてお肌に出現した。
最初はひじ、翌朝には両方の太もも、首筋、両腕、背中などに集団移動。
これが消えるときには立つ鳥後を濁さずにキレイに消えて、
コンニチワとポコポコポコポコと出てくる。
あまりに面白いので写真を撮ろうかと思ったのだが、
自分で自分の蕁麻疹を撮る姿もいかがなものかとわれに返ってやめてしまった。
リンクの画像に負けないすさまじさだったのだが。
とはいっても、これ以上広がるとまずいだろうと、あわててあいているに飛び込む。
そこで前日食べた食事のメニューを言うが、特に引っかかるものはなく、
原因ははっきりしないまま(もしかしたら花粉かも・・と勝手に思っている)
そして最後に確認しておく。
「食事で特に気をつけることはないですか?」
「まあ、食事を聞いてる限り食物が原因ではなさそうだから、大丈夫でしょう」
これを聞いてホッと一息。
さて前置きが長かったが、お寿司大会である。
何を競うかということもなく、実にさりげなく始まったのだが、
トップの画像の寿司盛が届いたときには、
会場のテンションはいやがうえにもピークに。
いや~、回ってないお寿司食べたの何年ぶりだろ。
イクラちゃんも中トロちゃんも、そしてアナゴくんもうまかったですねえ。
ラストに、合計金額当てでみごとニアピンに輝き、
支払い2割引のおいしいおまけもついた夜でありました。
ちなみにじんましんはその夜にはほとんど消えて、
1日たった今のところほぼ完治です。ほっ
久世光彦さんが亡くなった。
「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」の演出で知られているが、
私にとって久世光彦というと、向田邦子との思い出をつづった、
「触れもせで」のイメージ。
そのエッセイの中に、作者が向田邦子と待ち合わせをしていて、
彼女が雨の中を走ってくるのを見ているシーンがある。
待ちぼうけをくらった作者が窓の向こうから走ってくる彼女を見つける。
「あれはせめてもの申し訳に走っているのである」
「くるぶしにはねた泥を気にしておしぼりでぬぐおうともせずに」
「裸の財布と裸の鍵を何気なくテーブルの上に投げ出し」
足を組んで座る向田邦子の姿が、いまそこにいるかのように見えてくる。
その情景を思い出すとき、とても暖かな気持ちになる。
それは文章から彼女への想いが伝わってくるからだろう。
私はこのエッセイの、特にこの一文がとても好きで、
キーを打つ練習をするときにこの文章を何度も何度も打ったのを覚えている。
確かに相手のことを想っているけれど、決して縮まらない距離がある。
その距離があるがゆえにより切なく、いとしい想い。
久世光彦の書く向田邦子の思い出からは、いつもそんな想いが伝わってきた。
そして彼の書く小説もドラマも同じように、ほどほどの温度の暖かさがあった。
文章からはいつも昭和初期の茶の間の雰囲気が伝わってくる。
それから、西日がいっぱいに差し込む縁側の風景。
そして、そのふすまの向こうにある影も。
暖かくて、明るくて、でもその向こうには影があって。
光もまぶしいほどは明るくなく、
影も何も見えないほど暗くはない。
そんな、少し曖昧な空気が、私はとても好きだった。
もう「向田邦子原作/久世光彦演出」のドラマが見られないのが寂しい。
もう一度、見たかった。
「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」の演出で知られているが、
私にとって久世光彦というと、向田邦子との思い出をつづった、
「触れもせで」のイメージ。
そのエッセイの中に、作者が向田邦子と待ち合わせをしていて、
彼女が雨の中を走ってくるのを見ているシーンがある。
待ちぼうけをくらった作者が窓の向こうから走ってくる彼女を見つける。
「あれはせめてもの申し訳に走っているのである」
「くるぶしにはねた泥を気にしておしぼりでぬぐおうともせずに」
「裸の財布と裸の鍵を何気なくテーブルの上に投げ出し」
足を組んで座る向田邦子の姿が、いまそこにいるかのように見えてくる。
その情景を思い出すとき、とても暖かな気持ちになる。
それは文章から彼女への想いが伝わってくるからだろう。
私はこのエッセイの、特にこの一文がとても好きで、
キーを打つ練習をするときにこの文章を何度も何度も打ったのを覚えている。
確かに相手のことを想っているけれど、決して縮まらない距離がある。
その距離があるがゆえにより切なく、いとしい想い。
久世光彦の書く向田邦子の思い出からは、いつもそんな想いが伝わってきた。
そして彼の書く小説もドラマも同じように、ほどほどの温度の暖かさがあった。
文章からはいつも昭和初期の茶の間の雰囲気が伝わってくる。
それから、西日がいっぱいに差し込む縁側の風景。
そして、そのふすまの向こうにある影も。
暖かくて、明るくて、でもその向こうには影があって。
光もまぶしいほどは明るくなく、
影も何も見えないほど暗くはない。
そんな、少し曖昧な空気が、私はとても好きだった。
もう「向田邦子原作/久世光彦演出」のドラマが見られないのが寂しい。
もう一度、見たかった。