ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

創世記16章 ハガル。どこから来て、どこに

2019-12-28 | 通読・創世記

信仰の父アブラムの家庭には、罪、問題がたくさんあった。

二人して励ましあって、主が与えると言われた子供が生まれるのを待てなかったサライ。自分で判断しないで、サライの言うことを聞き入れたアブラム。

このアブラムとサライは、アダムとエバが罪を犯した時とよく似ている。神に聞かずに自分勝手に判断する罪をどちらも犯している。
しかし、神は約束のとおりに二人を祝福している。

 

 

ローマ章8章28節神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています

 

 

ハガルにも、神は祝福した。主はどうして、どの時点で祝福したのだろう。アブラムの子をみごもっていたからだったのだろうか?
そうではなく、ハガルは神と個人的に交わりを持ったからではないか思う。

み使いが「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこに行くのか」と尋ねられてこと。それに応答したことによる。
また、「女主人のもとに帰りなさい」という言葉に聞き従ったから、それで、彼女の子孫がふえることを約束を聞けた。

 

ハガルはアブラムのそばにいた時から、神について聞いていたから、み使いの声を聞き分けることができたのだろう。
また、ハガルはエジプトから連れ出された時から、すでに神のご計画によって召し出さりていたのだろう。

 

 

 

★伝道する際に、「あなたはどこから来て、どこに行くのか」と尋ねてみてはどうだろう。そして会話が続いたら、神のもとに帰りなさい」と言おう。

★アブラムも、サライも、ハガルも、間違いや失敗が多い。しかし、主からの祝福を約束された者として、赦されて祝福されている。
私も、神の計画より先走って考えたり、動いたり、口に出してしまうことが多いが、赦されて、それも益とされていく。感謝なことである 

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創世記15章 旧約最初の「恐れるな」と「主よ」

2019-12-28 | 通読・創世記

「アブラムよ。恐れるな。」と、アブラムは言ってもらって、
本当に恐れないで「神、主よ」と、大胆に、質問したりも自分の思いを語りかけている。


さらに、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるのでしょう。」
まるで、主に文句を言っているような言葉を発している。


その後で天を見上げ星を見て、「あなたの子孫はこのようになる」と約束をしてくださった。


彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 

そして、「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、かルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」また約束の言葉が与えられた。

 

その後、信じて義と認められたアブラムなのに、また文句を言うような口調で言っている。
「神、主よ。それが私の所有であることをどのようにして知ることができましょうか」

とすると主は、私達には不思議なやり方ですが、目に見ることのできる方法を示して、アブラムと契約を結んだのだ。

 

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ベタニヤのマルタを思い起こします
主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 10:41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 10:42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

マルタは主イエスから、名前を二回も読んで、たしなめ、教えておられる。マルタはそんな主のことばを聞いて、成長していったと思う。

私も、強がったり、無理をすることなく、「主よ。・・・・」と、大胆に訴えたり、嘆いたりしても良いのだと思った。


なぜなら、すでに、私は主の十字架と復活を信じて、救われて、義と認められているのですから。
主が聖霊で満たして、一歩一歩導いてくだっているのだから

今から、年末年始に実家に帰って、お父さん、お祖母ちゃんに、伝道しようとしている若い姉妹を励まして祈る会に、行ってきます。
彼女の上にも、恐れない大胆な祈りと求めを主が聞いてくださるように。

 

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創世記14章 いと高き神

2019-12-27 | 通読・創世記

へブル書5章と7章で出てきた、謎の大祭司メルキゼデクが、創世記14章に出てきている
ここには「いと高き神」が4回も出てきて、強調されているようです

 

彼(メルキゼデク)はいと高き神の祭司であった

「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造らた方、いと高き神より。神の側に立つ仲介者

あなた(アブラム)の手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ」 人の側に立つ仲介者

アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。」いと高き神を主と呼んでいる

 

メルキゼデクはいと高き神の祭司であった。

イエス・キリストは、いと高き神の側と、私達罪人の側の 両方に立ってくださる大祭司です

 

へブル4:15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 4:16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 


