【連載】呑んで喰って、また呑んで(51)
「楽宮」のオモロイ日本人たち③
●タイ・バンコク
「13歳」は小学校を卒業後、父親に言われてパリでフランス語の学校に通ってからリセに留学することになったという。しかし、まだ13歳である。フランス語はおろか、英語もしゃべることができない。よく父親がパリ行きを許したものだ。
少年も少年である。普通なら、前途不安で怖気づくところだろう。しかし、この少年は違った。「何でも見てやろう!」である。同じ外国に出るなら、途中下車して東南アジアも見てみたい。そんな好奇心を剥き出しにし、バンコクに降り立った。
そして、誰から教えられたのか、ここ楽宮大旅社で旅装を解いたというわけである。この少年に他の「住民」が、好奇の目を向けたのは言うまでもない。なにせ、まだ13歳という若さである。
「こんなボロ宿によく泊まろうと思ったなあ」「将来はきっと大物になるだろう」
そう評価する声もあれば、こんな意見も。
「タレントにしても可笑しくない美少年だから、あと数年もしたらフランスの女性にモテモテになるだろうな」「ああ、プレイボーイの素質がある」
私が見ても、「13歳」はどこから見ても美少年だった。目はパッチリで小顔で、身長も160センチは超えている。それに愛想がすこぶるいい。女の子にモテない要素は見当たらないのである。
1階の「北京飯店」で働く15歳の少女も、この少年が気になって仕方がないらしく、用もないのに2階にやってきては、少年をからかう。少年も嫌がるどころか、楽しそうにパントマイムと日本語で応対して、実に楽しそうだ。
1週間も経たないうちに、片言ながらタイ語で少女と話し始めた。この調子ならパリに行っても、すぐにフランス語を何不自由なくしゃべることができるだろう。もちろん、フランスの女の子たちともすぐに親しくなるに違いない。
そんな「13歳」に、バンコクで沈没してしまった日本人たちは、自分たちが叶えることのできなかった夢を少年に託したようである。競って冒険談と失敗談を語り、美味くて安い料理を奢ったりしたものだ。
もう時効になったから言うが、私も屋台に少年を連れ出し、ビールを呑ませた記憶がある。酒の正しい呑み方を教えたいためだった。私が教えるまでもなく、少年は美味しそうにビールを呑むではないか。こうして「13歳」は3週間ほどのバンコク滞在中、みんなから大人としての扱いを受ける。
そして、パリに飛び立つ日がやって来た。ところが、出発時間になっても、少年はなかなか起きてこない。心配した私が、ドアをノックして、
「おーい! 起きろ!」
と大声で叫んでも、反応はない。「住民」が心配して集まってきた。誰かが竹の棒でドアを何度も叩く。「死んでるんじゃないのか」と誰もが思い始めたとき、ドアがすっと開き、寝ぼけ眼の少年がヌーっと顔を出した。
「あれっ、どうかしたんですか?」
大した大物である。この「13歳」、その後はどうなったのか。気になって仕方がない。
さて、少年がバンコクから去ってしばらくしてから、私は「狂犬病」と親しくなった。元週刊誌の記者で、ケニア滞在が長かった人物Мである。私より2歳年長だった。なぜМが「狂犬病」と呼ばれているのか。本人の話によると、こうだ――。
ギャンブル好きのМは、ケニアの首都ナイロビでカジノ通いをしていた。ある夜、カジノからホテルに歩いて戻る途中、数匹の野犬に取り囲まれる。路上に落ちていた棒切れを掴んで身構えるや否や、一匹の犬が襲い掛かった。犬はМの腕をがぶり。必死で犬を引き離しすが、再び飛びかかろうとするので、棒で一撃した。急所を直撃したのか、犬はもんどりうって倒れた。即死だったらしい。仲間の犬が殺されたのを知って、他の犬もその場から散った。
その後のМの行動が面白い。なんと犬の死体を近くの診療所まで引きづって行ったのだ。ナイロビでは犬に噛まれて狂犬病にかかる人が後を絶たないという。しかし、狂犬病かどうかは噛んだ犬を調べないとわからない。そのことを知っていたМは、躊躇せず犬の死体を持参したというわけである。結果、Мは狂犬病に感染していたことがわかった。
狂犬病のせいなのか、Мはときどき発作を起こすという。それも些細なことで逆上するという発作だ。それを目撃した住民が彼を「狂犬病」と呼ぶようになったらしい。相当なケチだとは知っていたが、普段は温厚な彼が、人が変わったように凶暴になるとは信じがたかった。が、それから約2カ月後、カンボジア国境の街で、私は逆上するМの姿を目の当たりにする。(つづく)