「あなたも、ずいぶん率直なひとだな」
孔明が言い返すと、程子文は妙にさわやかに笑ってみせた。
「すまないな、性分なものでね。しかし、臥龍先生、あんたは斉《せい》の襄公《じょうこう》について、どう思う」
「おかしなことを聞くものだ。宋の襄公のまちがいでは?」
「おれの言いたいのは、妹と通じていた変態野郎のことさ」
「言いたいことがよくわからないが」
「そうだろうな。ここからは独り言と、言い訳だ。
おれはむかし、襄公のようなけだものに仕えていたことがある。吐き気がするほどひどい奴だったよ。そいつから受けた毒が、いまも身に残って抜けない。
癒すには、女たちの力が必要だ。美しく優しく、思いやりのある女たちが。彼女たちは、おれの薬なのさ」
「やはりよくわからぬが、その毒とやらは、いつ抜けるのだろう」
「さて、いつだろうな。負け戦とわかっているなかでも戦わなくちゃいけない。覚悟を決めるまで、おれはこうして、毎日に酔っていたい。
酔いがさめたら、おれはあんたの言うとおり、立派にしてみせるよ」
「あなたの言葉は、ほんとうに酔っ払いそのままだな」
あきれて言うと、程子文は苦笑して見せた。
「そうだろうな。だが先生、一つ頼みがある。もしおれが駄目だったら、あんたの力で劉公子をたすけてやってくれ。
おれは公子が好きなのだ。あの方はなにひとつ悪いことができない方だ。乱世のなかで荊州牧の長男に生まれたということだけが、あの人の罪なのさ。
気の毒だとほんとうに思っているのなら、頼むよ。うんと言ってくれたら、おれもだいぶ気が楽になるんだがなあ」
安請け合いは危険だとわかっていた。
だが、孔明はぼやきつつ嘆く程子文の様子に、それこそ嘘がないことを見て取った。
「では、約束しよう。仮にあなたが倒れたら、わたしが公子をお助けする。だが子文、あなたが倒れるということはあるまい。わたしとほぼ同年なのに、どうしてそんなに先がないようなことを言うのだ」
「おまえさんにはわかるまい」
そう言って、子文は急に真顔になると、孔明の目をまっすぐに見た。
「忘れるなよ、約束を」
その言葉に、果たして諾《だく》といったのか、否《いな》といったのか、孔明はなぜかおぼえていない。
程子文は死んだ。
自分が倒れることを知っていたかのような男だった。
言霊《ことだま》というものが本当にあるのなら、まさにそれに導かれてしまったのかもしれない。
そう思いつつも、孔明はまだ、程子文の死を受け入れられないでいた。
かれもまた、自分の青春時代をいろどったひとり。
そのひとりが、突然いなくなってしまった。
喪失感を、この平和な襄陽城は、まったく反映していないのだ。
※
孔明らの行手に、いまにも泣きそうな劉琦がいなければ、それこそ斐仁や程子文のことも、麋竺のことも、なにかの間違いではないかと思ってしまうほどであった。
「軍師どの、よくいらしてくださいました」
劉琦は孔明に手を差し伸べる。
その様子は、まるで溺れかけた者が、必死に手を伸ばしているかのようだった。
孔明は、この、特徴といえば優しいことだけという年下の公子が嫌いではない。
程子文が言ったように、劉琦には罪はない。
劉表の長男に生まれたことすら、自分で決めたことではないのだから。
これで劉封《りゅうほう》のように野心があるとか、あるいは弟の劉琮《りゅうそう》のようにいくらか才覚があるとかならば、救いがあったかもしれない。
だが、劉琦には野心も才覚も何もなかった。
文字を綴《つづ》っても美文を書けるわけではなく、武器を手にしてもおびえるばかり、歌舞や遊びにたけているわけでもなければ、四書五経《ししょごきょう》に明るいわけでもない。
過度におどおどしているのは、その平凡すぎる性格にたいしての、周囲の圧力が高すぎるゆえだろう。
となりに控えている趙雲が、拍子抜けしたような顔をしている。
それはそうだろう。
自分の部下が劉琦の大事な学友を殺したのだから、とうぜん、その劉琦は自分に対して怒り心頭であろうとおもっていただろうから。
ところが、劉琦は震える手を差し伸べ、孔明たちを歓迎している。
なにがなにやら、といったところだろうなと孔明は推測する。
