はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

浪々歳々 6

2020年05月02日 10時14分10秒 | 浪々歳々
のんびりした場所であった。
これといって特徴のある風景ではない。
天まで聳えるような杉の木と、それにからまる蔦かずら、野鳥が茂みから飛び立ち、たまに枯葉色の野うさぎが跳ねるのが見える。
近在の農民しか使っていないであろう砂利道には、ぺんぺん草が風に揺れていた。
ときおり、甲高い声をあげながら、とんびが頭上高く旋回するのが見える。
靄は完全に晴れ渡り、空には、とんびのほかは、雲ひとつない青空であった。
不意に歌声が流れてきたので、なにかと思い、空にむけていた目線を地上に戻すと、おどろいたことに、趙雲が鼻歌を歌っているのであった。
孔明はその脇で、無言のまま、心地良さそうに周囲の風景をながめている。
詩作の対象にもならない凡百の光景であったが、前をゆく二人には、それなりに新鮮に映っているようだ。
すこし遅れてついていく馬良は、朝が早かったので、馬上でうつらうつらしながら、もうすこし面白い場所へ行きたい、などと考えていた。
当初の予定では、特に明光風眉で名高い桂陽の山林をながめ、ちょっと優雅に詩作でもしつつ、どこかの農家へお邪魔して食事を摂り、夜は旅籠でゆっくり、というふうになるはずであったが、孔明の勘のままに足を向けよう、という趙雲の提案どおりにしたら、なんだかたらたらと道を歩くだけのつまらない旅になってしまったのだ。
とはいえ、今回は、疲労しきっている孔明を回復させる旅であるから、孔明が楽しんでいれば、問題はないわけであるが。

『私が付いてこなくても良かったなあ』
と、眠気覚ましに、肩を交互に回しながら、馬良は思った。
一見、三人連れのように見えるが、実際は二人とおまけの一人、という状態である。
たまに孔明が気を遣って、振り向いて話を振ってくれるが、趙雲がこれに入ってこないので、すぐに途切れてしまう。
早朝に言い争ったことを気にして、そうしているわけではないだろうが、この男、見た目の勇壮さを裏切る内気さを秘めている様子。
ときに物足りない人だと思わせるところがあったが、照れ屋で内気なために、あともう一歩のところで、肝心の言葉が出てこないのだ。
器用に見えて、肝心なところで不器用なところが、孔明と気が合う原因なのかもしれない。
交わされる二人の会話の断片をつなげていくと、どうやら互いにじっくり話すのは、かなり久しぶりであった様子だ。
これまた珍しいことに、主に話し手は趙雲であり、孔明は聞き手である。
呉の孫権の妹・孫夫人の暮らしぶりや、彼女を取り巻く侍女たちの話、劉備側の侍女との確執、そのほかに、おのれの部隊でおこったいざこざや、ちょっとした事件など、後ろでただ聞くだけの馬良も、なかなか興味深い。
言葉はすくないが、趙雲の語りは簡潔でわかりやすく、的確だ。
『いろいろ意外な人だな』
と、馬良は感心した。






当初、馬良は、趙雲は、よく浅慮な男にありがちな、盲目的な忠誠を孔明に捧げている武将ではないかと思っていた。
たしかに孔明に心服している様子であるが、そのすべてを肯定するわけではない。
孔明がぐらついているときは、叱り飛ばして矯正し、誤解を恐れずに直言を吐く。
仲がよければあたりまえのような行為であるが、実際、これに社会的な地位が絡んでくると、なかなか直言を交換する、というのはむずかしいものだ。
「たまには顔を出されよ。主公は、孔明が臨烝に籠もっているのでつまらぬ、とこぼしておられたぞ」
と、趙雲が言うと、孔明は、からからと笑って答える。
「顔を見せようかとも思うのだが、主公は新婚であるから、わたしが邪魔をしてはならぬ、とも思ってね」
「冗談ではなく、真面目な話だ。口がさない者の中には、軍師が孫夫人を嫌って避けている、というふうに言う奴もいる。連中のつまらぬ憶測を消し飛ばすためにも、心を曲げて、顔を出せ」
「ふむ、するとあなたも、わたしが、孫夫人を避けている、と思っているのか」
「孫夫人を、というわけではないだろうが、避けているのは事実だろう」
その言葉に、しばし沈黙が流れる。
打てば響く会話を好む孔明にはめずらしい沈黙である。
おや、と背後で聞いている馬良がいぶかしんでいると、孔明がつぶやくように言った。

