クリスチャンが、疲れや重荷に感じることが起こることは、神様からの警告・注意報であり、意味、目的がある。
私にとって、疲れ、あるいは重荷とはどんなことだろう。疲れとは、自分の知恵と力でやればできるというプライド、自分で目的を設定して自己実現を目指して、自らを疲れに追い込んでいることか。また、重荷とは、自分でその意味目的を納得しないまま、何か無理やりさせられていたと感じる時か。自覚しないまま背負ってガチガチになっていたりする。
そんな思いの時、この世の人たちのように、温泉旅行に言ったり御馳走を食べても、得られるものは、長続きしない根拠のないまやかしのような平安である。そのまま続けていると信仰は形骸化し、生活が律法的になる。
そうならないためには、裏付けも実体もあるキリストにある平安、安らぎを求めて、キリストの命令に従わなければなりません。
- イエス・キリストのくびきを負いなさい。はい、自己中心な思い、この世的に欲を捨てて、死んだ気になってキリストに従います。
- イエス・キリストから学びなさい。はい、キリストのことば、行ない、神のことばである聖書を、まっすぐに熱心に学びます。
イエス・キリストは、上から強引に言うことを聞かせようとするのではなく、助け主を遣わして、傍らから声をかけ励まして、自分から進んで悔い改めに導き、心のあり方、考え方を全く変えて、安らぎを与えてくだいます。そして、神の働きに用いやすい従順に器へと変えてくださいます。
だから、問題がある時、この世の人たちと同じように不平不満を口にするのではなく、信仰が成長できる恵みの訓練だと受けとめて、静まって、祈り、みことばに聞き、深いデボーションの時を持つべきです。
そうして、この世の霊と神の霊とを識別して、神に従う方を選び取って行くなら、その結果、神に霊的にどんどん変えられていく。信仰から信仰へ。讃美から讃美に、喜びから喜びに。永遠から永遠に。神に用いられて実を結ぶきよめられた生涯を送ることになる。なんと幸いなことでしょう。

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