つづく
孔明が言い返すと、程子文は妙にさわやかに笑ってみせた。
「すまないな、性分なものでね。しかし、臥龍先生、あんたは斉《せい》の襄公《じょうこう》について、どう思う」
「おかしなことを聞くものだ。宋の襄公のまちがいでは?」
「おれの言いたいのは、妹と通じていた変態野郎のことさ」
「言いたいことがよくわからないが」
「そうだろうな。ここからは独り言と、言い訳だ。
おれはむかし、襄公のようなけだものに仕えていたことがある。吐き気がするほどひどい奴だったよ。そいつから受けた毒が、いまも身に残って抜けない。
癒すには、女たちの力が必要だ。美しく優しく、思いやりのある女たちが。彼女たちは、おれの薬なのさ」
「やはりよくわからぬが、その毒とやらは、いつ抜けるのだろう」
「さて、いつだろうな。負け戦とわかっているなかでも戦わなくちゃいけない。覚悟を決めるまで、おれはこうして、毎日に酔っていたい。
酔いがさめたら、おれはあんたの言うとおり、立派にしてみせるよ」
「あなたの言葉は、ほんとうに酔っ払いそのままだな」
あきれて言うと、程子文は苦笑して見せた。
「そうだろうな。だが先生、一つ頼みがある。もしおれが駄目だったら、あんたの力で劉公子をたすけてやってくれ。
おれは公子が好きなのだ。あの方はなにひとつ悪いことができない方だ。乱世のなかで荊州牧の長男に生まれたということだけが、あの人の罪なのさ。
気の毒だとほんとうに思っているのなら、頼むよ。うんと言ってくれたら、おれもだいぶ気が楽になるんだがなあ」
安請け合いは危険だとわかっていた。
だが、孔明はぼやきつつ嘆く程子文の様子に、それこそ嘘がないことを見て取った。
「では、約束しよう。仮にあなたが倒れたら、わたしが公子をお助けする。だが子文、あなたが倒れるということはあるまい。わたしとほぼ同年なのに、どうしてそんなに先がないようなことを言うのだ」
「おまえさんにはわかるまい」
そう言って、子文は急に真顔になると、孔明の目をまっすぐに見た。
「忘れるなよ、約束を」
その言葉に、果たして諾《だく》といったのか、否《いな》といったのか、孔明はなぜかおぼえていない。
程子文は死んだ。
自分が倒れることを知っていたかのような男だった。
言霊《ことだま》というものが本当にあるのなら、まさにそれに導かれてしまったのかもしれない。
そう思いつつも、孔明はまだ、程子文の死を受け入れられないでいた。
かれもまた、自分の青春時代をいろどったひとり。
そのひとりが、突然いなくなってしまった。
喪失感を、この平和な襄陽城は、まったく反映していないのだ。
※
孔明らの行手に、いまにも泣きそうな劉琦がいなければ、それこそ斐仁や程子文のことも、麋竺のことも、なにかの間違いではないかと思ってしまうほどであった。
「軍師どの、よくいらしてくださいました」
劉琦は孔明に手を差し伸べる。
その様子は、まるで溺れかけた者が、必死に手を伸ばしているかのようだった。
孔明は、この、特徴といえば優しいことだけという年下の公子が嫌いではない。
程子文が言ったように、劉琦には罪はない。
劉表の長男に生まれたことすら、自分で決めたことではないのだから。
これで劉封《りゅうほう》のように野心があるとか、あるいは弟の劉琮《りゅうそう》のようにいくらか才覚があるとかならば、救いがあったかもしれない。
だが、劉琦には野心も才覚も何もなかった。
文字を綴《つづ》っても美文を書けるわけではなく、武器を手にしてもおびえるばかり、歌舞や遊びにたけているわけでもなければ、四書五経《ししょごきょう》に明るいわけでもない。
過度におどおどしているのは、その平凡すぎる性格にたいしての、周囲の圧力が高すぎるゆえだろう。
となりに控えている趙雲が、拍子抜けしたような顔をしている。
それはそうだろう。
自分の部下が劉琦の大事な学友を殺したのだから、とうぜん、その劉琦は自分に対して怒り心頭であろうとおもっていただろうから。
ところが、劉琦は震える手を差し伸べ、孔明たちを歓迎している。
なにがなにやら、といったところだろうなと孔明は推測する。
つづく