白井健康元気村

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「噛みトレ」で寝たきりはなくせる 油井香代子

2020-01-27 05:45:28 | 特別寄稿

「噛みトレ」で寝たきりはなくせる

■月刊「文藝春秋」2014年8月号の大型企画「『死と看取り』の常識を疑え」 で掲載したものです。


油井香代子(医療ジャーナリスト)  

                                              

 大分県に住むN子さんは、まもなく80歳を迎える。5年前に脳梗塞を患い、2年近く経管栄養や胃ろうで命を繋いできた。当時の主治医からは「回復は難しい」と宣告され、寝たきり状態で要介護度5の認定を受けていた。
「口から食事が摂れず、無表情で一日中ぼんやりと天井を見つめ、会話もできない状態が続いていました。病院から自宅に連れ帰る時には、医療や介護スタッフから『介護するあなたが倒れてしまいますよ』と心配されました」
 同居する長女は、当時を思い出してこう話す。
 病院や介護施設、あるいは自宅で寝たきり状態の高齢者は、年々増加している。団塊の世代が75歳を迎える2025年には、厚労省の推計では230万人に達するという。そのほとんどが脳出血や脳梗塞といった脳血管障害の後遺症によるものだ。麻痺や意識障害、言語障害が残り、経管栄養や腹部に穴を開け管で直接胃に栄養を送る胃ろうを余儀なくされ、多くはそのまま食べることなく亡くなっていく。
 N子さんもそのような経過をたどると、周囲は思っていた。ところが、そうはならなかった。自分で起き上がって好物のから揚げや巻きずしを食べ、週四回のデイケアにも通い、今ではおぼつかない足取りながらも歩けるようになったのである。N子さんがここまで元気になった理由は何か。
 その経緯を長女はこう話す。
「きっかけは、寝たきりの母に何とか口から食べてもらいたい一心で、懇意にしていた歯科医の先生に相談したことでした」
 大分県佐伯市にある歯科河原英雄医院の河原英雄院長は、高齢者の歯科治療に取り組み、義歯の名医として知られている。
 その河原院長がN子さんに行った治療が「噛むトレーニング」だ。N子さんは長年、口を使わない生活を続けていたため、歯はそろっていたが、噛む力が衰え、唾液が出ず口の中は乾いて汚れが目立っていた。誤嚥性肺炎の経験もあった。
「口内を清潔にするために、歯科衛生士や家族による口腔ケアを徹底的に行い、次に噛むトレーニングを始めてもらいました。歯につかない医療用の硬性ガムがあるのですが、これを噛むだけの簡単なトレーニングで、特殊な器具や薬を使ったわけではありません」(河原院長)
 最初は1日5~10分から始め、少しずつ噛む時間を増やしていった。効果はすぐに現れた。まず無表情だったN子さんの顔に変化が生じた。娘の呼びかけに反応し、小さく頷いたり首を振ったりするようになった。物の収納場所を思い出し、テレビのサスペンスドラマを観ながら、犯人役を指さして家族を驚かせた。半年後、さらに驚くことが起こった。
「口から食事を摂れなかった母が食卓のから揚げを指さして、食べたいというそぶりをみせたのです。まさかと思いながら、身をほぐしてあげると、母は美味しそうに食べ出したのです」(N子さんの長女)
 N子さんはその後も日を追うごとに回復していった。体を起こして箸を使って食事をするようになり、経管栄養や胃ろうも必要なくなった。1年後には車椅子で外出できるようになり、2年経った今では家の中を歩けるようになったというのだ。

