会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

戦争やテロの悲劇は令和5年で終わりにしたい 柴田聖寛

2023-12-30 18:42:48 | オピニオン

 

 この1年もまた世界が戦争やテロで夥(おびただ)しい方が亡くなられました。ウクライナとロシアの戦争の死傷者数は50万人を超え、さらにイスラエルとハマスとの戦いでは死者が1万人を超えており、罪をない人の命までも奪われているのです。 
 私どもの天台宗には、山河草木悉皆仏性の教えがあり、生きとし生けるものを尊重することが重視しています。その観点からも、人を殺めるということは、断じて許されることではありません。
「戦争は政治の延長」とか言われるが、目的のために手段を選ばないというのは、宗教家としては容認できないものがあります。仏教伝道協会発行の『仏教聖典』で紹介されている逸話があます。
 釈迦族の王、マハーナーマは世尊のいとこであるが、世尊の教えを信ずる心が至ってあつく、誠を尽くして帰依(きえ)する信者であった。
 コーサラ国の凶悪な王、ヴァイルーダカ王が釈迦族を攻め滅ぼしたとき、マハーナーマは出て行って王に会い、城民を救いたいと願ったが、凶悪な王が容易に許さないのを知って、せめて自分が池の中に沈んでいる間だけ、門を開いて自由に城民を逃げさせて欲しいと頼んだ。
 王は、人間の水中に沈んでいる間だけのことなら、わずかな時間であるからと考えて、之を許した。
 マハーナーマは池に沈み、城門は開かれ、人々は喜んで逃げのびた。しかし、いつまでたってもマハーナーマはは浮かび上がらなかった。彼は池に入って髪を解き、柳の根に結び付得、自らを殺して人びとを救ったのであった。

 そこに私は仏教の教えの根本があると思います。凶悪な王と戦うことをせず、自らの身を差し出すことで、釈迦族の人びとの命を助けたのですから。平和な宗教である仏教の本来の教えからすれば、それしかできないのですから。
 平和を第一に考えるのが仏教であり、だからこそ、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などに対して、天台宗が中心になって、平和の大切さを訴えているのです。征服者にも立ち向かわなかった宗教は慈悲に満ちています。宗教者の祈りが世界を救うのではないでしょうか。

 合掌

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伝教大師最澄様と「諸法実相」の思想 柴田聖寛

2023-11-30 15:23:30 | 読書

 伝教大師最澄様についての書物は数多ありますが、私がつい最近読んだ立川武蔵氏の『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』には感銘を受けました。とくに第13章の「日本仏教における空(一)—最澄と空海」は圧巻でした。
 私は常日頃から最澄様の教えの核心が「諸法実相(しょほうじっそう)」ではないかと思っていました。そのことを立川氏は正面から論じていたからです。
 立川氏は「『諸法実相』という表現程最澄の思想を的確に語る言葉はないであろう。大乗戒の階段を延暦寺に建てようとしたことの根底には、この『諸法はそのまま実相(真実である)』という思想があったのである」と書いています。
 立川氏が指摘しているように、比叡山延暦寺では法然、親鸞、道元、日蓮といった各宗の開祖が輩出することになったのは、最澄様の「諸法実相」であったからだというのです。
 しかも、その意味するとことを「たとえばリンゴのかたち、香り、味などがやがて消滅する定めにあっても、否それだからこそ、それらの法(現象)はそのものの真実のあり方(相)を示しているのであり、かたちや香りが無常であるからこそ、それらはわれわれ人間にとってかけがえのないものという諸法実相の考えが日本仏教の根底にはある。無では決してないのである」と解説しています。
 現象世界は無ではなく、そこに本質が顕現(けんげん)しているという考え方を明確に打ち出したのが、日本天台の開祖である最澄様だったのです、最澄様が朝廷に大乗戒の戒壇を建てる許可を求めたのは、日本仏教にとっては一大決断でした。出家修行した者だけが悟りに達するという法相宗を、小乗の立場だと批判し、厳格な戒律主義と一線を画したからです。それによって、日本仏教は妻帯した僧たちによって支えられることになったのです。
 また、立川氏は「諸法実相」という方向に日本仏教の舵を切ったにもかかわらず「その理論構築は彼の後継者にゆだねられた」とも述べています。念仏もお題目も禅も、全ては「諸法実相」の異なった表現であるからです。
 立川氏のその本では、空の思想の成り立ちと展開ということに関して、スケールの大きい見方をしていますが、あくまでも私は一端に触れただけですが、日本天台の奥深さを噛みしめることができました。

