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台湾民主化で救われた命 トゥー博士が李登輝元総統を語る

2020-09-04 10:30:53 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

台湾民主化で救われた命

トゥー博士が李登輝元総統を語る

 

 アンソニー・トゥー(台湾名=杜祖健、Anthony T.Tu)博士は、7月30日に死去した台湾の李登輝元総統に2回面談している。トゥー氏は1954年に台湾からアメリカに渡った。当時の台湾は蒋介石による圧政が続いており、「台湾独立」はおろか「民主化」も表立って主張できない暗黒の時代である。トゥー博士自身もブラックリストに載っており、国民党政権による白色テロが横行する台湾に戻ると命を奪われる危険性もあった。しかし、台湾人の李登輝氏が総統に就任したことで、台湾社会に光が射し込む。民主化に一歩足を踏み入れたのだ。李登輝率いる台湾は、驚くほどの経済成長を成し遂げたばかりか、民主的な社会へと変貌する。そんな台湾に戻ったトゥー博士が初めて李元総統に面会したのは、2010年のことだった。はたして「アジアの偉人」は何を語ったのか……。

 トゥー博士は李元総統の訃報を知った直後、自身が顧問を務める榕樹会の会報『榕樹文化』(2020年秋季―21年新年号)に「李登輝総統の思い出」と題する一文を寄稿する。民進党出身の陳水扁元総統への辛辣な評価や低迷する日本経済への忌憚のないアドバイスなど、興味深い話が尽きない。本ブログはトゥー博士と榕樹会事務局長の内藤史郎氏の快諾を得て、その一文を転載する。(本ブログ編集人・山本徳造)

 

李登輝総統の思い出

杜祖健

 

 私は台湾の李総統の家で2回お会いした。李先生は97歳で、この数日 前に亡くなられた。アメリカ、台湾、日本の新聞やテレビでも多く報道された。台湾での強権政治を民主主義に変えた人物であると皆賞賛していた。それで今回私は李先生とお会いした個人的な話だけをしたいと思っている。

■李総統に会う前

 私は台湾を1954年に離れ、それ以来ずっとアメリカに住んでいる。それで李総統については、新聞などの報道で台湾での活躍ぶりを知っていたが、個人的には接触はなかった。私が台湾にいた時は国民党による恐怖政治で全く自由はなく、いつ命が吹っ飛ぶかわからない物騒な世界であった。アメリカには「職業学生」という国民党のスパイが台湾人を監視していた。こういう学生は国民党に反対する人を密告すると当時の台湾政府からお金をもらえた。それでなるべく長く学生とした方が、収入が安定するので俗に「職業学生」という。これらの職業学生はお金欲しさに誰構わず密告することであった。私は一生涯研究に没頭して政治とは関係ないのであるが、やはり密告されて国民党のブラックリストに載っていた。それで台湾に帰ると、警察局長が尋ねにきてまた特務がご馳走しますと言うて呼ばれて質問されたりした。
 ブラックリストに載ると台湾に帰った時に3つの方法で看視される。1級は暗殺、2級はハラスメントで第3級が行動を監視だけする。私は第2級のブラックリストに登録されているのだそうだ。それでこれから台湾に帰ったら危ないと思ったので、父にこれが最後の面会ですと言うた。1983年の時で父はちょうど90歳の時で、父もこれが面会の最後と了解して、本当に涙を流していた。父は1986年に93歳で逝去した。私はブラックリストに載っているので、葬式に帰らなかった。やがて李登輝が総統になり、次に陳水扁が総統になった。噂では台湾はかなり自由になったと聞いたが、台湾に帰って大丈夫かなと心配した。1993年に恐る恐る 台湾に帰った。感じたことは台湾は自由になった。これは李登輝元総統の民主化によるものだと実感した。それで李登輝はどんな人か知らないが、私は個人的には感謝した。

■李登輝総統に会う

 初めて李総統を訪問したのは2010年 で、楊喜松先生の紹介による。楊先生は台湾大学付属病院の医者で父とも知り合いであった。いかにして楊先生と知り合いになったかはよく覚えていないが、先生が私を李登輝総統に面会しないといけないというて、彼が面会をアレンジした。ちょうど2番目の息子Alanとその嫁Evelynも一緒だっので、4人で士林にある李登輝総統宅を訪問した。李総統は淡水にも家があり、そこには主に李総統と面会したい人と会うときに使うのであった。
 李総統は三芝郷でお生まれになり、父と同じ故郷である。それで三芝郷経営の名人文物館に行くと父や李総統のいろいろなものが展覧されている。
 その時に話したことは
1. 父のことはよく聞いているが、会ったことはない無いとのこと。このことは私もはじめて知った。
2. 息子のAlanを見て、これし杜聡明先生の孫だなとおっしゃっていた。またAlanにワイフは白人系なので、すっかりアメリカ人じゃないかと言うていた。
3. 私は李総統に陳水扁元総統が汚職したのは本当かと聞いた。偉い人になると、いろいろと中傷されるので私はこれも噂だけかもしれないと思ったので聞いたのであった。
 李先生は「本当だよ。彼は中国教育で育ったから良悪の区別がつかない。我々は日本教育の下でそだったからそんな汚職なんかしないのだ」」とおっしゃっていた。

▲左から私、李登輝氏、楊喜松氏(2010年に士林の李氏の邸宅で)

 

■二回目の李登輝総統宅訪問

 2回目の訪間は2013年で、日本の初代防衛大臣久間先生をご案内した時である。久間先生は日本、台湾、韓国は仲良くしないといけないから、台湾に行きたいから紹介してくれというので、私も台湾に行ってご案内した。その時は民進党は野党であったが、そこをご案内して2日間ばかしいたようであった。残りの時間は台中の霧峰にある母の家を案内した。先生は初めて台湾の新幹線に乗られ大変興味を持っておられた。それで何で台湾の新幹線に興味があるのかとお聞きした。その返事は彼は日本政府の運輸省の副大臣をつとめたことがあるので、交通機関に興味があるとのことであった。母の家は邸宅では台湾一で国家建築物として 保護されている。母の叔父の林献堂先生宅も訪問し、その孫の奥さんが昼ご飯を招待してくれた。林献堂叔父は母が5歳の時日本に連れてゆき留学させたのであった。林先生は日本時代貴族院議員に任命された。
 この訪間での会話は:
1.「君は誰が総理大臣の時の防衛大臣だったか」と李登輝先生が久間先生にお聞きした。
2. あとは李登輝が一人で滔々としゃべり、私たちはむしろ聞く方であった。第一に李登輝先生が話したのは、日本銀行の総裁は馬鹿だ。日本の経済が悪いのは彼がだめだからとのこと。日本は経済不振でその解消には紙幣をどんどん刷ることだ。今の経済は昔と違うのだとおしゃっていた。

▲左から久間氏、トゥー博士、李元総統


    全部で30分間ぐらいいたので、もっとしゃべったと思うがもう記憶にない。
 それから 私が案内したのは三芝郷の名人文物館で、父や李登輝先生の展覧を見た。そのほか板橋にある林本源庭園を参観した。ここは姉の嫁入りしたところで、台湾一の庭園があり、台湾で五名家の一つである 。台北の近郊の淡水を案内したところ、景色が綺麗だと感心していた。李登輝総統は日本でも評判が良く、多くの日本人が李登輝を訪問したり、招待したりする。その数は多いのでここでは日本の名士一人だけを紹介する。この写真で大阪日台交流協会の野ロー会長を紹介するのにとどむ。(原文のママ)

▲李総統と面談する大阪日台交流協会の野口一会長(2003年10月)

 

 


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