21年前、アメリカ人の宣教師が、どうして自分達は伝道をするのかを、旧約聖書のみことばから話してくれたことがあった。印象に残っていたが、聖書のどこに書かれていることばなのかを捜すことも、知る機会もないまま、時間がたった。
しかし、先日の礼拝で招詞としてエゼキエル書3章1-21節が読まれた時、「ああ、ここだった。21年たってから、神様が答えを下さった💛」と感謝しました。
エゼキエル3章には
「彼の血の責任をあなたに問う」18節、20節 2回も書かれている
「あなたは自分のいのちを救うことになる」19節、21節 2回書かれている
伝道・宣教は、語る方も、聞く方も、いのちがけであることがわかった
父なる神は、御子キリストに、そのいのちをかけて救いのみわざを全うするようにと、世に遣わした
主キリストは、いのちをかけて救い出したクリスチャンに、いのちをかけて宣教するようにと遣わす
主キリストは、いのちをかけて救い出したクリスチャンに、いのちをかけて宣教するようにと遣わす
滅びの中にいる人は、福音を信じる者は、いのちをかけて宣教している人を遣わした主イエス・キリストを見て、そのイエス・キリストを遣わした天地創造の父なる神を見ることになる
だから、格好だけ、形式的、本音と建前を使い分けるような姿勢で伝道をしても、相手は人間だけを見ることになり、イエス・キリストを知ることも、神を知ることもできない。
では、何をどう言うように教えられているか。 2回書かれている。
11節 彼らが聞いても、聞かなくても、「神である主はこう仰せられる。」と彼らに言え。
27節 あなたは彼らに「神である主はこう仰せられる」と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らは反逆の家だからだ
27節 あなたは彼らに「神である主はこう仰せられる」と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らは反逆の家だからだ
質問を受けたり、あかしをする機会が与えられたら、いのちをかけて、伝えるのにふさわしいみことばを捜して、伝えなくてはならない。相手が聞いても聞かなくても責任は果たさなくてはならない。
そのためには、日々の生活の中で、みことばに取り扱われ、深いデボーションの時、神様との交わりの時を持つ必要がある
♬ いのちをかけて 愛を示された
♬ イエス様に出会い すべてが変わった
♬ 私はあなたに 何を持って
♬ 感謝をあらわせば いいのだろう
♬ 真昼のように輝きながら
♬ あなたの愛を伝えたい
♬ イエス様のように輝きつづける
♬ 世の光にしてください
♬ イエス様に出会い すべてが変わった
♬ 私はあなたに 何を持って
♬ 感謝をあらわせば いいのだろう
♬ 真昼のように輝きながら
♬ あなたの愛を伝えたい
♬ イエス様のように輝きつづける
♬ 世の光にしてください
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます