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終戦特別企画②日米混血の陸軍航空技術将校は靖国に祀られた

2021-08-15 08:07:52 | 終戦特別企画

終戦特別企画②
日米混血の陸軍航空技術将校は靖国に祀られた


山本徳造(本ブログ編集人、ジャーナリスト)

 

▲栗栖良大尉

 

 日米開戦のほんの数年前、横浜高等工業学校(横浜国立大学の前身)に日米ハーフのラグビー部主将がいた。日本人外交官の父と英国系アメリカ人女性との間に生まれ、シカゴで生まれ育った来栖良である。アメリカでは「ベア」という愛称で呼ばれていたが、8歳のときに両親とともに帰国した。昭和2(1927)年のことである。
 暁星中学校を経て昭和12(1937)年、横浜高工機械科に入学。ラグビー部主将として活躍した。が、昭和15(1940)3月に繰り上げ卒業し、同年4月に川西航空機に入社する。翌年1月に徴兵され、陸軍第八航空教育隊に入営した。
 そして陸軍航空技術学校を経て、同年3月には早くも陸軍航技少尉に任官している。その後、熊谷陸軍飛行学校で訓練を受け、敗戦の前年、陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊(福生に置かれていたので「福生飛行隊」と呼ばれた)に技術操縦士、いわゆるテスト・パイロットとして配属された。
 人柄もよくて色白の長身、そして白人の血が濃く出た顔である。女性にモテないわけがない。待合茶屋の芸者にも人気があった。出張した満洲では、現地のロシア人ホステスから同じロシア人と間違われたことも。またフランスを旅行したときなんか、俳優になるよう誘われたこともあったらしい。
 そんな優雅な日々は長くは続かなかった。戦況の悪化で「福生飛行隊」は首都圏防空部隊の色合いが濃くなり、大尉となっていた来栖も迎撃任務に就く。
 昭和20(1945)年2月17日、前日から首都圏に初襲来した米海軍の艦載機を迎撃するため、来栖も出撃し、空中戦で敵機一機を撃墜した。その後、いったん飛行場に帰還する。 そして再び出撃しようと戦闘機に向かって歩いていたときだった。来栖の頭部に、迎撃のために飛び立とうとしていた「隼」のプロペラが接触してしまう。即死である。公式には「迎撃戦闘時に被弾して負傷、帰還後に死亡」と「戦死」扱いされているが、あまりにも悲しい事故だった。
 ちなみに、来栖一家をモデルにした小説も昭和57(1982)年に出版されている。日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」にたびたび登場する作家の加賀乙彦が書いた『錨のない船』だ。小説では、陸軍のパイロットとなった長男の最期が描写されている。敵機を迎撃中に被弾したが、地上に無事降下した。ところが、日米混血の白人顔だったため、駆けつけた地元民に本土を爆撃した米軍機のパイロットと間違われ、竹槍で突き殺されたというのだ。
 出版当初、一家の登場人物は実名ではなかった。しかし、あろうことか、再版のときには実名で記されたのである。この小説のせいで、来栖が米兵と間違われて地元民に殺されたという「捏造」が、あたかも事実のように流布されてしまう。福生飛行隊での来栖は、その人柄から同僚たちの人気者だった。当時の戦友らが来栖の名誉を傷つけた加賀乙彦に抗議したのは言うまでもない。質問状も送りつけたが、加賀に無視されたという。
 来栖は靖国に祀られた唯一の欧亜混血である。その墓は東京の青山霊園にあるが、墓所の一角には建つ石碑には、古代ギリシャの歴史家、ヘロドトスの名言が刻まれている。
「平和時には息子が父を葬り、戦時には父が息子を葬る」
 その名言を選んだのは来栖の父、三郎だ。そう、日米開戦の前に駐米特命大使だった来栖三郎である。大使夫人のアリスは「帝国軍人の母」であった。敗戦直後に軽井沢の別邸を訪ねてき進駐軍将校が、居間に飾ってある良の写真を見て、こう言った。
「あなたの御子息が戦死されたのを大変お気の毒に思う。彼は日本軍の犠牲になった」
 すると、アリスは毅然として言い放った。
「いいえ、息子は愛する祖国日本を守るために命を捧げたのです。私はそのことを誇りに思います」

〈*本稿は『楯』(2015年10月)に掲載された「ハーフの陸軍航空技術将校はラガーマンだった―靖国に祀られた唯一の欧亜混血」を加筆訂正したものです。〉


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