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台北大空襲の記憶が蘇る   少年時代のトゥー博士が体験

2021-12-27 11:06:00 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

台北大空襲の記憶が蘇る

少年時代のトゥー博士が体験

第二次大戦末期、東京、大阪をはじめ日本各地の主要都市が米軍機の空爆にさらされました。標的は軍事施設だけではなく、数多くの一般市民も焼夷弾の犠牲になったのです。まさに無差別攻撃だったと言えるでしょう。しかし、空襲されたのは日本本土だけではありません。日本統治時代の台湾でも三度にわたって大きな空襲があったことを、ほとんどの日本人は知らないのではないでしょうか。毒物研究の第一人者で、コロラド州立大学名誉教授のアンソニー・トゥー(台湾名=杜祖健)博士は少年時代に3つの大きな空襲を体験しました。以下は月刊『丸』(令和3年12月号)に掲載されたトゥー博士の貴重な体験談を本ブログに転載したものです。

私が体験した
忘れざる台北大空襲

アンソニー・トゥー(杜祖健)

 

 一九三八年(昭和十三)年二月二十三日、私が小学一年生の時、突然校内で大きな爆発音と同時に窓の硝子が揺れた。みな何の爆発音かと思ったがやがて教室での授業が始まった。しかしその後いきなり空襲警報のサイレンが鳴り、私たちはすぐに帰宅した。これは中国空軍による台北の空襲であり、日本領地内への初めての爆撃であった。
 一九四一(昭和十六)年に太平洋戦争が勃発したが、その後一九四四年までは台北への空襲はなかった。一九四四年になるとフィリピンを占領した米軍による台湾各地への空襲が始まった。空襲は台湾南部の都市から始まり、最後に台北や基隆も爆撃を受けるようになった。
 私にとって最も記憶に残っているのは、一九四四(昭和十九)年十月十二、十三、十四日のハルゼー提督による台湾大空襲であった。次に忘れられないのが一九四五年五月三十一日の台北の大空襲であった。それで今回主にこの三つの空襲について記憶をたどりながら書くことにした。

中国空軍による台北の空襲

 中国空軍が日本領地を空襲したのは一九三八年の台北空襲が初めてであり、そのほか九州に中国空軍が宣伝ビラを撒布したのみである。
 なぜ中国空軍が台北を爆撃したかというと、日本海軍の中国への空襲への報復のためであった。
 一九三七年、盧溝橋で始まったシナ事変が徐々に拡大し、日本の陸軍が中国大陸で戦闘をしたが、海軍のそれに呼応して軍艦からの砲撃、海軍陸戦隊による上海での激戦を展開した。日本海軍の航空部隊もそれを助けるために中国各地を爆撃する必要があった。
 しかしシナ事変の初期のころは日本の陸軍も海軍も大陸に航空基地がなかった。それでいわゆる渡洋作戦として鹿屋海軍航空隊は九州、済州島と台北から飛び立ち戦闘機の護衛なしで爆撃機だけによる渡洋作戦を始めた。
 台北の松山飛行場に進出した鹿屋海軍航空隊石井芸江少佐の指揮のもと中国爆撃のため一九三七年八月十四日、九機の九六式陸上攻撃機で松山飛行場より飛び立った。八月十五日には一四機、八月十六日には六機で中国各地を爆撃した。
 ちょうど私は樺山小学校の一年生であり、学校の屋上から皆生徒たちは爆撃に出発した飛行機に手を振り見送った。
 中国軍の台北への報復爆撃は一九三八年の二月二十三日に起きた。これは中国空軍とソ連の空軍志願隊の二八機のSB爆撃機によるものであり、台北松山飛行場への奇襲であった。彼らは南昌から飛び立ち高空で台北に向かった。
 台北の近くに来ると日本軍に察知されないようにエンジンを止めて滑空し松山飛行場に各機が五〇キロ爆弾一〇発ずつを投下した。しかし航空からの投下であったので、爆弾は飛行場に命中せずその付近の農家にあたり、数人が爆死した。
 後日、私は母と一緒に被害を受けた農村を参観した。また多くの日本人が被害を受けた農家にお金を寄付していた。戦争というのは無慈悲なもので全く関係のない台湾人の農民が殺されたのであった。
 二〇〇五年に北京に行ったとき、中国の薬物研究所所長の陳几勝氏が案内してくれ、「どこが見たいか?」ときいた。それで私は「北京は何回も来ているので名勝地は皆すべて見ているため、今回は盧溝橋の博物館を見たい」と言った。中に入って吃驚したのは一九三八年、つまり六七年前に台北を爆撃した乗員たちの写真を見たことであった。

