終戦特別企画⑤
小野田少尉、今の日本をどう思う?
ルバング島再訪に同行した本ブログ編集人
フィリピンのルバング島で戦後も闘い続けた小野田寛郎少尉。25年前の平成8(1996)年、小野田さんがルバング島を再訪するとき、私は『週刊文春』の取材で小野田夫妻に同行した。マニラに着いた当日、マッカーサー将軍が事務所にしていたマニラ・ホテルで歓迎のパーティが行われたが、フィリピンの各界から有名人が詰めかけたものである。
マルコス大統領夫妻を追放したエドゥサ革命の立役者も何人か顔を見せているではないか。伊達男のホナサン大佐もいた。エンリレ元国防相はカクテルグラスを片手で持って上機嫌である。私が話しかけると、「いやあ、キミ―、オノダは兵士の中の兵士だよ。大した男だ」と大絶賛。そのときのグラビア記事を再掲載する。(本ブログ編集人・山本徳造)
『週刊文春』(平成8年6月6日号)
小野田さん ルバング島に還る
22年ぶりの島で妻と共にダンス
文・山本徳造(ジャーナリスト)
5月21日、ルバング島は熱気に包まれていた。“最後の日本兵”小野田寛郎さん(74)が、22年ぶりに還ってきたからだ。
マニラから空軍機に乗った小野田さんが町枝夫人(59)と共に到着すると、「リューテナン・オノーダ(小野田少尉)」の歓声あがった。
訪比の目的はルバング島の住民にお礼を言うこと。そして、小野田さんの出身地、和歌山県海南市の青年会議所が81年に建てた「日比友好の碑」に献花すること。ティレックの丘には戦友が眠っているのだ
ヘリが小高い丘のふもとに舞い降りると、小野田さんは待ちかねたように駆け出した。その速いこと速いこと。あまりの速さに、同行した30人あまリの報道陣はついて行くのがやっと。さすがジャングルで30年鍛えられただけのことはある。
「私がここに来たのは日本とフィリピン、世界の平和を祈るためである」
と語った小野田さんは、15分ほど丘の上で過ごした。丘を降りると、小野田さんを一目見ようと集まった地元住民数百人が握手攻め。にこやかに応じた小野田さんは、夫人の手を取ってヘリに乗り込んだ。
「小野田さんて誰?」「ルバング島ってどこにあるの」―—-戦争を知らない日本の若者からは、こんな反応しか返ってこないかもしれない。しかし、ルバング島では老いも若きも小野田さんを知らないものはいない。というのも、島では無線が電話に勝る重要な手段。そこで、他島からルバング島を呼び出すコールサインが「オノダサン」なのだ。
陸軍中野掌校で情報将校としての訓練を受けた小野田さんが、「同島守備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」という命令をうけてこの島にやってきたのは、日本の敗色か濃くなった昭和19年末。
その8カ月後には、日本は連合国に無条件降伏するが、小野田さんにはその知らせが届かなかった。日本から捜索陳索隊が来るが、敵の謀略だと信じ、呼びかけを無視し続けた。
昭和47年、最後まで一緒だった小塚金七元一等兵が狙撃されて“戦死”。一人残された小野田さんは、2年後に“長い戦争”に終止符を打った。捜索に来た元上官から、任務の解除を伝達されたからである。
ところで、22年ぶりのフィリピンは雨期を迎えたばかりで、時おり激しいスコールに見舞われた。豪雨が小野田さんの記憶を呼び醒す。
「雨か降ると士気を鼓舞するために、覚えている軍歌を片っ端から歌ったものですよ」
折しも聞催中だったルバング町恒例のメイフラワー・フェスティバルに、小野田さんはミス・コンテストの審査員として出席した後、今回の旅の招待者である西ミンドロ州のジーセフィン・サトー女性知事と、夫である日本人のウイリー佐藤氏に案内されて特設ダンス会場ヘ。着飾った10組の若いフィリピン人女性に交じって、小野田さんも町枝夫人とダンスを踊った。
といっても、ホロ酔い気分のオジサンがホステス相手にしなだれかかってチークダンスを想像してもらっては困る。本格的なワルツなのだ。
「家内がへたなものだから、ダンスを踊るのは20年ぶりですよ」
と、小野田さんはいたずらっぽい眼差しで語ってくれた。
いつ、どこでダンスを習ったのか。
「昔、中国の漢口で貿易会社勤めをしていたときに、タンゴもジルバも覚えました」
この日のためにドレスで着飾った地元の女の子たちが、入れ代わり立ち代わり小野田さんにダンスを申し込む。それを決して断らない。
町枝夫人に「嫉妬しませんか」と尋ねると、「ノー、ノー! あの人はダンスのプロですから」
5月20日から25日までの日程を終えた小野田さんは、帰りの機内で、その日のフィリピン紙に目を通した。前日、マラカニアン宮殿にラモス大統領を表敬訪問した記事が載っている。「マラカニアン宮殿を訪問するのはマルコス大統領に降伏して以来」「大統領と戦争犯罪人」という写真説明を見て、小野田さんはこう語った。
「事実誤認もはなはだしい。私は降伏もしていなければ、戦争犯罪人でもない。国際法を遵守して戦っていただけです」
小野田少尉は健在である。