
【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(81)
銀座の「けもの道」が面白い
銀座(東京)
昔から都会のビルの谷間にひっそりと隠れている薄暗い、細い路地が好きだ。きらびやかな表通りからそんな路地に一歩足を踏み入れるだけで、異空間かと一瞬見紛うばかの混沌とした空間が広がっていることがある。そんな路地をフラフラとさまよい歩くのは私の密かな楽しみのひとつだ。
『バケモノの子』という細田守監督によるアニメ―ション映画がある。2015年に公開されたこの映画は、人間界とバケモノ界を行き来する人間の少年蓮(九太)とバケモノの熊鉄の親子のような交流を軸に成長物語が展開される。
渋谷の街のある路地がバケモノの住む異世界「渋天街」と繋がっているのだが、私は様々な路地に足を踏み入れる度に「何かの弾みで、渋天街のような異世界に紛れ込んでしまったらどうしよう?」などといい年をして幼稚な空想に耽ったりする。
▲『バケモノの子』の主人公 熊鉄と蓮(九太)。渋天街のモチーフは、モロッコの風景らしい
▲渋天街に続く路地のモデルとされる場所。なんだかワクワクする
どこで読んだのか、耳にしたのか忘れてしまったが、都市のビルの谷間の細い路地を「けもの道」と呼んでいるのを言い得て妙だと感心した。Wikipediaによれば、「けもの道、獣道(けものみち、animal trail)とは、獣(けもの、野生動物)が通ることで自然にできる、山や野にある道。大型の哺乳類が日常的に使用している経路」とある。
大都市の路地も、よそ者ではなく、主に地元民が利用していると言う点で、けもの道という呼称は相応しいかも知れない。
こんなことを書いていたら、中学生の頃、ボーイスカウトの昇格試験の訓練で大阪府高槻市の「ポンポン山」のてっぺんで一人キャンプしたことを思い出した。その時、けもの道を登山道と間違えて完全に迷ってしまい、夕暮れ迫る中、半べそをかきながら歩いたものである。
▲木漏れ日に浮かび上がるけもの道
銀座にも「けもの道」がある。銀座通りや中央通り等の表通りの光景は、ここ10年ほどの間に、モダンで意匠を凝らした大きなビルが建ち並ぶ堂々たるものに様変わりした。その洗練された威容は、ニューヨークの五番街が田舎に思えるほどだ。
一方、大通りの華麗な変身の陰で、並木通り、鈴らん通り、みゆき通り、花椿通り、交詢社通り、ガス灯通りなど趣のある名の裏通りには、昔の風情が辛うじて生きながらえている。
とは言え、昔ながらの銀座スタイルの店は激減したようだ。現役時代に飲み歩いていた小さなバーやクラブをほろ酔い機嫌で探し歩いてみると、とうの昔に閉店していたり、カジュアルなカフェやイタリアンレストラン、果ては安い居酒屋に取って代わられたりしている。
美人のママと若い女性一人で切り盛りしているようなカウンターだけの店や、元美人ホステスとおぼしき超高齢のママが退屈そうに営業している店、或いは初老の寡黙なバーテンダーがひとりでグラスを磨いているようなバーなどが身を寄せるように集まっていた古ぼけた雑居ビルなどは跡形もなくなった。代わりに、小ぎれいな新しいビルが眩しい光を細い道に投げかけていたりする。
銀座の路地の奥には、剥き出しの電線や配管が、コンクリートの壁にまるでジャングルの蔦のごとく絡み合ってへばりついていたりする場所があったりする。まるで都会の内蔵がむき出しになっているようだ。
歩を進めると、お稲荷さんの小さな祠、焼き鳥屋、妖しげなバーなどがひっそりと佇んでいる。そこだけ時間が止まっているような錯覚を覚えることもある。
▲銀座の路地ウラ。剝き出しの配管や電線
▲銀座路地ウラにひっそりとお稲荷さん。ビルを建てたときに元々そこにあったお稲荷さんを残したのだろう。祟りを恐れたのかな?
魅力的な街は、陰影のある表情を持っていることが多いが、例外もある。例えば、東京駅の丸の内側には陰の要素がほとんどない。均整の取れた美しい街並みは、近代都市の景観としては恐らく世界一ではないだろうか。勿論、パリやロンドン、ベルリンなど欧州の都市は美しいが、それは降り積もる時間によって形作られた歴史的な美しさである。
一方、丸の内界隈は、最先端の様式美の中に、皇居と復元された東京駅の姿が威厳と風格を添え、過去と現在、そして近未来が見事なまでに融合した美しさであるように思える。そして、八重洲側には新しい高層ビルが次々に建設されてはいるが、まだまだ小さな路地が残っている。
これらの路地に、銀座ほどの奥行きと風情は感じられないが、それでも変りゆく東京に辛うじて残る貴重な「陰」の空間である。次回は、香港、ロンドン、コルドバのけもの道について書いてみたい。
▲新丸ビルから東京駅を望む
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。