米艦載機による台湾空襲

 台北は一九四四年十月十二、十三、十四日の三日間、米国の航空母艦から発進した艦載機による空襲を受けた。実際には台北のみならず台湾全島にある飛行場が攻撃されたが、私がいた台北での状況しか知らない。それ以前は空襲警報は時々あったが実際の空襲はなかった。
 当時、私は台北一中の二年生であった。空襲のサイレンが鳴るためにすぐに授業は停止され、学生は皆帰宅した。サイレンが鳴るたびに学生たちは家にすぐ帰れるので、皆大騒ぎをして喜んだ。担任の先生が怒って「敵機が来るのに何が嬉しいのか」と言い、それを聞いて学生たちはすぐにおとなしくなった。
 十月の台湾空襲は、朝八時から警報が鳴ったのだが今までとは違った時間であった。サイレンには二種類あり、一つは警戒のサイレンで、もう一つは実際に敵が来襲したことを通知するものであった。今回はこの二つのサイレンの間隔が非常に短く、三〇分位であったように記憶している。
 私は初めてアメリカの飛行機をこの目で見た。十月十二日の空襲は朝の八時半から午後の四時ごろまで続いた。日本の戦闘機も飛び立って応戦したが、空を眺めるのは危険なので主に庭園にある防空壕に隠れていた。私の家には、父が農芸好きなので奇麗な花畑があった。それを壊してその場所に頑丈な防空壕を作ったので、爆弾の直撃以外は安全であった。
 一九四五年四月の夜、アメリカの飛行機の爆撃により、家の塀に命中したため塀はもちろん玄関も破壊された。私達の防空壕は塀と玄関の間にあり、直撃の場所から一メートルと近い距離であったが、防空壕には損傷はなかった。父が作らせた防空壕は立派であった。
 日本の高射砲が米軍のグラマンを攻撃していた。空には破裂した高射砲の爆発が白い煙となり、あたかも空に綿の塊が浮かんでいるかのようであった。高射砲は敵機を撃ち墜とすためにあるのだが、たいていは当たらずその破片はやがて地上に落ちる。だから上空での米軍の飛行機を眺めるのは危険なのである。高射砲の破片に当たれば致命傷である。また防空壕の中で怖いのは、米軍機を撃つ日本軍の機関砲の音で、タター、タターというものすごく大きい連続音である。高射砲の破壊は遠い破裂は遠いところなのであたかも花火が爆発するような小さい音であったため聞いてもそんなに恐怖感がなかった。
 米軍機の目標は飛行場が主で台北の街自体には損害がなかった。しかし当局からの命令で木の枝を折って燃やして町全体が煙に包まれるようにした。その目的は台北の町全体を煙で覆って米軍機が町のどこを爆撃すればよいかわからないようにするためとのことであった。私見では、米軍の目標は軍事施設特に飛行場であった。それで松山飛行場はこっぴどくやられた。市街自体にはあまり興味がなかったのでそこを煙で包んでもそんなに役にたつとは思えなかった。
 台北から三〇キロぐらい離れたところに淡水という町がある。ここは淡水河が台湾海峡に流れるところで、ここに日本海軍の水上飛行機基地があった。私は海軍の飛行機が水面を滑走して飛び立つ瞬間を何回か見たことがあるがなかなか壮観であった。ここも今回の米軍の空襲で徹底的にやられた。その後ここから水上飛行機が出るのを見たことがないので、徹底的に壊されたのだと思う。
 また淡水は米軍飛行機からの機銃掃射があったようである。台北から少し離れているので私が体験したわけではないが、そこに住んでいた親戚の話では淡水に軍事拠点があったため機銃掃射を受けたとのことである。淡水には清朝時代に作られた要塞があり、太平洋戦争中台湾に移った関東軍がそこに駐屯していた。米軍が反抗するときは淡水から上陸するのではないかと思われていたのである。