「やれやれ、あなたを重く感じるときが来るとはな」

『う。』
と、自分が言われたわけではないのに、馬良は胃に石が沈んだような気持ちになった。
人を重い、などと言っておきながら、孔明の纏う雰囲気はさらに重い。
なんだか後ろに先祖の霊でも背負っているのではないかというくらいだ。
趙雲は、というと、孔明の言葉をさらりと流して、答える。
「それが俺の役目であるから仕方があるまい。おまえは短い間に偉くなりすぎた。周囲が遠慮してなにも言わないのは、おまえに心服しているからという理由だけではないぞ」
「そんなことは、いまさら言われなくても判っているさ。あなたには感謝しているよ。もしあなたが私になにも言わなくなったら、そのときこそ、私もおしまいかもしれないな」
「それはない。死ぬ最後の瞬間まで、小言は止めぬから安心するがいい」
冗談だろうなあ、と思いつつ、しかし実際に遺言すら小言、という状況が、容易に想像できてしまうのはなぜだろう。
孔明は、かすかに笑い声をたてた。
「たぶん、わたしが一番に信用しているのは、主公でもなくあなたなのだろうね」
「なんだ、それは」
『私は?』
と、馬良は心の中でつっこんでみたが、もちろん、声なき声が、孔明に届くはずもない。
「以前に話したはずだが? あとでああ言っておけば良かったと後悔するのは嫌なので、そう思ったときに言うことにしているのだ。そういうわけで、これは本音だ」
「そうか」
「そうだよ」
いつの間にか、孔明の背負っていた、重い空気が消えている。
しかし馬良には、孔明の背後に、『部外者立ち入り禁止』のお触書が立てられたような気持ちになった。
とても二人の会話に入っていけない。
おそらく、このままひっそり馬首をかえして、屋敷に帰ってしまっても、しばらく孔明は気づくまい。
つくづく、もう襄陽の時とは違ってしまったのだな、と馬良はさびしく思う。
たとえここに徐庶がいたとしても、趙雲と孔明の間に入っていくことはできなかっただろう。
貝の口をこじ開けるのだってこれほど難しくはない。





しばらく行くと、刈り入れのおわった田んぼの横で、農民たちが雑草を刈っていた。
孔明は馬の足を止め、彼らに声をかける。
「精が出るようだね。今年の実りはどうだい?」
おかげさまで、という返事を馬良は期待したのであるが…
「てんで、だめでございます」
「なぜ?」
「水でございますよ。去年までは、うちらが使い放題だった水路を、あたらしく郡を統括している諸葛ナントカって人が、平等に水を使えるように、なんて余計なことをしたもので、かえって全体に水が行かなくなって、米もいまひとつでした」
「そう…」
ここで食い下がるのが孔明であるが、やはり本調子ではないのか、たちまちどんよりと暗い雰囲気に包まれ、うなだれる。
あわてて、馬良が口を出した。
「しかし、このあたり一帯の取れ高は上がったのではないかね」
「そりゃあね。喜んでいる家もあるようですが、うちらには迷惑です」
しょんぼりとしている孔明に、馬良は、うながす。
「ほら、元気を出したまえ。聞いた相手が悪かったのだよ。彼らのような、水利を独占している一部の農民から、水利を解放して、みなに使わせる、というきみの策は間違ってないよ」
孔明は、わかったような、わからないような、うむ、という曖昧な返事を寄越す。

「あそこにいる、ほかの農民にも聞いてみよう」
と、趙雲が助け舟を出した。孔明はもう、聞く元気がないようであったので、代わりに馬良が尋ねる。
「今年の出来はどうだね」
しかし。
「いまひとつですな」
「なぜ」
「このたびわしらの郡の統括になった諸葛ナントカ様が、あたらしい品種を植えろとお命じになったのですがね、これがうちの土地にまるで合わなかったものですから」
横にいた農民も、うんうんと頷いて、これに同調する。
「きっと、諸葛ナントカ様は農業ってものを生業にしたことがねぇんだろうなぁ。冷害につよいとか、イナゴに食われにくいとか、いろんな謳い文句がついていたもんで、ワシらも期待したんだけれども、なんか稲穂の粒のひとつひとつが小ぶりでねぇ」
「たしかに郡で新しい品種を勧めたのはたしかだが、土地によって合う、合わないがあるから、それぞれ検討してから植えるようにと達しをしたはずだが?」
馬良が言うと、農民たちは顔を見合わせ、それから首を振った。
「うんにゃ。ワシらはそんな話は聞いてません」
それはおまえたちが悪い、と馬良は孔明のために口にしかけたが、ほかならぬ孔明が、口をはさむ。
「それは、説明を徹底しなかったわれらに落ち度があった。すまなかったな。許されよ」
やたらと身なりが良くて目鼻立ちの通った青年が、そういって頭を下げるものだから、農民たちは目を白黒させている。
そして、孔明の背負ってる暗い空気は、ますます濃くなっていくのであった。

