白井健康元気村

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鮮やかに颯爽と旅立つ  アンソニー・トゥー博士追悼〈パート1〉

2024-11-06 05:42:18 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

■アンソニー・トゥー博士追悼〈パート1〉

鮮やかに颯爽と旅立つ

山本徳造(本ブログ編集人)

 


アンソニー・トゥー(Anthony T.Tu、台湾名=杜祖健)博士が11月2日午後(日本時間)、滞在先のホノルル市内で逝去されました。享年94歳。トゥー氏は毒物研究の世界的権威として有名で、白井健康元気村のブログに寄稿されたり、インタビューにも応じられるなど、深い関係にありました。謹んでご冥福をお祈りします。

▲コロラドの自宅にて

▲台湾大学時代のトゥー博士

 

サリン事件で旭日中綬章を受章

 アンソニー・トゥー博士は1930年、「台湾医学の父」と称えられた杜聰明博士(薬理学者)の三男として台湾・台北市で生まれました。1953年に渡米し、ノートルダム大学、スタンフォード大学、エール大学で化学と生化学を研修しています。ヘビ毒が専門でした。
 1957年に日系アメリカ人と結婚し、5人の子供(娘3人、息子2人)に恵まれます。その後、ユタ州立大学、コロラド州立大学で教鞭をとり、1998年からコロラド州立大学名誉教授となり、日本の順天堂大学大学院医学研究科の客員教授も務めました。
 そんな博士に影響を与えたのが、父親の杜聰明博士です。日清戦争で勝利した日本は、清国から台湾を割譲したのですが、阿片が蔓延っている実情に台湾総督府も頭を抱えていました。
 当時、京都帝国大学出身の医学博士だった杜聰明博士は総督府と協力し、見事台湾から阿片を駆逐することに成功します。その後も台湾医学の発展に大きく貢献しました。「台湾医学の父」と呼ばれる所以です。

 博士が一躍脚光を浴びることになったのが、オウム真理教による一連のサリン事件でした。日本の警察当局に協力し、事件の真相究明に大きく貢献したのです。もし博士の関与がなければ、日本各地で大参事が頻発し、何千、いや何万という人が犠牲になっていたに違いありません。
 平成21(2009)年には旭日中綬章受章を受賞しました。まさに日本の大恩人というべき学者なのですから、叙勲も当然でしょう。
 また、平成23(2011)年にはオウム真理教でサリン製造の中心人物で、VXガス殺人事件にも関与した中川智正死刑囚と面会し、死刑が執行される直前まで複数回会っています。もちろん、研究目的の面会でした。
 2017年にマレーシアのクアラルンプール国際空港で北朝鮮の金正恩の異母兄・金正男が暗殺されました。現場の映像を確認して、「神経剤のVXが使われた」といち早く指摘したのもトゥー博士です。
 
コロラドからホノルルに移り住むという連絡が

 先月24日の夜のことでした。
 早めにベッドに入ってうつらうつらしているとき、枕元に置いたスマホの呼び出し音が鳴り響きました。スマホで時間を見ると、午後9時半を少し過ぎ。トゥー博士からでした。
「明後日、ホノルルに行くんです」。
 元気そうな声です。
「へー、ホノルルへ。何しに行かれるんですか?」
「コロラドの一軒家に長男と一緒に住んでるけど、ここは寒いんですよ。それに近くに気軽にショッピングできるような店もない。けど、ハワイには4軒ほどコンドミアムを所有しているから、寒い冬はホノルルに半年ほど住むことにした。ホノルルなら勝手知ったるとこだから、一人でどこでも行けるでしょ」
「息子さんもご一緒ですか?」
「いや、息子は仕事があるので行けない。4日ばかりでいいから一緒に来てほしいと言ったけど…」
 なにしろ94歳の高齢者です。杖をついての歩行で、しかもときどき気を失うことがあると聞いていたので、心配になりました。
「お嬢さんは?」
「彼女も忙しいから一緒に行けないと言ってる」
「いやあ、先生、それは危ないですよ」
「うん、持っていく荷物もあるからね。一人で持てるかな」
 結局、電話での会話が終わったのは午後11時過ぎでした。

 翌日、またトゥー博士から電話がありました。
「息子が一緒に行ってくれることになった」
「先生、それはよかったですね。これで私も安心です」
 この日も1時間は会話しています。

白井健康元気村の仲間とビデオ通話を

 その2日後の26日――
「無事につきました」
 トゥー博士の声は弾んでいました。
「そうでしたか。よかった」
「いやあ、こちらは暖かくていい。一人で近くを散歩したり、退屈しません」
 この日も1時間ほど取り留めもない話を。
 
