【連載】呑んで喰って、また呑んで(92)
革命家は唐辛子を好む
●中国
エドガー・スノーは『中国の赤い星』で有名になった。同書の中で毛沢東からこんな話を引き出す。
「革命家たちは皆、唐辛子が大好きだ」
毛沢東は唐辛子の産地で知られる湖南省の生まれだ。比較的裕福な農家の息子だったので、唐辛子をふんだんに使った激辛料理を食べて育つ。延安時代も唐辛子を栽培して毎日食べていた。
また肉に目がなく、とくに脂身の多い豚肉が大好きだった。中南海で毛の専属料理人を務めた人物によると、日本でもお馴染みの回鍋肉(ホイクオロウ)と豚肉を醤油でこってりと煮込んだ紅焼肉(ホンシャオロウ)を好んで食したという。
そんな食生活なので、体重も90キロ近かった。当然、毛沢東の侍医、李志綏が脂肪のとり過ぎをたしなめる。が、毛は忠告を聞くような男ではない。相変わらず唐辛子と脂っこい豚肉を食べ続けた。
毛沢東の夫人、江青は山東省生まれ。上海で「藍蘋」という名で女優生活を送ったせいか、都会人である。唐辛子も脂ギトギトで味の濃い田舎料理を軽蔑していた。
それに、毛は若い女性と関係を持つことも趣味の一つ。早い話が、ロリコンだった。結婚も4回している。まさに「英雄、色を好む」である。
そのためか、膣トリコモナスという性病にもかかっていた。治療しなければ、愛人にも感染する。しかも愛人は一人や二人ではない。さっそく侍医は性病を治そうとしたのだが、毛沢東は頑なに拒否した。その理由がふるっていた。
「別に痛くはないから、治療しなくていいよ」
つまり、愛人のことなんか、これっぽっちも考えていなかったというわけだ。さすが、「人類史上最悪の指導者」だけのことはある。情けも何もない男なのだ。この毛沢東の失政で何千万もの中国人が命を落としたのだから。この話をすると、長くなるので止めておく
毛と四人目の妻である江青は晩年、食卓を一緒にすることはなくなり、別居することに。要するに、夫婦仲は最悪だった。それも無理はないだろう。歯は磨かないし、風呂も滅多に入らない。こんな不潔な年寄りと一緒にいるのも苦痛だったに違いない。
それに不規則そのものの生活である。毛は好きなときに食事し、好きなときに眠った。海外からの要人が訪れたときも、いつ毛に会えるかわからない。結局、直前になって、それも夜中に呼び出されるのだから、たまったものではない。
さて、毛沢東は革命家らしいロマンチストだったが、鄧小平は実利主義者と言おうか。何度も失脚を繰り返し、そのたびに復活するという波乱に満ちた83年の生涯だった。
この鄧小平も唐辛子をこよなく愛した革命家である。なにしろ出身が四川省なのだ。1904年に同省の広安で生まれた鄧は、16歳のときにフランスに留学する。
「勤工倹学」という働きながら学ぶという形だったが、生活苦で食事もままならなかったらしい。留学生仲間からは、身長150センチと小柄だったので、「チビの鄧」とか、四川人だから「唐辛子風味のナポレオン」というあだ名で呼ばれることも。「貧乏して満足に食事をとらなかったから背が伸びなかった」と本人は言うが、もちろんジョークだろう。
さて、文化大革命のとき、鄧は2度目の失脚に見舞われる。北京を追放され、新建県へ。配属されたトラクター工場では過酷な肉体労働が待っていた。この当時、鄧小平は何を食べていたのか。工場の跡地に記念館が建てられ、「鄧小平食譜」という献立表が展示してある。それによると、
朝食―茹で卵、饅頭(マントウ)2個、お粥1杯
昼食―野菜3種(胡瓜、苦瓜、韮など)、米飯2杯、どぶろく1杯
夕食―野菜3種、米飯2杯、どぶろく1杯
これに豆板醤(トウバンジャン)と辣椒醤(ラージャオジャン)が食卓に用意されている。豆板醤はご存じのように、空豆でつくった味噌に唐辛子を加えて発酵させたもの。辣椒醤というのは、唐辛子に山椒を混ざったものなので、より刺激的だ。まさに四川料理そのものの味である。
気になったのは、昼食と夕食にどぶろくを呑んでいたこと。昼間から酒を呑むくらいだから、よほど酒が強かったのか。それともフランス時代に昼食でもワインを呑む習慣を身につけたからなのか。一説によると、朝食時に唐辛子を酒の肴にアルコール度数の強い白酒(パイチュウ)を呑んでいたという。
三度の失脚にもめげずに生き延び、最後には「改革開放」で中国を豊かにした鄧小平である。よほどの体力と強靭な精神力が備わっていたに違いない。フランスで覚えたブリッジが趣味で、気分転換のために、よく仲間を誘ってトランプに興じた。
亡くなったのは93歳のときである。毎日のように昼寝をしたのも健康長寿の秘訣だったのかも。もちろん、唐辛子を忘れてはいけない。鄧小平が毛沢東よりも10歳も長生きしたのは、女遊びを控えたからだろう。きっと、そうだ。