【連載】呑んで喰って、また呑んで(66)
金髪女子が暴飲暴食の引き金に
●日本・東京
▲左から台湾人尼僧の依法さん(イェール大学で仏教学博士号)、マーゴ、筆者
初夏だった。台湾から居候が転がり込んだ。と言っても、台湾人ではない。アメリカ人のマーゴである。彼女はアメリカの大学で教鞭をとる友人C君のイェール大学時代のクラスメイトだ。台湾での語学留学を終えたのだが、帰国前に日本にしばらく滞在したいらしい。そんなわけで、拙宅に泊めてやってくれと頼まれたのである。
C君から日本は初めてと聞いていたので、親切な私はわざわざ成田空港まで迎えに行った。アメリカ人にしては小柄な方だろう。長く伸ばした金髪と気さくな笑顔が印象的だった。
その夜、向かいの焼鳥屋で「軽く」一杯することに。が、「軽く」で終わらなかった。嬉しいことにマーゴは無類の酒好きだったからである。二人でビールの大瓶を6本、そして焼酎のボトルを2本空けただろうか。それでも酔っぱらうことはなく、平然としている。いろいろと話をした。両親は離婚したらしい。子供の頃、CIAの仕事をしていた父親と一緒に南米の某国で暮らしていたので、スペイン語も不自由しないという。
相当な酒豪だということがわかったが、健啖家でもあった。手羽先を皮切りに、ハツ、レバー、ぼんちり、砂肝などを次々と平らげる。それもじつに美味そうに。
「もう最高! 台湾料理も美味しかったけど、日本の焼鳥もいいわね。気に入ったわ」
よかった。美味しく食べてくれると、こちらまで嬉しくなる。
翌日も同じ焼鳥屋にアシスタントのNさんも交えて暴飲暴食。Nさんのいないときは荻窪まで遠征し、「はい、喜んで!」の掛け声で知られる居酒屋「や〇〇茶屋」で呑み放題を満喫した。こうして1週間ほど過ぎたろうか。いつもの焼鳥屋で一杯やっていると、
「そうだ」とマーゴが目を輝かせた。「明日のランチだけど、私が台湾料理をつくってあげるわ」
好奇心が旺盛な彼女のことだ。台湾でもいろんな料理に挑戦したのだろう。
そして翌日―。
向かいのスーパーで食材を買ってきたマーゴは料理を始めた。材料は、卵、椎茸、鶏の手羽元、そして香辛料の五香粉(ウーシャンフェン)。まず沸騰した鍋に卵を入れる。茹で卵ができると冷水で冷ましてから素早く殻を剝く。料理に慣れているのだろう、じつに手際がいい。
すべての材料を鍋で10分ほど煮込んで台湾料理が完成した。大皿に盛られた一品から桂皮(シナモン)、丁香(クローブ)、陳皮の入り混じった交じった五香粉のいい匂いが立ちこめる。まるで台湾の食堂にいるみたいではないか。うーん、味も最高である。アメリカ人女性がつくったとは信じられない。
マーゴに味を絶賛しながら舌鼓をうつ。でも、何かが足りないぞ。飲み物だ。蒸し暑いし、自宅にエアコンもないので、キンキンに冷えたビールがいいだろう。冷蔵庫から缶ビールを取り出したのは言うまでもない。台湾、カンパ~い。うっ、うっまー。そして、台湾料理を同じ皿から直接口に放り込む。するとマーゴがある疑問を口にした。
「台湾ではみんなが一つの大皿をつつき合って食事をしていたわ。今のようにね。でも、日本のテレビを見ていると、一人ひとりがそれぞれの皿におかずを乗せて食べるのね。私、台湾のほうがいいと思う。親近感が増すじゃない」
うん、そういえばそうかも。
初めてタイを訪れたときのことだ。あるタイ人に食事に招かれた。料理が盛られた大皿が数枚とスープが入った大きな器が一つ。それぞれの前にはご飯が盛られた皿が置かれていた。それぞれがスプ―ンとフォークで大皿から少しずつ料理をご飯の上に乗せて食べる。
そこまでは別に驚かない。ところが、スープを各自がスプーンですくって直接口に持っていくのを見てびっくり仰天、思わず体が固まってしまった。しかし、そのタイ人とは急速に親しさが増した。ラオスやカンボジアに旅したときもタイと同じだったので、いつしか私も同じ食事マナーになっていたようである。
私の友人たちも、ほぼ同じだった。当時、荻窪に住んでいた大酒呑みのМ君なんか、毎晩のように自宅で宴会をしているので、いちいち小皿を用意するのが面倒になったのかも。この連載でも書いたが、М君とは数年前にシベリア鉄道でウラジオストックからモスクワまで旅をした仲である。
その彼の自宅にマーゴを連れて行った。この日も数人がたむろして宴会の真っ最中。М君とマーゴは北京語で会話して話が弾んでいた。酒もすすむ。
「ミスターМは台湾人みたい。面白かったわ」
すっかり上機嫌のマーゴだった。
そんな暴飲暴食の日々が続く。あるパーティーの帰りだっただろうか、二人は地下鉄・丸ノ内線に乗っていたとき、どこかで見たことのある白人青年が「新宿3丁目」から乗り込んできた。何度がパーティーで会ったことのあるイギリス人なので、マーゴを紹介した。
彼は住まいのある「中野坂上」で降りたが、彼女は興奮冷めやらぬ様子。それも無理はないだろう。彼の父親というのが、マーゴが尊敬して止まないイェール大学教授で、あの世界的ベストセラー『大国の興亡』を書いたポール・ケネディーだったからだ。
さて、彼女の居候生活が1カ月ほど経った1991年8月19日、ソ連で大事件が起こる。ソ連には15の共和国があったが、その権限を拡大しようとしたゴルバチョフ大統領にヤナーエフ副大統領ら保守派がクーデターを起こしたのだ。しかし、ロシア共和国のエリツィン大統領を中心とした改革派に市民が合流して保守派が抵抗し、モスクワで武力衝突が。このニュースを見たマーゴは、もう居ても立ってもいられない。
「私、アメリカに帰るわ!」
「えっ、どうして?」
「アメリカとソ連が核戦争になるかも知れないじゃない! ひとりでいるパパが心配なの。だから帰る!」
その翌日だったか、翌々日だったか、マーゴは慌てふためいて帰国の途に。結局、軍の大部分がエリツィン側についたため、クーデターは3日で失敗に終わる。もちろん、米ソの戦争も起きなかった。そうだ。今思い出した。マーゴが帰国して2年ほどした夏、安全保障関係の仕事で再来日したことを。くそ暑い時期だったので、二人で一番安い代々木のプールに行き、赤坂見附の居酒屋で生ビールをあおった。プハーっ。(つづく)