         合掌

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武覚超師の「戸津説法」を聴聞するご縁に恵まれました 柴田聖寛

2023-09-19 05:37:25 | 天台宗

 天台座主の登竜門といわれる戸津説法が去る8月21日から25日までの日程で、滋賀県大津市下阪本の東南寺で営まれました。天台宗の一僧侶として私も、総本山比叡山延暦寺一山求法寺の御住職武覚超師の「戸津説法と『法華経』の略史」という演題を聴聞するご縁に恵まれました。
 宗内外の高僧や国内外の参拝者の約100名の方々を前にして、武覚超師は法華経が「忘己利他」(もうこりた)の実践であることを説かれたばかりでなく、法華経が聖徳太子以来の日本仏教の中心であった歴史を、かいつまんで説明をされました。
 武覚超師が話された中で、とくに皆さんに知っていただきたいと思ったのは「『法華経』とその略史」です。その部分の資料を抜粋して紹介いたします。

「『法華経』とその略史」

 法華三部経は『無量義経』1巻(開経)、『妙法蓮華経』8巻、観普賢菩薩行法経1巻(結経)からなります。古代インドのマガダ国首都王舎城の東北の霊鷲山(りょうじゅせん)での釈尊の晩年の説法をまとめたものです。
 中央アジア亀茲国(きじこく・くちゃ)出身の鳩摩羅什(くまらじゅう)により、長安に於いて西暦406年にサンスクリット語(梵語)から漢文へ翻訳されました。
 隋代の天台智者大師智顗(ちぎ・538~597)の大蘇山及び天台山華頂峰(かちょうほう)での修行と悟りにより、『法華経』を所依(しょえ)とする天台宗の教えと舌戦が確立された。
 日本においては飛鳥時代に聖徳太子(574~622) が『法華義疏』(ほっけぎしょ)をを著した。さらに日本最初の『憲法十七条』を制定し、『法華経』の精神で国を治めた。
 奈良時代には護国の経典として『法華経』が尊ばれ、聖武天皇(701~756)の勅願により全国各地には法華滅罪(ほっけめつざい)の寺として国分尼寺(こくぶんにじ)が建てられた。
 伝教大師最澄(766~822)は、遣唐還学生(けんとうげんがくしょう)として大唐国に渡り、天台山・台州(臨海市)・越州(紹興市)などを巡礼、求法して、七祖道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)の両座主より天台の教えと大乗戒、さらに順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)より真言密教を比叡山に伝、仏の悟りを目指す「法華一乗」と「真言一乗」の教えを基調とする日本天台宗が開かれた。
 伝教大師の一乗仏教の確立により、天台宗は総合仏教として発展し、鎌倉時代には比叡山から法然上人(1133~1212)・親鸞聖人(1173~1292)・栄西禅師(1141~1215)・道元禅師(1200~1253)・日蓮上人(1222~1282)などの各宗派の祖師方を輩出し、日本仏教の母山と称された。
『法華経』は出家・在家を問わず、現在に至るまで幅広く信仰され実践され、日本文化の精神的支柱となっている。例えば、古くは『日本霊異記(りょういき)』や『源氏物語』、後白河法皇勅撰の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』など、また、写経や絵画などの美術品によっても明らかである。近年では宮沢賢治の「ねがわくば妙法如来正遍知 大師の旨成らしめたまへ」(根本中堂前石碑)の詩文のように、『法華経』によって真の生き方に目覚め、生涯の支えとされたことなど、『法華経』の影響力は計り知れない。

 この文章を読むと。『法華経』はどういった経過で生まれ、どのようにして日本に伝えられ広まったかを理解することがでると思います。そのことを念頭に置くことで『法華経』はより身近なお経になるのではないでしょうか。