台湾沖航空戦の幻の戦果

 当時の米海軍司令官はニミッツ提督であった。任務はマッカーサーがフィリピンのレイテ島に上陸するのを手伝うため、日本の判断を混乱させることと強大な艦隊で日本の陸海軍の飛行機を撃墜することであった。台湾空襲に当たった米艦隊の陣容はものすごく、正規空母九隻、軽空母八隻、戦艦六隻、巡洋艦一四隻、駆逐艦五八隻、給油艦三隻であった。十月十二日に台湾を空襲した艦載機は全部で一三七八機であった。確かに十月十二日の空襲は規模が大きく時間も長かった。十三日と十四日にも艦載機の台湾空襲は続いたが、攻撃の時間は短かった。
 この米艦隊の来襲に対し、日本側は捷二号作戦を発動し全力で米艦隊を九州、沖縄、台湾の航空基地から攻撃した。当時日本の航空母艦はまだ何隻か残っていたが、多年にわたる航空戦消耗で優秀なパイロットが戦死してしまった。そのため基地から出た日本の陸軍と海軍の飛行機が米艦隊を攻撃した。十月十二日の攻撃は一〇一機でもって夜間攻撃をしたが、雲にさえぎられてアメリカの艦船をうまく攻撃できず、未帰還機が五四機にもなった。翌十三日は日本側は四五機で攻撃、十四日は三八八機で攻撃を敢行したが、損害も大きく一〇〇機以上が未帰還となった。
 当時は訓練未熟のパイロットが多く、戦果も誤認が多かったのだが大本営はそのまま信じて多大の戦果があると発表した。
いわゆる台湾沖航空戦というもので大成功と発表した。大本営の発表は、撃沈は航空母艦、戦艦、巡洋艦計一五隻で、撃破が戦艦や航空母艦やほかの軍艦も入れて二八隻と大戦果を発表した。しかし実際には米艦隊の損害は軽微で空母一隻小破、巡洋艦二隻大破のみであった。それで米軍はFull Strengthで全員そろってレイテ湾に上陸出来たのであった。
 当時私たち台湾にいる人たちも大本営発表を信じて、日本はすごいなと思ったりした。その大戦果を祝うため台湾沖航空戦の軍歌まで作られた。翌年の一九四五年フィリピンを取り戻した米軍はそこから台湾各地を空襲した。そういうわけで一九四五年以来台湾への米軍による空襲は日常的なものになった。これについては次の節で述べようと思う。