さて、一人で食べる今夜の夕食は何にしようかと、暗くなった道を歩いていくと
おしゃれなフランス料理店の明るい店内が、半分垂れ下がったレースのカーテン越しに見える
ワイングラスや、大きなお皿を前に、カップルや家族連れが、豊かが時間を過ごしているよう。

 

いいなあ、美味しいお料理を食べたいな。リッチな雰囲気の中に私も・・・・・と思ってしまう
いやいや。気をつけないと、貪欲になったら、ロトのように身を滅ぼす
いつまでも過去を振り返っていたら、ロトの妻のように塩になってしまう

 

私が求めるは永遠のいのち、食べるのは神のみことば
着きたいのは、レストランの椅子ではなくて、神の恵みの御座
自分の弱さを認めると、大祭司であるイエス・キリストから慰めを受けます

 

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創世記13章 左右・東西南北・縦横

2019-12-21 | 通読・創世記

アブラムとロトは、右に行くか、左に行くかを、決めた

主はアブラムに「さあ、 目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい」と言われた。

また「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい」と言われた

左右・東西南北・縦横 どう違うのだろう

 

右か左かーーーーー基準は自己中心な欲。ロトの目から見て、どっちが好ましいか

北と南、東と西ーーさあーー発想の変換が促されている

目を上げてーー自己中心ではなく、創造主・天を仰ぐ

見渡しなさいーー実際に見えるのは近辺だけだけど、見えない地域まで洞察する

縦と横ーーーーー立ってーーー信仰・思い・考えを行動にあらわす最初の変化

        あちらこちらと歩き回っても、軸の中心を主にしている


聖書の中の北を検索してみた。
神殿を建てるのに東西南北は大切。中心に主がおられるからではないかしら
東西南北の順番が違うところがあるのとどういう意味だろう。目が回るではないか。


創世記 28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

申命記 3:27 ピスガの頂に登って、目を上げて西、、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。

詩編 107:3 彼らを国々から、東から、西から、から、南から、集められた。

アモス 8:12 彼らは海から海へとさまよい歩き、から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。


これから、身支度をして教会のクリスマス会で仕えます。
奉仕表を見ると、多くの奉仕の項目が書かれている中で、私は小学生達の待機部屋にいる奉仕とのこと。何をどうするのか不明。

しかし、全体のマネジメントしておられる婦人と二人の名前が書かれているので、彼女の指示に従えば良いのだ。なすべきことは聖霊様が教えてくださると、安心している。

今回の私の奉仕の目的は、子供達が教会のクリスマスを楽しみ、福音の話をよく聞いて理解すること。さあ、目を上げて、立って、出かけよう


へブル12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」


 

 

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創世記12章 どこに行くのか知らないで

2019-12-20 | 通読・創世記

アブラム父テラは、カナンの地に行くためにウルから出発して、ハランまで来てそこに住み着いた。そしてハランで死んだ
アブラムも、テラの死後、カナンの地に行こうとして出発したと書かれている。


創世記11:30.12:05では、カナンの地にいくためという目的が繰り返し書かれている。
ところが、へ
ブル11章8節には、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、どこに行くのかを知らないで、出ていきました」と書かれている。


この違いは何でしょう・・・・


神様は、全知全能の神です。初めから、アブラムの生涯の最後まで見通した上で、出て行くように命じられた。
アブラムだけでなく、アブラハムを信仰の父と呼ぶ神の子たちの、相続財産として受け取るべき地、最終的に入れられる地まで、見通しておられたということでしょう。




今、私達は神様が召し出し、遣わしておられるのだと知った時には、それがどこで、どういう経緯でどんなるのかと考え過ぎて、出発するべき時を逸してしまうことのないように、召したお方に信頼して、すっと進むなら、きっと祝福される。

そのような祝福を私自身も何度も経験をして、今ここにいるのである



あちこち動いて、今やっと、ここが安住の地かと思われる場所にいる。しかし、もし今後、神の召しがあれば、自分の願いや計画とは全く違っても、自己主張することなく、身を委ねて動くことになるのだと、考え直している。最終的にどこに行こうとしているのかを、私は知っているのだから

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