ガムを噛むと前頭前野が活性化        

 実は今、この「口から食べる医療」が、高齢者医療や介護、リハビリの世界で注目されている。
 最近の脳科学では、何かをやろうとする意欲を引き出すのは、脳の線条体(大脳皮質と視床、脳幹を結びつけている神経核の集まり)の働きによる事がわかってきた。大脳皮質の面積の四割が歯・顎・唇・舌といった咬合咀嚼機能に関係しており、噛むことは脳に刺激を与え、意欲を引き出すことにつながるという。
 それを裏付ける研究も多い。たとえば、マンション居住の高齢者90名を調査した研究では、咀嚼能力の高い人ほど、握力、敏捷性、社会性などの能力が高いという結果が出ている(「高齢者の咀嚼能力と身体活動性及び生活機能との関連性について」(寺岡加代氏等「口腔衛生学会誌44」)。
 咀嚼能力の回復が脳卒中後のリハビリの効率を高めるという研究もある。脳卒中で麻痺が残った患者35名を調査したもので、リハビリの運動と咀嚼能力には密接な関係があり、顎咬合系機能を改善することで、リハビリ効率が上がる可能性があるという(川坂哲男氏等「脳卒中患者の咬合力とそのリハビリテーションによる変化」日本咀嚼学会誌7)。
 N子さんが行っていたガムを噛むトレーニングの効果についても、多くの実験や研究があり、脳の前頭前野が活性化するという報告が出ている。東京都老人総合研究所の咀嚼テストでは、ガムを噛むと脳血流量が増加するという実験データが報告された。また、咀嚼と大脳の神経活動との関係をMRIなどで調べた実験(小野塚實・神奈川歯科大学教授)では、ガムを噛むと大脳皮質が刺激され、特に高齢者では記憶力や思考力に関係する右側の前頭前野も活性化したと報告されている。
 河原院長はこう説明する
「N子さんの場合、脳が活性化して認知機能が戻り、食べる意欲が出てきたことが大きかった。高齢者の中には、咀嚼能力が低下したことで、意欲を失ったと思われる人が多い。その機能を回復させることができれば、脳が元気になり、栄養状態が改善されて、体も元気になっていくのです」
 噛んで食べ、飲み込むという行為は脳のリハビリテーションになるのだ。
     
医療費は約10分の1に

「口から食べる医療」は、胃ろうや経管栄養を続けるより、患者の経済的な負担もずっと少ない。
 福岡県糸島市のつかもとヘルスケア歯科・塚本末廣院長は2年前に福岡歯科大学の准教授を退職するまで、21年にわたり障害者や高齢者の歯科医療研究に取り組んできた。
 その塚本院長の義母(当時68歳)が意識不明で倒れ神戸の病院に入院したのは、14年前のことである。4カ月間の入院生活中誤嚥性肺炎を繰り返し、栄養はIVHで入れ、体に何本もの管をつけて寝たきり状態になった。ほとんど意識が無く、入院期間中は口腔内が乾燥し、舌はカンジダ菌などの感染で変色し、ひび割れていた。
「口から薬を飲ませていましたから、嚥下能力はあったのですが、入れ歯を外されており、物が噛めない状態でした。自分の診療経験から、このまま入院させていたら、回復が望めないと判断し、口腔機能の回復に力をいれていた福岡のリハビリテーション病院に転院させたのです」(塚本院長)
 転院の際には病院からは「移動させると死ぬ」と言われたという。
 転院後は口腔ケアで口腔内の状態を改善することから始めた。入れ歯を装着し、噛めるようにしてIVHをやめた。少しずつ介護食を開始。すると、寝たきり状態だった義母は、体を起こして座って食事を摂るようになったのだ。栄養状態が良くなり、2週間後には、ひとりで車椅子を移動させることもできた。2か月後には退院し、その2日後には海外旅行に出発。背筋をまっすぐ伸ばして歩く義母の姿は、半年前とはまるで別人だったという。
 塚本院長は医療費の明細を知るために最初の病院のレセプトを取り寄せた。IVHや点滴などで寝たきり状態だった四か月間の医療費は、700万円近くに上っていた。
 一方、食べる治療で目覚ましい回復を見せた2カ月間の医療費は、わずか40万円弱だ。14年前のデータだが、管に繋がれてただ生きているだけの医療より、口から食べて歩けるようになる医療のほうがはるかに安上がりだったということになる。
 冒頭のN子さんの場合も、噛むトレーニングにかかったガムや歯ブラシ代は月千円程度だという。噛める機能を回復する医療は経済的にも大きなメリットがあることがわかる。
 各地の歯科医師会や自治体では歯と医療費の関係を調査している。たとえば、香川県歯科医師会の実態調査報告(平成25年)によると、歯が20本以上残って噛める人の医科医療費は年間38万なのに対し、4本以下で噛めない人の医科医療費は年間57万円。19万円もの差がある。この数字からも、健康な口、健康な歯を維持することの大切さがわかるだろう。