五月三十一日の台北大空襲

 毎年五月三十一日の日記帳に私は「台北大空襲〇〇周年」と書いた。今年の二〇二一年で七六年前の出来事であるが、私にとってまた台湾の人にとって忘れられない日なのである。
 前年の一九四四年の十月に米艦載機による空襲で初めてグラマン戦闘機を見たが、一九四五年の大空襲では爆撃機B-24が主でそれらを護衛するB-38戦闘機を初めて見た。
 一九四五年の五月三十一日は朝の一〇時でも台湾では暑かった。当時台北は危ないと思っていたので、父は私達がいつでも安全な所に住めるようにと台北の近郊の北投と大屯山の付近の三芝庄に疎開できるようにしてくれていた。父の台北帝大は大渓という遠いところに疎開していた。それで私は通学のため、主に借りた北投の部屋にいることが多かった。また時々三芝庄の家にも行くこともあった。
 その日の朝一〇時ごろ、ラジオの放送が聞こえた。「台湾軍司令部発表。敵機多数は台湾海峡を北上中なり、台北は警戒を要す」。これを聞いてすぐに注意しないといけないと思っていたら、空襲警報のサイレンが鳴った。
 そのサイレンが止むと同時にいきなり聞きなれない飛行機の爆音が聞こえたので、すぐ庭に出てみた。胴体が二つの今まで見たことのない飛行機でスピードが物凄く速い戦闘機で低空のまま私の頭上をかすめて行った。これが初めて見たB-38でアメリカの空襲だと知った私はすぐに鉄兜と双眼鏡を持って付近の丘に行った。
 B-24の大群は台湾海峡から淡水河に沿って台湾島に侵入し、私の住んでいた北投の上空から台北に向かって行った。後から後からと続くB-24は初めて見るアメリカの爆撃機だった。アメリカの飛行機は日本の飛行機と違って機体に迷彩色を施していない。それでジュラルミンのままなので折からの青空に有る太陽の光を反射させるので、目がまぶしくになるほど鮮やかであった。
 やがて台北は黒い煙で包まれ数秒後にものすごい爆発音がして耳の鼓膜が破れるような大騒音であった。音速は光速より遅いのでまず爆撃の黒煙が見え、数秒後にものすごい爆撃の音が聞こえた。次から次へとB-24が続いた。こんな大編隊の飛行機を私は見たことがなかった。B-24の上下と左右に高射砲の破裂した茶色の煙が綿のように空中に浮かんでいた。
 この時、私は初めて日本軍の高射砲弾の破裂を見た。これは燐爆弾で空中で円錐形に破裂するので、飛行機がその円錐形の中にいたなら、いっぺんに何機も墜とせる新型高射砲弾なのであった。青い空に真っ白の白煙が円錐形になったのを眺めるのはなかなかの壮観であった。しかしこの新型高射砲弾をもってしてもB-24を墜とすことができなかった。
 私は急に心配になった。この朝、母と弟の杜祖信が何かの用事で台北に行っていた。こんな大爆撃では誰もとても生存できないと思った。私は午後の三時頃、アメリカの飛行機も見えなくなったので、急いで北投から台北に行って母と弟を探しに行った。
 彼等らは父の薬理学教室に行っているに違いないとおもって、一番初めに台北帝大の医学部の薬理学教室に行った。
 今まであった解剖学教室の建物が全部破壊されており、薬理学教室は大丈夫かなと心配しながらそちらに向かって歩いた。薬理学教室に来ると、窓ガラスは木端みじんに壊されており、人影がない。母と弟は一体どこに行ったのだろうか。
 それから私は日本人の繁華街、城内に向かおうとして、大学病院を通った。精神病棟が爆撃ですっかり壊されていた。おそらくそこにいた患者は皆爆死したと思う。さらに進むと森公園に来た。ここは日本人の繁華街、城内の近くにあり、一面爆弾による穴でいっぱいであった。その穴は地下水が溜まって汚水の池みたいになっていた。
 商店街には庭がないので、日本人は防空壕をこの公園内に作っていた。防空壕は跡形もなく、公園はすっかり爆弾の穴でかこまれていた。これじゃ助かった人はいないと思った。
 私はさらにさらに歩いて進んだ。商店街の城内に来ると人影は、人もなく、すっかりゴーストタウンと化していた。
 台湾銀行の所に来たので中をちょっと覗いてみた。二階のフロアがすっぽり落っこちていた。周りには紙幣がいっぱい散らばっていた。紙幣を盗んだと誤解されたら大変だと思い急いで一枚も拾わずに出た。
 その隣の台湾総督府は爆弾と焼夷弾でやられ、フウフウと火焔が音を立てながら燃えていた。そのそばを通ったが危ないと思い始めたのは二〇mぐらい離れているのに火炎の熱風が顔に当たりやけどしそうになったからであった。
 ようやく徹底的にやられた台北の繁華街を後にして疎開していた北投に戻った。そして母と弟の姿を見て安心した。母に言わせると父の薬理学教室の階段の下に隠れていたが、爆弾の破裂でビル全体が大きく揺れて、今にも壊れそうなので生きた心地がしなかったと言っていた。

