
昨日、私は剣山にいて来ました。何十年ぶりでしょうか、1990年頃に家族で登って以来の事です。リフトの駅がある標高1800メートルから先はガスで写真が写りませんでした。

沢谷中学の頃は遠足で南側からよく登りました。当時、剣山測候所の見学をさせてもらったものです。昭和46年にリフトが出来て、今は大阪から日帰りで登山ができるそうです。リフトを降る向こうの席で青年が「徳島ツアーの良い思い出ができた」と話していました。

行きしなに中尾山高原の平成荘とせせらぎの水路を見ました。この水路は水道工事を請け負っていた兄シゲが藍住町から遠い所を通って最期に仕上げた作品です。大歩危渓谷や木沢のロクロ渓谷をミニにした感じです。高い絶壁の底を清流が流れています。

バンガローにはお客さんが多く来ていました。

ここは三好市東祖谷山菅生、大剣神社にお詣りをしてから帰途に着きました。

トンネルを抜けると美馬市木屋平、はるか向こうの川成峠を越えて木沢へ帰ります。昔、岩倉や川成の地区の人々はこの峠を越えて木屋平の谷口まで買い物に来ていたのです。吉野川から穴吹川上流に運ばれた地下足袋などの商品が那賀奥にまで届いていたのです。私が沢谷中学の頃、赴任して来た国語のカタヤマ先生が「この辺の言葉は美馬郡の言葉に似ている」と話してくれた事を思い出します。

日が短くなりました。川成峠は曇っていて暗くなり始めています。実は前回の話で大学名誉教授が岩倉に来たのは、剣山測候所の遭難者大谷技官が一緒にソフトボールをした人の話を聞きたくての用件でした。木地師の事では有りませんでした。

午後6時半に実家に着きました。放し飼いのヤギが網に絡まって試行錯誤しておりました。
途中5時に川上から木屋平の古い友人の浦さんに会おうと電話したら、まだ中尾山の農場で仕事の最中で忙しいとのことで、諦めました。専業農民は70歳になっても働いているのです。彼は私と同じ15歳の時に愛知の蘇東興業で働き、定時制高校を出て、ブラジルで農業の修行をして嫁さんを連れて帰り、木屋平で花を作り、高松の市場に出しています。浦キイチ、彼は集団就職の後、山へUターンで成功した素晴らしい先輩です。
私は年金暮らし、67歳も後20日を残すのみ、今日は貴重な1日でした。
さて、梅やんは今日午後にショートステイを退所します。変化しているかどうか。お盆はセツ姉宅でご馳走を食べて居候になります。
それでは今日はこの辺で。