胃ろう造設術の点数引き下げ  

 胃ろうを利用し、人間の尊厳を奪われたような生活をしている高齢者は実に多い。実際、日本は先進国で最も胃ろうの利用者が多い「胃ろう大国」だ。推定で56万人、今も毎年約10万人が新たに造設しているという。
 いったん胃ろうになると、死ぬまで口から食べられなくなるというイメージが広まっている。だが、胃ろうはあくまで、経口摂取が不可能な場合や誤嚥性肺炎を起こしやすい場合などに、緊急避難的に行う方法だ。一時的に胃ろうを利用しても、N子さんのように「口から食べる」治療を行えば、最終的に胃ろうは不要となることが多い。
 では、「口から食べる医療」には幾つものメリットがあるのに、なぜ胃ろうを除去できない利用者がこれほど多いのか。
「口から食べる」医療を行うには、その知識や技術を持った人材が必要となる。ところが、残念ながら、十分な能力を持つ医療スタッフが不足しているのが現状だ。そのため、患者に食べられる能力があっても、医師は管理が楽な胃ろうに頼ってしまうことが多い。
 医療経済研究機構の調査報告書(平成25年)によると、胃ろうを造設して在宅介護を受けている人のうち、摂食嚥下訓練をしている人は、15.5%にすぎない。また、全国国民健康保険診療施設協議会の調査報告(平成25年)では、口腔ケア・摂食嚥下リハビリの効果を認識している人は3分の1にとどまっている。「胃ろうを死ぬまで外せない」という説が広く信じられている理由の一つだ。
 だが、ここにきて明るい材料も出てきた。2004年に摂食嚥下の教育を行う日本大学歯学部摂食機能療法学講座を立ち上げた植田耕一郎・日本大学歯学部教授はこう話す。
「摂食嚥下の知識や技術をもつ歯科医も徐々に増えています。脳卒中などで口から食べられない高齢者が増加して、『最期まで楽しく口から食べるという、人間としての基本的な行為の実現を究極の目標とした診療であり学問』の摂食機能療法が、ようやく注目されてきました」
 最近は全国の病院などに摂食嚥下外来が増えているという。「食べる機能の回復」の重要性を認識する歯科医も増え、歯科医ら8500名を擁する日本顎咬合学会でも咬合咀嚼・嚥下機能の回復に取り組んでいる。
 また、安易な胃ろうの増設に対する批判や医療費抑制の流れもあり、摂食機能療法を医療や介護の現場に普及させようという行政の動きも出てきた。
 厚労省は今年度の診療報酬改定で、口から食べられる成果が上がった病院に対し、診療報酬「経口摂取回復促進加算」(185点)を付けることを決めている。また、胃ろうを除去する技術料(胃ろう抜去術)も新たに算定(2000点)できるようになった。逆に胃ろう造設術の診療報酬が1万70点から6700点(嚥下機能評価加算を除く)と4割も引き下げられたのだ。
 現在の診療報酬制度や医療システムの下では、高齢者医療費は増える一方だ。2025年には国民総医療費は70兆円になるという試算もある。しかし、こうして高齢者医療の中身を見直せば、増え続ける医療費に歯止めがかかる可能性もある。
 日本歯科医師会の富野晃副会長もこう断言する。
「食べる機能を維持する歯科医療がきちんと行われれば、毎年1兆円ずつ増加している総医療費は、確実に減るでしょう」 

