【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」(88)
6月21日は「父の日」だった。夫には息子や娘から、彼らなりの方法で感謝の意を伝えてくれた。しかし、当の本人は「あ、そうだった~」と、内心はともあれ、あっさりしたものだ。そういえば、「父の日」は、「母の日」に比べ、世間的にも盛り上がりに欠けている感がある。なぜだろう。
アメリカの南北戦争(1861~1865)終結の直後、社会活動家のアン・ジャービスという女性ら女性たちが中心となり、ウェストバージニア州で「母の友情の日」と題したピクニックなどを行った。かつての敵同士を仲良くさせようという思いからだ。
しばらくして愛国歌『リパブリック讃歌』の作詞者、ジュリア・ウォード・ハウが1870年に「母の日宣言」を発表し、女性たちに政治参加を呼びかけた。しかし、「母の日」誕生の立役者となったのは、アンの娘であるアンナ・ジャービスだ。
アンナの活躍で1908年の5月10日、ウェストバージニア州やペンシルベニア州の数都市で最初の「母の日」が祝われる。その後、全米各地に広がり、1914年には当時のウィルソン大統領が5月の第2日曜日を正式に祝日と定めたことで、「母の日」が世界中に広まった。
一方の「父の日」だが、ワシントン州スポケーンに住むソノラ・スマート・ドッド夫人が、男手一つで自分を含む6人の子供を育ててくれた父に感謝し、「母の日」にならって、1910年6月の第3日曜日に、白いバラを贈ったのが始まりとされている。
父親への感謝に変わりはないだろうが、その日程に関しては、台湾では8月8日、ブラジルでは8月の第2日曜日、オーストラリアやニュージーランドでは、9月の第1日曜日、ロシアは2月23日、イタリアやスペインなどカトリック系の国では、3月19日・聖ヨセフの日が「父の日」と、各国の事情で異なっている。
日本で「父の日」が始まったのは、昭和25 (1950)とされているが、一般的な行事になったのは、1980年代になってからだという。今年の「父の日」を、忘れそうになったのは、連日のコロナウィルスに関する報道の多さによるのかも。
私の場合は、厳格だった父親が早世していることもあって、「父の日」のことは無関心のままだった。結婚してからは、義母には「母の日」への思いはあったが、義父に対しては、深く考えることがなかった。
農業を営んでいた夫の実家であるが、田んぼや畑の主な作業や、山の管理などの段取りは、(後には長男である義兄がしていたが)主に義母がしていたようである。夏休みに家族で夫の実家に行けば、家の前の畑にあるナス、キュウリ、トマトなどの収穫が楽しみであった。
しかし、子供が喜びそうな、トウモロコシ、枝豆、がない。そのことを訊ねると、義父は「腹を壊すといけないから」と言う。庭の片隅にイチジクの木があって、私は「食べたいなぁ」と思いつつ、手が届かないことで、断念した。夕刻になって義父が手招きで私を呼び、「一人で食べな」と言って、イチジクの実を幾つか手渡された。不思議に思っていると「子供はハライタ(腹痛)になるから」と。
当時の岩崎家の人たちは皆、痩せ型だったので、お腹を壊す原因?のものは避けていたようだ。肥っている私は、そのことが悩みであっても、岩崎の家では元気で健康に見える、と誉め言葉になっていた。
折に触れ、義父から私に頼みごとをされた。
「利明(私の夫)に滋養のあるものを食わしてやってくれ。それから、『絶対に飛行機に乗るな』と言ってくれ」
と。
一時は「私が肥っているから言われるんだ」とか、仕事によっては、「移動手段として乗ることになるのに」などと不満にも思った。しかし、度々言われることで、これが義父の口癖でもあり、息子への過剰な愛情表現だと理解した。ある時、義母から「ありがたい、ありがたい」と、夫が昔に比べると、丸くなってきたことを喜ばれた。
義父と義母が我が家に滞在して近隣に出かけることも、度々あった。昼食を取るためにお店に入ると、「俺は要らないから、とみゑ(義母の名)は、ご馳走になれ」
そう言って、義父は外に出てしまう。
贅沢だと思うのか、口に合わないからなのか、理由は分からない。義母の説得で、やっと、食堂の席に着いて全員が昼食にありつける始末である。結局は普通に食してくれたが、こんなことは、一度や二度ではなかった。食卓に並んだもので食べることに悩むと、
「とみゑ、食えや」
と言って、毒見をさせてから口にする。
びっくりするエピソードは、それだけではない。ご祝儀や、仏事があると、村中が総出で当事者の家に集まるのが恒例となっている。それを聞くと義父は、朝食も昼食も、下手をすれば前日の晩から、食事を抜くそうだ。人は、寝溜め、食い溜めは、出来ないというが、義父には可能だったらしい。
ある時、部屋の片隅に味醂の小瓶を隠しているのを発見した。「何だろう?」と思い、口に手を当て、そっと義父に聞いてみると、
「とみゑに、内緒だ。ちょっとだけ、舐めたい」
のだそうだ。物分りの良い義母ではあったが、義父が飲むアルコールには厳しかったのか。
そういえば、私は義父に対して重大なミスを犯したことがある。出かける時の義父は、いつも帽子を被るのだが、それは長年の使用で、見るからにくたびれており、小汚い。私は似たような色と形の帽子を購入し、義父に渡して古いのは廃棄してしまった。何も言わない義父。喜ぶどころか、あまりの落胆ぶりを目の当たりにし、相談もしなかった私の独断と傲慢さに、申し訳なく、胸が痛んだ。
普段から、何かあると、「とみゑ、とみゑ」と、義母を頼りにしながら、ひょうひょうとした生き方の義父だった。84歳になった義父は、私たちがロサンゼルスに滞在しているときに、老衰のため自宅で亡くなった。その日は、奇しくも私の誕生日でもあった。ともあれ帰国してみると、義母は4か月ほど介護をしたことに満足らしく、「看病は短くても長過ぎても悔いが残る」と。
葬儀が終わり、あわただしく赴任先に戻る時、義兄から私たちに、遺産相続の放棄をするようにと、打診された。日本勤務に戻っても、故郷で生活することはない。そのことは明白に思えたので、快諾した。この事は後に、二人の義弟と義妹から、クレームを付けられた。まずあっさりと遺産放棄をしたことと、「残された母を大事にすること」の条件をつけて、一筆書くべきだった、というものだった。
義父は、家父長や父親としての威厳には、少し欠ける人ではあったが、憎めない可愛い人柄だった。義母が家事全般の采配をふるってこられたのは、一見、頼りなげな義父でも、健在であったからこそで、成り立っていた。やはり、「父親というものは、一家の大黒柱」ということを、思い知らされたものである。
我が夫は、子供が育ち盛りの頃には企業戦士でもあった。子供とキャッチボールやゲームをすることもなく、公園に行って遊ぶ時間は皆無に等しく、深夜に帰ることも度々で、まさに母子家庭だった。
「お父さんを残して逝かないでね」
と、息子も娘も言っていたが、今の心境に変化はないのだろうか。
私の本音を言えば、「適当な所で、お先に失礼します」だが、ともあれ、元気村が理想と掲げているように、「ピンピンコロリ」で、今しばらくは二人で暮らしていたい。