疑われた米人教師

 アメリカ側の記録を調べてみるとこの日はB-24二〇〇機で爆撃し、その護衛としてノースアメリカンP-51とロッキードP-38戦闘機が出たのであった。そのころ日本軍は飛行機を温存するためあえて空中に飛び上がってアメリカの飛行機に対して挑戦しなかった。ただ地上からの高射砲だけで対抗した。高度が三〇〇〇mからの爆撃なので高射機関砲は使われなかった。それでポンポンという高射砲の特殊な音は聞こえなかったが、爆弾の破裂が一五㎞ぐらい離れていた北投にいる私にもはっきり聞こえた。
 当時台湾ではこの大空襲は以前台湾で教えていたアメリカ人教師のKerr George(カール・ジョージ)さんが指揮したのだろうという噂であった。台湾にいたアメリカ人は領事館関係の人以外では台北高等学校で教えていたカール先生くらいであった。
 噂の根拠は、彼の教えていた台北高校は無傷であり、彼が兼任で教えていた台北一中はこっぴどくやられていたことである。台北一中に兼任で教えていた時に日本人の教員に侮辱され殴られたことがあるという噂があった。また台湾人地区はほとんど無傷なのに対しやられたのは日本人の商業地区で城内というところ、台湾総督府、軍司令部等、こんなにピンポイントで爆撃できるのは台北の街に詳しい人が指揮したに違いないためと思われた。
 一九五六年、私はスタンフォード大学で勉強した時、カール先生がスタンフォード大学のフーバ図書館に勤務していると聞いたので、電話して会いに行った。
 彼は私を見るなり、「君はお父さんに似ている。お父さんは元気か」と尋ねた。私は単刀直入に「一九四五年五月三十一日の台北爆撃は先生が指揮したのですか」と聞いた。彼はただ微笑して何も言わないのでこんなことを聞くのは悪いと思った。
 しかし彼が話してくれたのは「台湾の空襲はみなフィリピンのクラーク飛行場から出発した。爆撃に出る前に私はこの地区は台湾人の区域だから注意して爆撃しないようにと搭乗員に注意した」と話してくれた。これらから察すると彼が台北上空に来て爆撃を指導していないことが分かった。
 大爆撃の翌日の六月一日、私は台北の被害を見に行った。新公園の所に来ると人体の腐敗した悪臭が鼻につんと入ってきた。この辺りは以前は防空壕でいっぱいであった。多くの防空壕が五〇〇キロ爆弾に直撃されつぶれてしまったのだった。たくさんの人が地面を掘って死体を探していた。「これは何々さんじゃないかな」とつぶやいていた。死体は折からの炎熱で腐敗して顔が倍ぐらいに膨れているので、誰かだと判断するのが難しくなったためであるようだ。
 私は新公園から台湾銀行の方へ歩いて行った。そこには憲兵が銃に剣をつけて守っていた。昨日私が見た時は床全体に台湾銀行のすべての紙幣が散らばっていた。しかし今日は憲兵が護衛して紙幣がとられないように警戒していた。総督府の前へ行くとまだ燃え続けている。建物はコンクリートと煉瓦でできているのにまだ燃えているのは、お役所だから紙や木造の用品が多かったためかもしれない。