         合掌

戸津説法の資料と武覚超師の著書

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根本中堂の十二神将は焼き討ちを逃れた奇跡の像 柴田聖寛

2023-08-09 19:51:40 | 天台宗

 

 比叡山延暦寺では平成28年から10年をかけて根本中堂の大改修工事が行われていますが、それに合わせて、内陣に奉安されている仏像の修理も順次進められています。比叡山時報の令和5年7月8日号では、十二神将の今回新たに判明したことを「お薬師さまを守護する十二神将」「焼き討ちを逃れた奇跡の像」という見出しの記事で紹介しています。
 とくに話題になっているのは、十二神将と梵天・帝釈天の像内に「勧進僧栄賢」「中臣乙犬女」といった名前が見つかったことです。また、牛神からは「僧栄賢、同栄賀、同乙大女、正慶壬申元年六月日」と記されており、墨書で造仏年を正慶元(1332)年とほぼ特定することができました。さらに、巳神(ししん)からも墨で元徳2(1330)年と書かれていることが判明し、制作に複数年かけたことも判明しました。
 勧進僧の栄賢や仏師頼弁については不明ですが、比叡山の麓にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)蔵の『来迎寺要書』の記述から、同寺客殿にある日光・月光菩薩像は、元応元(1319)年に栄賢が勧進し、仏師の頼弁が造ったことが分かっています。
 聖衆来迎寺の日光・月光菩薩像は、もともとは京都岡崎の天台の円戒道場の古刹(こさつ)、元応寺(げんのうじ)の本尊といわれています。
 『来迎寺要書』で根本中堂が永享7(1435)年焼けて再建されたのちの文安4(1447)年頃に元応寺に十二神将が移されたましたが、応仁の乱によって失われてしまった、と伝えられています。
 現在の根本中堂の十二神将は一時的に元応寺にあったものであり、信長による比叡山焼き討ちで焼失した根本中堂が再建された天正13(1585)年頃に、以前の場所に戻ったという見方が、今回の比叡山時報では示されました。
 日本全国にあるお寺は、否応なく何度も焼失しているのが普通であり、その度の仏像の安置される寺が変ったとしても、それは不思議ではないのです。それまでは根本中堂の十二神将は根本中堂の再建年である寛永年間が有力視されていましたが、それよりも古い像であったというのが、エビデンスにもとづいて証明されたのです。
 この記事を読んでなおさら私は、天台宗の血脈の確かさを確認いたしました。十二神将のお姿を拝むことができるのは、私たち天台宗の先人の労苦があったからだと思うからです。

                  合掌

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劉宏副総領事(新潟総領事館)の離任パーティに出席 柴田聖寛

2023-07-29 10:57:43 | オピニオン

 

 ギクシャクした日中関係はお互いの利益にはならないと思います。私は福島県日中友好協会の会員であり、妻は日本に帰化しましたが、私たち夫婦は中国で知り合いました。娘は今北京の精華大学の大学院で学んでいます。それだけに、私は日中の懸け橋になりたいと願っています。
 遠藤久福島県日中友好協会会長のお供をして、去る7月11日に私は新潟市にある中国総領事館を訪ねました。劉宏副総領事が離任することになったために、お別れのパーティが開催されたからです。劉宏副総領事は5年間にもわたって、新潟県や東北6県の人たちと積極的に交流し、親密な関係を築かれました。劉宏副総領事が撒かれた種が必ず実を結ぶと私は信じています。
 私のような天台宗の僧侶にとっては、中国の地は憧れの地でもあります。伝教大師最澄様は天台山を、慈覚大師円仁様は五台山をそれぞれ訪れ、そこで持ち帰ったお経や学んだことを日本に持ち帰ったのです。そのおかげで現在の日本仏教があるからです。
 私のできることには限界がありますが、一僧侶として今後も「東アジアが平和でありますように」との祈りを日々捧げたいと思っております。このたびは中国総領事館の方々には本当にお世話になりました。今後ともよろしくお願いいたします。

御仏の教えを学べば平和なる願いを込めて今日も祈らん 聖寛

       合掌

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