聖徳太子の17条の憲法の第2条には「篤(あつく)く三宝(さんぽう)を敬え三宝とは、仏と法と僧なり。 すなわち四生(しょう)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。人、はなはだ悪(あ)しきもの少なし。よく教うるをもて従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」という言葉があります。
三宝というのは、仏、法、僧のことを意味し、仏教徒はその三つを尊い宝と見なしたのです。まだ日本に仏教が根を下ろす以前であったために、聖徳太子は多くの人の教える必要があったからです。
僧というのは、それだけ仏教徒にとっては敬愛の対象であったわけです。もちろん、同じ人間ですから欠点もあります。しかし、仏法を実践する者として、仏に仕える者として、己に厳しくあらねばならないのです。
私は人よりも遅れて仏門に入りましたが、宝に価するような僧侶になるべく、日々精進を重ねてまいりました。『お寺さん崩壊』という本があるように、江戸時代に檀家制度ができたことで、ほとんどの寺が葬式仏教になってしまいました。位牌や仏壇は先祖供養と密接に結びついています。それを頭ごなしに否定することは間違いだと思います。仏教に関しても、日本独自のものがあってよいからです。
私は天台宗の僧として、布教にも努めてまいりました。ささやかなことしかできませんが、世界平和を呼びかけるイベントにも参加しましたし、会津三十三観音霊場の本を東京の出版社から出しました。
一仏教徒として私がしなければならないのは、常に仏教本来の姿に立ち返ることであり、日本仏教の特色である葬儀に関しては、これまで同様に大役を担っていくということです。
合掌
心の健康を保つには、脳のことを知らなければなりません。高齢になったことで、私もストレスに関心を抱くようになりました。アンデッシュ・ハンセンの『メンタル脳』(久山葉子訳)を読んでたことで、色々と勉強になりました。かいつまんで紹介したいと思います。
脳が進化したのは、私たちが生きのびるためです。そのために安全な環境を維持したという感情が湧くのです。不安を感じるのは、何かがおかしいと私たちに伝えるからで、それ自体は問題がありませんが、不安が強すぎると「パニック発作」に襲われたりします。
危険というものも時代とともに変わってきました。猛獣に襲われるとか、ちょっとした病気で亡くなることはなくなりましたが、それと違った危険にさらされています。世の中が複雑になったためで、ストレスから身を守るためには、深呼吸をするとか、つらさを言葉にする必要があります。忘れてならないのは、不安になるというのは、私たちを助けるためですから、うまく付き合うことです。
世界は戦争、コロナ禍、気候変動とかいうように、世界は重大な脅威にさらされていますが、それに対処するには、私たち一人ひとりには限界があります。このため、その本では、自分が好きなことをするとか、世界が良くなるために自分ができることをするとか、ニュースやSNSに振り回されないような生活を提案しています。
それでもネガティブな感情から抜け出せないときには、両親や学校の先生に助けを求めるのが得策です。メンタルを強化するためには、薬と運動、さらには、自分の感情を言葉にして語るセラピーも効果的です。それとは逆に警戒すべきは孤独であり、SNSによる過度な刺激です。
私が深く共感したのは、幸せを追い求めず、身近な人間に幸せの材料を発見し、他人と一緒になって意味のあることに夢中になるという考え方です。
脳はうまくできており、そこには進化の跡が刻まれていますが、その本に書いてあることは、仏教の教えと一緒だと思います。利他の精神で菩薩行に徹することの大切さを述べているからです。皆さんも是非お読みください。もし貸してほしければ、会津天王寺までお越しください。
合掌
比叡山から発する令和六年の言葉は「忠恕」と決まりました。年明けの去る1月1日に、延暦寺萬拝堂にて除幕式が執り行われ、水尾寂芳延暦寺執行より発表が行われました。
「忠」は中と心から、偏「恕」という漢字は如と心からそれぞれできています。それで「忠」は偏らない心を、また「恕」はしなやかな心を表現しています。「真心を尽くし努めると共に、やさしい心を思いやる気持ちで1年間を過ごして欲しい」という願いで選定されました。この書はこの1年間根本中堂と一隅を照らす会館前に掲げられるほか、「比叡山時報」表紙の題字下にも掲示されます。
私なりに「忠恕」という考えますと、今の時代に生きる一天台宗の僧として、伝教大師最澄様が説かれた教えを、どう実践するかだと思います。とくに、私は「臨終遺言合せて十箇条」のうちの「一、我生れてより以来、口に麤言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず、今我が同法、童子を打たずんば、我がために大恩なり。努力せよ。努力せよ」という言葉が思い出されてなりません。
極端な行動に走らずに、完璧ではなくても、若い人たちの手本になるべく精進したいと思っています。人心が乱れ、人と人との争いが続いています。そうした場所からできるだけ離れるためにも、「忠恕」という言葉は、今の世にふさわしいと思います。
合掌
今もって私は、仏の道を極めることはままならず、あくまでもその途上にある身ですが、僧侶となると決意したのは、それこそ30代になってからでした。人生山あり谷ありですが、会社勤めをしていて、このままでは虚しくなる一方だと思ったからです。