 そして翌日(27日)も、翌々日(28日)もトゥー博士から電話が。その次の日(29日)の朝も電話がありましたが、電車に乗っていたので電話に応えることはできませんでした。
 この日は火曜日で、毎週火曜日の午後4時から私の住むマンションの集会場で開かれる「ダーツの会」の日でした。いつも8人前後でダーツをしながら飲食を共にするか集いで、参加者は白井健康元気村のメンバーがほとんどです。
 始まって1時間は経ったでしょうか、スマホが鳴りました。トゥー博士からの電話です。
「先生、ちょうどよかった。今、元気村の人たちが集まってダーツをしてるんです。こんな機会は滅多にありませんので、皆さんを紹介します」
 ブログでトゥー博士のことを知っている人ばかりなので、私のスマホを一人ひとりに回してビデオ通話してもらうことにしました。皆さんが喜んだのは言うまでもないでしょう。

 運命の日がやってきたのは、11月2日のことです。
 この日は朝8時前にトゥー博士から電話を頂きました。
「息子が昨日、コロラドに戻りました。今、ひとりです」
「お一人だと寂しいでしょ」
「寂しいというか、ちょっと退屈ですね」
 そんなやりとりをしたのですが、人との打ち合わせがあったので、早々に電話を切り上げました。
 あとで調べると、夕刻にも電話がかかってきたようですが、呼び出し音が聞こえなかったので出なかったのです。今となっては後悔していますが、どうやらそれからしばらく後に旅立たれたようです。あのとき、電話に出ていればと思うと、残念でなりません。 
 
 ところで、本ブログ編集人の私がトゥー博士とどういうルートで知り合ったのか。友人の大阪日台交流協会会長・野口一さんの紹介でした。初めてお目にかかったのは、2018年12月のことです。来日して東京・新宿のホテルに滞在していたトゥー博士に、本ブログ用にインタビュー(記事はパート2で掲載予定)しました。

 


▲▼野口一さん主宰の大阪日台交流協会で記念講演

 


 紹介者の野口さんからは、次のような追悼文を送ってもらいました。

《杜祖健先生と初めてお会いしたのは、京都でした。ピアノをお弾きになり多才ぶりを発揮された事に驚きました。
 その後、和歌山県白浜町で蛇毒のご講演をされ、コブラの毒とマムシの毒の違いを話されて居ました。オウムのサリン事件、和歌山の毒カレー事件、金正男のVX等。豊かな知識でリアルタイムに教えて頂きました。
 コロラドは寒暖差が大きく寒いので、ハワイに移住したら来ないかとお声をかけて下さり来春の予定をしていましたが、願いが叶わず残念至極です。
 ご高名で名家の御出身ながら、我ら凡人にも気安くお声がけして頂き、感謝の念に絶えません。お父上の杜聡明博士の事も、歴史に載らないお話を聞かせていただきました。
 私は彭明敏先生と親しくさせて頂いた数少ない日本人で、杜祖健先生からお父様の杜聡明博士と彭明敏先生のお父様が親しかったので、お会いしたいと言われた事がありますが、生憎、彭明敏先生の体調が悪く願いが叶いませんでした。
 杜祖健博士のお母様は、霧峰林家の出で、此処の玄関の扉に描かれてる絵は、筆を持った絵と剣を持った絵があり、林家はそのどちらかに属する様にとのメッセージで、杜祖健博士は世界的な毒博士になられた。
 お父様の杜聡明博士は、台湾の医学界を創設され多大な貢献をされた方で、台湾のお医者さんは、ほぼ杜聡明博士の弟子、孫弟子になるとも話されていました。杜聡明博士が、袁世凱暗殺に行ったキッカケから帰国までのお話はアクション小説さながらでした。
 今、在米のお嬢様が杜祖健博士の最後は誰とお話しされたかを調査されて居られ、どうも私の様だと言われてます。夕方4時頃、お電話を頂きましたが運転中ですので、後で電話しますと言ったのが最後の会話で、その後杜祖健先生はお亡くなりになった様です。巨星落ちるです。謹んでご冥福をお祈り致します。》 

 自衛艦隊司令官を務めた山崎眞海将からも追悼のメールが届いています。

《大変驚きました。Tu 先生からは、今月1日に、ハワイへ移った、あと半年滞在する旨、メールをいただき、返事を出したばかりでした。
 先生は今年コロラドの新居へ移られましたが、冬は大変寒いところなので、その間ハワイで住むと言っておられました。先生は透析が必要なので、どこへ行く時も透析の手配が必要でした。これがうまくいったのか案じております。
 先生からは、その温かい人間性を含め、もっと教えていただきたいことが沢山ありました。大変残念です。
 ご冥福を心からお祈り致しております。》(パート2につづく)


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