アメリカ側の記録

 ではアメリカ側の記録を見てみよう。私は地上からの経験を述べた。それに加えて米軍側の空からの記録を合わせてみると、台北大空襲の歴史を立体的に観察できるのでアメリカ側の報告をすることにした。台北のこの大空襲は表題〈151-A-2〉としてアメリカ空軍に記録されている。
●出撃
 一九四五年の五月三十一日、搭乗員たちは朝早くごはんを取った。今回の爆撃は日本軍の高射砲による反撃が予想された。約三〇〇機のB-24が参加したが、報告書はRobert A.Morgan氏の操縦したB-24のみについて報告されている。R.E.Gregは初めての爆撃参加で、R.D.Edgarが投弾の責任者であった。L.Watsonはフライトエンジニアで、無線通信はB.D.Oxleg、機関銃は上、前、後ろにあり計一〇人の搭乗員であった。
●台北の上空
 前に飛行しているB-24を見てみると多くの高射砲弾が破裂している。私たちが行ったときには日本軍は高射砲の弾をうちつくしているように願った。多くの高射砲弾の破裂の弾幕によって前方が見えないほどである。
 四つの砲弾が私たちのすぐ前で爆発した。その破片がエンジンを貫いたたため機内にいた副操縦士Chuckが右腕を怪我した。また計器盤も壊れてしまった。毎回爆弾を投下するたびにその反動で飛行機が上に飛びあがった。それで私は飛行管理のGregに急いでChuckを床に寝かせ、フライトエンジニアのWatsonに爆撃機の損傷の度合いを調べさせた。無線電話の設備はすっかり損傷して通話ができない。右翼のガソリンタンクも壊れて漏れている。まもなくして第四エンジンもストップストップした。もうひとつエンジンがストップしたらフィリピンまで戻れない。それで飛行機を淡水の沖まで飛ばし、そこで不時着したら米軍の飛行艇が助けに来るのでそれを待つため、なるべく海の方に飛んだ。飛行機の重量を軽くするため、必要でないものは皆捨てて、高度四〇〇〇フィート(一二〇〇メートル)を維持するようにした。
●フィリピンに戻る
 そしてChuckが重傷なので不時着するのをやめ、直接フィリピンに戻ることにした。私自身も左足を破片でやられたので、包帯をぐっと引き締めて止血した。無線電話は故障して使えないので、モールスで無線通信し、なるべくルソン島の北に着陸できるようにしてくれと頼んだ。
 台湾の海岸を離れて二時間たったころ、第三エンジンを試したら始動したので高度を九〇〇〇フィート(二七〇〇メートル)に維持して飛んだ。フィリピンに戻ることが出来たが車輪が出ないので、胴体着陸をしなければならない。フィリピンの北にある飛行場は滑走路が砂利でコンクリートでない。それで着陸は機首を上げて尾翼を地面につけてブレーキとして使い着陸しないといけない。その上飛行機は左右に動かせない、まっすぐに着陸しないといけない。それで地上から正確に誘導してもらわないといけない。こうして困難な着陸が無事に成功し、滑走路端六〇メートルの所で飛行機が止まった。
 すぐに米の風防ガラスを割り、皆そこから脱出した。私とChuckは負傷しているので、自力で脱出できないため、地上にいた人たちが担ぎ出してくれた。

爆撃された台湾と米側の被害

 今回の台北の大爆撃は今までの中で一番大規模で、地上の損害も多大であった。空襲の翌日には台湾総督府は号外みたいな紙を配布して、「市民はよく戦った。これからも残虐な米英軍と続けて戦おう」と市民を激励した。しかし地上の損害は大きかった。めぼしい台北の多くの建物は破壊された。また私の記憶では鉄道ホテルが爆撃され消えてしまった。壊されたのは台北帝大の医学部、大学病院、新公園、台湾銀行、総督府、軍司令部、台北一中、繁華街で特に大きい被害は「人」であった。はっきりした統計は持っていないが、一〇〇〇人以上が爆死した。
 米軍の損害を米空軍の記録で調べてみると、ほとんど無傷であった。具体的な数字をあげてみると次のようであった。二〇〇機のB-24のうち、損害を受けたのはただの一機のみで、墜落はしていない。損傷したB-24は無事にフィリピンに戻った。人的損害は僅か一人の重傷者と一人の軽傷者のみであった。
 これからわかることは制空権を確保してる側が断然有利な立場にあるということであり、またその反対側は徹底的にやられるということである。太平洋戦争初期の日本は連戦連勝であったのは制空権を握っていたためであった。アメリカが反攻し始めてから、日本ははじめ五分五分でわたりあったが、資源の少ない日本は徐々に飛行機も操縦士も消耗し、負けはじめた。この例でわかることは近代戦は国力の戦いであるということである。

 


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