それだけの覚悟があっても、時には迷いもありました。私にも忘れられない思い出がありました。比叡山を逃げ出したい一心で、西に一人で向かったのです。訪ねる宛もありませんでした。いつしか岡山県久米郡美咲町の本山寺の前に立っていました。
外にまで英語でお経をあげている声が聞こえてきました。大した人に違いないと思って声をかけたところ、清田寂雲御住職が「お入りなさい」と言ってくれたので、私の辛く思っていることを残らず話しました。すると清田御住職は、親身になって聞いてくださいました。そして、私が学んでいた叡山学院で教授をしておられることも知りました。
懐も淋しくなりかけていたので、食事までご馳走になりました。それだけで私は救われた気持ちになり、比叡山にもどって、それから叡山学院で学びながら、大原三千院でも修行をしました。
そんな経験をしている私ですから、水上勉の『わが山河巡礼』に収録されている『樒(しきみ)の里 柚子(ゆず)の里』という文章は、涙なしには読むことができません。とくに、私は山城と丹波の境にそびえる愛宕山の周辺は、それこそ自分の庭のようにしていましたから、なおさら水上さんの気持ちが分かるからです。
「京都で寺の小僧だった私は、修行が辛く、秋の一日脱走を試み、山陰線を線路伝いにゆけば、故郷の若狭へ辿りつくと信じ、無銭旅行をやった。その時、あり金はたいて、嵯峨にきて、線路を歩きはじめたが、保津川の崖上で道はトンネルに吸われたので、思案した末、念仏寺の下から鳥居本まで歩き、いまの平野家の横から、谷を入って落合に出、そこから、水尾、原をすぎて、亀岡に降りた。十二歳の時だから、おぼろな記憶しかない。奥嵯峨から、落合にきて、高い崖上の賛同を歩いていると、泣きたいほど淋しかったが、やがて水尾の村にきてほっとした。陽当たりのいい段々畑に、柚子の実がなっている。腹が減ったが、農家へにぎり飯を所望する才覚もなかった。柚子の畑をすぎ、やがて谷の暗い道に入ったとき、山の傾斜に柿が熟していた。原の部落にきた頃、日が昏れた。愛宕神社の裏参道を表示する朱(あか)い門の下でひと休みし、とある寺に寄ってから、だらだら坂を保津村へ下った。亀岡について不審尋問に会い、和尚様の捜索願で、警察に保護されている」
私はこの文章を読むたびに目頭が熱くなってしまいます。私よりずっと年若い小僧さんですから、なおさらのことです。そして、水上さんは保津峡駅での悲しい出来事に触れています。「金閣寺を焼いた鹿苑寺の徒弟林養賢君の母堂」がその近くの鉄橋から保津川に身を投げたからです。親として責任を痛感したからでしょう。身近に思えたのは、炎上した時の金閣寺の住職は、水上さんを養育した瑞春院の先住の村上敬宗師であったからです。
水上さんは林養賢については、そこでは詳しく語りませんが、他人事には思えなかったはずです。不思議なことには、水上さんがそのときに世話になったお寺は、その地を何度訪れても探し当てることができなかったということです。このため「熱い湯と握飯と沢庵はおいしく、涙が出た」という寺は、もしかすると「まぼろしの寺であったか」とも書いています。
私は水上さんの小説が好きです。苦労をしてどん底を味わい、名も知れぬ者たちの涙の味を知っている作家だからです。とくに『わが山河巡礼』は何度何度も読み返しています。
合掌
新年おめでとうございます。令和6年も皆様にとって良いお年となりますようお祈り申し上げます。今年は色々な本を読んで、皆様に感想などをお伝えしたいと思っております。私が今読みたいと思っているのは、宮沢賢治の全集です。賢治は大正10年に父親政次郎と共に比叡山を訪れており。根本中堂の近くには賢治の歌碑が建立されているからです。
「根本中堂」
ねがはくは
妙法如来
正偏知
大師のみ旨
成らしめたまへ 宮沢賢治
建立除幕されたのは昭和32年9月21日のことです。その歌の「妙法如来」というのは。根本中堂の本尊として祀られている薬師如来のことで、「正偏知」とは正しく悟った人ということです。「大師のみ旨」というのは、伝教大師最澄様の「願文」で『願はくは、必ず今生の無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界に旋らし、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで恒に仏事を作さんことを」と言う言葉があるのを賢治が念頭に置いていたからだといわれます。
宮沢家はもととも浄土真宗であり、賢治は大正9年に国柱会に入り、日蓮宗の信者となります。親鸞も日蓮の比叡山で修行したことがあるために、親子そろって拝観したのでした。そのときに詠まれた歌です。詩集『春と修羅 第二集』には「比叡(幻聴)」が収録されています。
「比叡(幻聴)」
黒い麻のころもを着た
六人のたくましい僧たちと
わたくしは山の平に立ってゐる
それは比叡で
みんなの顔は熱してゐる
雲もけはしくせまってくるし
湖水も青く湛えてゐる
(うぬぼれ うんきのないやつは)
ひとりが所在なささうにどなる
私も比叡山で修行しましたから、山頂から琵琶湖を望む景色の素晴らしさには心打たれたものです。賢治の作品を少しずつ紹介していきたいと思いますので、今年もまたご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
合掌