寝たきり患者が1人もいない

「これからの歯科医は歯・口だけでなく全身を診ることができ、終末期医療にも関わる役目が求められています。医師と歯・口の専門家である歯科医の連携、さらに介護現場でも歯科医や歯科衛生士がかかわるチーム医療がより普及すれば、寝たきりや胃ろうの高齢者は、今より減らせるはずです」(富野副会長)
 医科と歯科、介護が一体となったチーム医療――そのモデルともいえるリハビリ病院がある。長崎市の長崎リハビリテーション病院だ。開設されて7年、143床の回復期専門のリハビリテーション病院で、リハビリや介護関係者の見学も多い。この病院には寝たきりの患者は1人もいない。
「『寝たきり』とよく言いますが、実態は『寝かせきり』というべきでしょう。『寝かせきり』は医療者の怠慢でもあるのです。『寝かせきり』にしないというのが私たちの医療の基本。重度障害のある方でも寝巻きは着ていません。入院中でも生活を大切にするためです」
 開設者の栗原正紀院長は言う。栗原院長は脳神経外科医として、大学病院などで脳卒中患者の命を救ってきた。ある時、命を救ったが後遺症で食べられなくなった患者から「死んでもいいから食べさせろ」と言われたことがあった。命を救えても、人間の基本である食べて話せるような治療ができないことに、医師として疑問を抱き続けたという。その答えが「命を助ける、病気を治すだけの医療から、生活を支える医療に転換すること」だった。
 長崎リハビリテーション病院は徹底したチーム医療のシステムをとっており、組織図も独特だ。普通の病院は、看護部、リハビリテーション部といった縦割り組織になっているが、それを廃止し、医師や看護師、その他の医療専門職も病棟単位で診療にあたる。
「口のリハビリテーション」を何よりも重視しているため、歯科衛生士が常勤して、口腔ケアは徹底的に行う。そのせいか高齢者が多い病院特有の臭いが全く無い。歯科医師は地元の歯科医師会と提携し、必要に応じて歯科医師が訪問診療するオープンシステムが取られている。
「医科歯科連携はもちろんのこと、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、管理栄養士などの専門職が、患者さんの回復と生活支援を視野に入れてそれぞれの知識と技術を提供しています」(栗原院長) 
 多くの施設は、鼻から管を入れっぱなしの持続的経鼻経管栄養を行っているが、ここでは時には管を外して口から食べる間歇的経口経管栄養法を行っている。これらを実現するためには多くの人手が必要となるため、人件費率約67%と極めて高い。多くの病院は50%台だ。
「胃ろうも本当に作る必要があるかを評価し、造設後も口から食べる訓練を行います。急性期病院にはできるだけ胃ろうを作らないようお願いしています。ですから、当院では胃ろうの患者さんは年間4~5人程度しかいません。経管栄養の患者さんには、口から食べる訓練を最低3カ月は行います」(栗原院長)
 その結果、ほとんどの患者が口から食べられるようになって退院していく。「各々の医療専門職がチームを組み、口のリハビリを行うシステムを構築できれば、日本の寝たきり高齢者は激減するはずです」と栗原院長は言う。長崎リハビリテーション病院の医療は、超高齢社会の医療を考える上で、多くのヒントを与えてくれる。
 管理が楽でリスクが回避できるからという理由で胃ろうや経管栄養を続けることが患者にとって本当に幸せなのか。そうではないはずだ。高齢者医療に今必要なのは、「最期まで口から食べる喜び」という選択肢が保障されることなのではないだろうか。

 

【油井香代子(ゆい・かよこ)さんのプロフィール】長野県生まれ。信州大学人文学部卒業後、明治大学大学院修士課程修了。医療・健康・女性問題について新聞や雑誌などに執筆する。また、テレビやラジオなどで医療問題を中心にコメントや解説も。2007年よりイー・ウーマン「働く人の円卓会議」議長。最近は、高齢社会の医療をテーマに寄稿、講演活動も行う。著書に「医療過誤で死ぬな」(小学館)、「あなたの歯医者さんは大丈夫か」(双葉社)など多数。

 

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