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終戦特別企画③ 硫黄島に散った金メダリスト

2021-08-15 08:08:24 | 終戦特別企画

終戦特別企画③
硫黄島に散った金メダリスト
 
山本徳造(本ブログ編集人、ジャーナリスト)

 

▲欧米を豪遊したバロン西

▲愛馬で車を飛び越える

 

 東京オリンピックが無事終わった。日本の金メダル・乗馬ダッシュで、新型コロナ禍でうち沈む日本人を大いに元気づけたものである。
 さて、終戦記念日が近づくと、一人の金メダリストを思い出さずにいられない。89年前の1932年開催されたロサンゼルス大会最終日に愛馬ウラヌスを駆って「馬術大賞典障害飛越個人競技」で優勝したバロン西こと、西竹一陸軍中尉である。
 もう30年以上前になるだろうか、ロサンゼルスのジャズ・バーで俳優兼監督のクリント・イーストウッドを知人から紹介された。そのイーストウッドは2006年に『硫黄島からの手紙』という映画を監督して話題になった。日本側の指揮官・栗林中将を演じたのが、渡辺謙である。
 この映画では栗林中将の他にもう一人、アメリカでもっとも人気のある日本軍人が登場した。西竹一中尉だ。西は明治35(1902)年7月12日、西徳二郎男爵の三男として東京麻布に生まれた。
 10歳のとき、外務大臣も務めた徳二郎が亡くなるが、正妻との間にできた長男と次男が早世したので、竹一が莫大な資産と爵位(男爵)を次ぐ。これがバロン西と言われるゆえんである。
 学習院初等科から府立一中(現・日比谷高校)に入学したが、2年後の大正6(1917)年に広島陸軍地方幼年学校、大正9(1920)年には陸軍中央幼年学校本科に進み、翌年には新設の陸軍士官学校予科に入校する。
 昭和2(1927)年に陸軍騎兵学校を卒業して陸軍騎兵中尉になった竹一であるが、その3年後、軍務で欧米出張に旅立つ。ニューヨークからヨーロッパに渡る大西洋航路の船中でとんでもない夫婦と知り合うことに。当時のハリウッドの大スター、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻である。
 船の中で交流を深めただけでなく、その後も交友を続けることになった。日本を訪れた夫妻を自宅に泊め、連夜のように豪遊したという。さすが大金持ちの男爵である。イタリアでは、のちに愛馬となるウラヌスを一目で気に入った。しかし、あまりにも高額だったので、軍から予算が下りない。仕方なく自費購入した。相当な財力ではないか。
 ロサンゼルス五輪が始まる数カ月前、日本の馬術競技チームは現地入りしている。もちろん、竹一も練習に励んでいたが、練習が終わると、タキシードに着替え、現地で購入した金色のスポーツカーでパーティ会場に駆けつける日々である。しかもイケメンで175センチの長身、髪型も当時流行のヴァレンチノ風でキメていた。ようするに目立ちまくっていたのである。金メダルをとった後は、さらにパーティ三昧だった。
 そんな竹一だったが、4年後のベルリン五輪では散々な成績に終わる。放蕩生活が祟ったにちがいない。陸軍でも閑職に追いやられる。そして昭和19(1944)年、戦車第26連隊長(中佐)として満洲から硫黄島へ赴任、翌年に壮絶な戦死を遂げた。
 竹一が戦死して3年後の昭和23(1948)年、当時皇居内にあった「パレス乗馬クラブ」に作家の三島由紀夫が入会する。このクラブで指導員をしていたのが、帝国陸軍騎兵連隊中隊長や関東軍師団参謀長などを歴任した印南清だった。
「馬術の師」と三島が仰いだ印南の『馬術讀本』という本が中央公論社から出版されたのは、三島・森田事件からちょうど1年経った昭和46(1971)年11月のことである。なんと表紙には、「三島由紀夫 序及び装本」とあった。その印南が騎兵学校教官時代に教えた一人が西竹一こと、バロン西である。

〈*本稿は『楯』(2015年7月)に掲載された「硫黄島に散ったロス五輪の金メダリスト、バロン西は」を加筆訂正したものです。)


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