「どうやら、またも聞いた相手が悪かったようだぞ」
と、趙雲が見かねて口を入れてきた。
そして、顎で示す方向を見ると、直前に話を聞いた雑草を刈っていた農民が、作業の手をとめて、じっとこちらの様子を窺っているのであった。
「どうやら、おなじ地主にやとわれている小作人のようだな。この一帯の大地主は、軍師のやりように反発をしているのだ。上の心は下に反映する。今回は、たまたまだ。そう気を落とすな」
「趙将軍の言うとおりだよ、亮くん。そんなに落ち込むことないじゃないか」
しかし孔明は、二人の声にうつむき加減に首を振ると、ぼそぼそと答える。
「わたしのやり方が気に食わない人間がいるのは仕方がないさ。だが、指導が徹底していなかったがために、農民たちの暮らし向きが悪くなっているのであれば、申し訳ない」
「君はよくやっているよ。ついこの間まで、隆中の山の中で本を読んでばかりいた人間が、こうして三郡の監督を切り盛りしているのだから。たしかに彼らは、ああ言ったけれど、書類の数字の上では、三郡ともに、以前よりずっと、よくなっているのだよ」
「所詮、数字は数字なのだ。見たかい、さっきの彼らの不満たらたらの顔を。たとえ全体の数字が上向いていても、彼らがあんなふうにして不満を持っているのであれば、やはりわたしの治世というのは間違っているのではないか」
「まだ結論を出すのは早いよ。ほら、村が見えてきた。あそこでも話を聞いてみよう」
三騎の行く手には、馬良の言うとおり、村の姿が見えてきた。
孔明はちらりと村のほうを見ると、ぼそりと言った。
「…もう家に帰りたいな」
馬良はあわてて言う。
「まあまあ。結論は急がずに。だいたい君、この旅は趙将軍のためでもあるのだよ。趙将軍の意向を大切にするべきではないかね」
言われて孔明は、顔を上げると、すこし離れたところで、のんびり馬を歩かせる趙雲のほうを見た。
馬良には、その姿はまったく普通にしか見えないのであるが…
「うむ、だいぶ機嫌がよいな。ありがとう良くん、この旅の目的を忘れるところだったよ。仕方がない。子龍のためにも、旅はつづけよう」
「そうとも。それでこそ亮くんさ」
「それでこそ、か。良くん、がっかりしたのではないかい?」
「なぜ?」
「わたしは襄陽で、きみにずいぶん偉そうな口を利いていた。
しかし実際に三郡を統治してみたら、結局、ハンパな結果しか出せていない。もし過去に戻れるならば、わたしは過去の私の口を自分で塞ぎたい気分だよ」
「何を言っているのだい。君、高望みが過ぎるのじゃないかな」
孔明は、しばらく沈黙した。おや、怒らせたのかな、と馬良は心配したが、そうではない。
孔明は、口元に寂しそうに笑みを浮かべて、やがて言った。

「江東で、周公瑾という男に会った」
「知っているよ。会ったことはなかったが。美周郎なんてあだ名のある、ずいぶんと煌びやかな男だったらしいね」
「世の中に、これほど素晴らしい男がいるのか、と、正直おどろいたほどにすごい人物だった。
何ってね、彼がそこにいる、というだけで、周囲の人間の顔や目つきが一変するのだよ。男も女も、も武将も関係ない。
ありとあらゆるすべての人間が、彼を見るとき、目を輝かす。信頼する者を見るときのまなざしなのだ。
この人のためならば、犬馬の労も惜しまない、という目をしている。
さらにおどろいたことにはね、兵士たちがこぞっていうのだよ。『美周郎がわれらの上にいるかぎり、負けることはない』と。
兵士たちだけではないのだ。漁民も、『美周郎のおかげで、安心して漁ができるのだ』、と。ほとんど神のような扱いなのだ」
「たしかに、それはすごいな」
「本人はというと、まるで気負っていない。万人の期待と信頼を集めれば、そりゃあ責任も重くなる。普通は縮こまるか、でなければ勘違いして尊大になるだろう? 
そうではないのだ。周公瑾にとって、賞賛されること、信頼されることは、あたりまえのことなのだ。そうして、それだけのことを彼はしていた。惜しくも早死にをしたけれど、悲壮感のまるでない、じつに颯爽とした人物だったよ」
孔明が、そこまで人を褒め上げるのを聞いたことがない馬良は、感心してその話を聞いた。
劉備を語るときですら、孔明はこれほどまでに賞賛しなかった。
不意に、孔明の顔が曇る。
「とてもこんなふうにはなれないと、初めて他人を見て思ったよ」
らしくない言葉に、思わず馬良は孔明の横顔を見る。
「なれない、だなんて…」
「いいや、気休めは言わなくて良い。文武両道、という言葉があるが、彼はまさにその体現だった。
もし生きていたならば、この荊州はすべて江東のものとなり、わたしたちはわずかな土地にしがみつき、いかにして状況を逆転させようかと、いまだに右往左往していたかもしれない。彼に比べれば、わたしなぞは、多少頭が良くて口が回り、顔が良いだけの士人に過ぎぬ」
それだけ条件が整っていれば、十分じゃないか、と馬良は思ったが、孔明のように、大志を抱いている人間にとって、人よりちょっと抜きんでている、というだけでは満足ではないのだろう。
一番でなければ駄目なのだ。
「それで、君はずっと、塞いでいたのだね」

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。