白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

常套句問題

2018年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
一般的なマスコミ報道よりも遥かに面白い記事/言葉に出合うことが時々ある。それは週刊誌であったりネット空間だったり子供らの露骨な質問だったりする。その瞬間、それまで見えなかったものがたちまち可視化されることがある。しかし、「見えない」のはなぜだろうか。

「見える場のなかの見えないものは、理論展開のなかで、この場によって定義される見えるものにとって外的で疎遠であれば《何でもいいもの》ではない。見えないものはつねに見えるものによって、《それの》見えないもの、《それの》見ることの禁止として定義される。だから見えないものは、空間的隠喩をもう一度使って言えば、見えるものの外部、排除の外的な暗闇ではなくて、見えるものによって定義されるがゆえに見えるもの自体に内在する《排除の内的な暗闇》なのである。言い換えると、地盤、地平、したがって所与の理論的な問いの構造によって定義される見える場の境界といった魅惑的な隠喩は、空間的隠喩を額面通りにとってこの場を《それの外部にあるもうひとつの空間によって》定義される場として考えるなら、この場の性質について思い違いをさせかねない。このもうひとつの空間なるものは、それを自分の否認として含む最初の空間のなかにある。このもうひとつの空間は、まるごと最初の空間なのであって、最初の空間は、それ自身の境界線に排除するものの否認によってのみ定義される。最初の空間には《内部の》境界しかないし、それはその外部を自己の内部にかかえていると言っていい。このように理論的場の逆説は、あえて空間的隠喩を使って言えば、《限定される》がゆえに《無限な》空間、すなわち、それをなにものかから分かつ《外的な》限界や境界をもたない空間であるという点にある。なぜかといえば、それは自分の内部で定義され限定され、自分でないものを排除することで自分の本来の存在を作り出す、定義の有限性を自分の内部にもっているからである」(アルチュセール「資本論を読む・上・P.45~46」ちくま学芸文庫)

10月26日(金)/朝日新聞/15面。「常套句」の使用に関する諸問題。

答える側が乱発する「遺憾」「不徳の致すところ」等々の大量使用。それによってうやむやにされ、視聴者の側には計り知れないもやもや感を与え残してしまう「常套句」問題。このことの問題性は何も答える側にだけではなく、むしろ問う側にも共通する。という問いかけがその内容。

暗黙のうちに了解された「問いの構造」。要するに「問いと答えが既にセット」になって頭の中へインプットされており、問う側も問われる側も何らそれを疑おうとしないという質疑応答の場の致命的な崩壊状況。突破口はあるのか?かつてアルチュセールはこう述べた。

「ここでわれわれはもっとやっかいな難題に出会う。なぜなら、われわれは、まちがった答えの《反復》だけでなく、とりわけ《まちがった問い》の《反復》が多くのひとびとのなかで生み出してきた数世紀来の『自明さ』に対して、この企てにおいてはほとんど一人だけで抵抗しなくてはならないからである。われわれはこのイデオロギー的問いによって定義されるイデオロギー的空間、この《必然的に閉じた》空間から脱出しなくてはならない(閉じた空間だと言うのは、イデオロギーの理論的生産様式を特徴づける《再認》構造の本質的結果のひとつは閉じているからである。この不可避的に閉じた円環を、ラカンは別の文脈で、また別の目的から、『《双対の鏡像関係》』と呼んだ)。そうすることでわれわれは、別の場所で新しい空間を開くべきである──この空間は、《解答について予断を下すことのない、問題の正当な定立》が要求する空間である。『認識問題』のこの空間が閉じた空間すなわち悪循環(イデオロギー的再認の鏡的関係の悪循環そのもの)であること、まさにこの事実を西欧哲学における『認識理論』の歴史は、有名な『デカルト的円環』からヘーゲル的あるいはフッサール的理性の目的論の円環に至るまで、はっきりと《見させて》くれる。この円環の必然的存在を理論的に引き受ける、すなわちそれを自分のイデオロギー的企てにとって本質的であると考えようと決意する哲学(フッサール)が最高度の自覚と誠実さに達したとしても、この《円環》から《抜け出す》ことはできなかったし、イデオロギー的な囚われから《抜け出す》ことはできなかった──同様に、この『閉鎖性』の絶対的可能性の条件を、『開放性』(外見的には閉鎖性のイデオロギー的非=閉鎖性でしかない)のなかで考えようとした人、つまりハイデガーもまたこの円環から抜け出すことができなかった。外部であれ深さであれ、単なる《外》に身を置くことでは閉じた空間から出ることはできない。この外またはこの深さが《その》外または《その》深さにとどまるかぎりは、それらはまだ《この》円環、《この》閉じた空間に属している──ちょうど円環がそれとは別の《それの》他者のなかで『反復する』ように。この円環から首尾よく免れるのは、この空間の反復によるのではなくて、それの非=反復によってである──理論的に根拠のある《逃走》だけがそれを可能にする。この逃走は、正しくは、逃げだす相手につねに縛られている《逃走》ではなくて、新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設であり、それのおかげではじめて、イデオロギー的な問題定立の再認の構造のなかで否認された現実の《問題》を立てることができる」(アルチュセール「資本論を読む・上・P.100~101」ちくま学芸文庫)

「新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設」が活路を開くという。なるほどそうだ。とりわけ世界的規模のネット空間は常に「斜めからの視線」を生産し続けて止まない。まあ、諸刃の剣でもあるのだが。

BGM