白井健康元気村

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平穏という幸せ① 岩崎邦子の「日々悠々」(74)

2020-03-20 04:54:24 | 【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」

【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」(74

平穏という幸せ① 

 

 暖かな日差しになった3月12日のことである。土筆(ツクシ)が出始めているかも、ということで、生えていそうなところへ散策にでかけた。白井市の神崎川の北部、近くの田んぼや小川沿いを歩いていくと、野草の小さくて青い花のオオイヌフグリ、ピンクの小花のホトケノザなどを見かけたが、スギナや土筆は見られない。

 場所を変えて白井と西白井の中間を流れる神崎川周辺に行ってみた。すると小学生やそのお母さんたちのグループの何組かが、まだ枯れ草が多い中を、ワイワイとなにやら探し物をしたあり、ふざけながら遊んでいる。なるほど、コロナ騒ぎで学校は休校なんだと、納得がいった。

 今度は5~6人の年配の女性たちが近づいてきたので、

「何を探してるんですか?」

 と尋ねると、

「ヨモギよ、でもまだ早いみたい」

「私は土筆を探してます」

「あ、それも見かけなかったわ」

「まだ、少し早いんですかね」

 そんなのんびりした会話を交わす。

 必死になって食料となる野草を探し回っていた頃と、今は違うのだ。あきらめて家路に向かう途中、ウォーキングをしている高齢の男性グループにも出会った。子供も高齢者も元気な者は、コロナ騒ぎにはめげず、こうして外気に触れて楽しむ知恵がある。今の日本は平和な時代なのだ。

 過去には日本にも戦争時代があった。もう75年も前の3月10日は東京大空襲のあった日だけれど、ほとんどの人には、確たる記憶などはないだろう。原爆での犠牲者より多く、10万人もの死者が出たが、コロナ騒ぎで今年の追悼慰霊法要はかなり縮小して行われた。高齢化する体験者の証言を聞き取り、発信する取り組みが江東区を中心に行われているという。戦争などがない平和なことが、どれほど大事で幸せなことなのか。

 まだ幼かった私も、その日に起きた大空襲のことなどは、まるで知らない。当時、東京の大学の学生だった兄が、その時の様子を少しは話してくれることがあった。その凄惨さはあまり思い出したくない出来事にちがいないのだが…。

 兄は私の一回り上だ。干支は同じだが、3月生まれなので、学年的には13歳違うことになる。長男である兄の下は4人姉妹で、私は4女である。兄が生まれた頃は、日本も我が家も裕福で平和な時代だった。長男として大事に育てられて、背丈も高く同年齢の人と並んだ写真を見ると、頭一つ飛び出ている。岐阜県の地方都市であるが、学校の成績も良かったようで、5年制の中学を4年から飛び級をして、W大学の学生になった。

 とはいえ、戦争に突入となっていて、学徒出陣(20歳からだが、後には19歳の学生が兵力不足を補った)に駆り出されて行く生徒が多かった。兄は出陣組にはなれなくて、学徒動員(軍需産業や食料生産に動員)であったが、勉学どころではなかったに違いない。

 3月10日の未明の空襲警報は凄まじく、兄は下宿先を逃げ出し、本所の辺りを大空襲で火の粉の降る中を必死に逃げ惑った。「黒焦げの人がたくさん転がってたなぁ」「川にもたくさんの人が浮いてたしな」と、兄は淡々と語っていたが、実際には思い出すのも辛かっただろう。実際にはもっともっと凄惨な場面だったことを、何年も経ってからの思い出を語った人から、私は知ることに。

 その年、つまり昭和20年8月15日が終戦の日となる。しかし、それ以前から我が家は非常事態に陥っていた。2カ月前の6月14日、強制疎開先(お情けで住まわせてくれた農家の納屋)で母親は37歳という若さで肺結核のため亡くなった。

 祖母と4歳上の姉と私の3人は、別の知り合いの家に厄介になっていたので、いざ、葬式となって家族が納屋に揃い、親戚も集まった賑やかさを、私は喜んでいたらしい。はるばると東京からやってきた祖母の娘である叔母は、私を抱きしめながら「不憫だね」と、涙をこぼした。その涙をなぜか不思議に思ったものだ。

 母の死から2カ月後に終戦を迎えることになるが、それ以前には、ド田舎の疎開先でも夜中に空襲警報がなり、向かいのお寺の竹やぶに焼夷弾が落ちた。竹がパチパチと音を立てて真っ赤に燃え上がる炎が、住まいである納屋に燃え移るのではという恐怖に、怯えたことを覚えている。

 すでに父親も、結核に侵されており、母と同じく薬も栄養のあるものも手に入らない。家族の食料を賄うことも、ままならない日々であった。私の記憶にあることは、祖母が家にある着物を背負って、少し離れた地区まで出かけて、なんとかお米やイモなどと交換してもらっていたことだ。私は姉たちの後ろにくっついて、食料になるものを探し回っていた。

 田んぼでは、イナゴ、タニシ、畑では農家が捨てた芋の蔓、キュウリやトマトを拾った。落ちている梅やスモモ、あらゆる野草をいろいろ試したが、レンゲの花は、摘んで遊ぶには良いが、食としてはさすがに不味かった。

 農家の子供はお餅から作るあられを食べていたが、我が家は捨てられたカボチャの種を炒ったのがあられの代わりだった。水団か、お米がわずかに入ったおかゆが主食で、豆腐カスのおからは、栄養源として食べていたが、いつもお腹はゆるかった。

 風呂などはない納屋生活、村に一軒あった雑貨屋で時々仕舞風呂のお世話になっていた。少し離れた所のポンプがある所に、水汲みに行くのが日課で、周りの農家が昼寝をする頃、姉たちと一緒に乳母車にバケツを二つ積んで出かける。車輪のゴムがすり減っていてガラガラと音が出る。「煩い!」と怒鳴られることが度々であった。

 栄養のある食もままならず、薬も手に入れることも出来ず、昭和22年の12月8日、母の死から2年半後、50歳の父が母の後を追った。父は自分の病と闘いながらも、子供たちにも厳しい態度を崩さなかった。ある時、私はお腹が減ってたまらず、砂糖だと思って塩をなめてしまった。気持ちが悪くなって泣いていると、

「卑しい奴め!」

 と、父からげんこつの大目玉を食った。すると祖母が助け舟を出してくれた。「こんなに腹を空かしているんだ!」と。以後、怖かった父が、なぜか私にだけは優しく接してくれるようになった。父の死がどういうことかを理解した私は、さすがに大泣きをしたことを覚えている。

 我が家の貧困は続き、幼稚園には当然行けず、私が麻疹に掛かっても医者には掛ることが出来ない。小学校に通うようになると、4歳上の姉との登下校時には、「肺病の子だぁ」と、棒を持って追いかけられた。ときには小石が飛んでくることも。そんな日々だった。

 息子や嫁に先立たれた60代後半の祖母は、5人の孫たちを残された。学業もままならなかった20歳そこそこの長男の兄は、一家の大黒柱として立ち上がる決意をせざるを得なかっただろう。(つづく)


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