ルカ24:15話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
1998年は、新幹線に乗って、4箇所を巡り続けていましたが、イエスご自身が私にも近づいて、ともに道を歩いていてくださいました・
住所があったのは-----学生だった子供達がいた
妹の家----癌で入院、小さい子供達の世話のために滞在した---ここで聖書をもらった
空の実家----法事や親戚付き合い、庭の手入れに、毎月通っていた
夫の単身赴任先-----ここで初めて教会を訪問
礼拝出席 3/8 3/22 4/5 4/26 5/24 6/7
牧師との面談 7/21 7/28 8/3 イエス・キリストを受け入れた
続けて、年末までに13回の個人指導をしてくださった。夫のところに滞在する日が増えて落ち着いてきて、婦人会にも出席した。
12/13 受洗 翌年も牧師の個人面談は何回か続いた
ルカ24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
震災後すぐであったし、求道者の数が少ない時だった。私の知らないところで、きっと祈られていたことでしょう。
礼拝説教は、この年、使徒の働きの連続講解説教が始まったばかりの時でした。イエス・キリストの昇天の話は、信仰のない私にも、衝撃的で、印象の残る話でした。
個人面談では、牧師が初めて書いて出版したばかりだった本をいただいて、読んで学びました。その後、たくさん執筆されるようになりましたが、私は書かれた本で学んだ信徒第一号となりました。
ルカ24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
牧師は、自分のいのちをかけて、弟子を生んで育てて、そして弟子づくりのできる弟子を育てておられる。その彼に、「私たち」と言ってもらえるくらいのチームに入って、「人を回心に導いて「、その人を弟子づくりをする働き」に、残されたいのちをかけようではないかと思う。燃やされようではないかと思った。ちなみに牧師は私と同年齢。

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