会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

『中村元学びと慈愛』は私の宝 柴田聖寛

2023-04-07 20:21:03 | 読書

 

 一天台宗の僧侶である私は、あくまでも信仰者であって、学者ではありませんが、日本の仏教学の泰斗である中村元先生の御本は、できるだけ目を通すようにしています。そんな私にとっては、昨年10月に発刊された『インド哲学者・仏教学者中村元学びと慈愛』をすぐに購入し、隅から隅まで読みました。
 この本は中村元博士生誕110周年と中村元記念館オープン10周年を記念し、常設展示を中心にして、一冊のガイドブックとしてまとめられたものです。写真がふんだんに掲載されており、在りし日の中村元先生の謦咳に接しているかのようです。
 私が感動したのは、中村先生が意訳された仏典の言葉が、風景の写真に散りばめられていることです。とくに印象に残ったのは『ブッダの言葉より』でした。

「慈しみ」

 一切の生きとし生けるものは

 幸福であれ 安静であれ 安楽であれ

 一切の生きとし生けるものは幸であれ

 何びとも他人を欺いてはならない

 たといどこにあっても、

 他人を軽んじてはならない

 互いに他人に苦痛を与える

 ことを望んではならない

 この慈しみの心づかいを

 しっかりと たもて

 その本では中村先生のルーツについても触れています。松江藩に仕えた中村家は、8代目秀年のときに免官となりましたが、島根県内の郡長などを務めました。しかし、跡を継ぐ実子が夭折したために、姪のトモを養女とし、加賀谷喜代治を婿に迎え。そこで生まれたのが中村先生でした。
 秀年の三男の斧三郎は旧制第一高等学校の教授で、数藤家へ養子に入りました。結婚後の喜代治に東京物理学校に進学するように勧めました。そこで喜代治は数学をマスターし、特殊技術者として保険会社に勤務し、数多くの専門書を残しています。
 母のトモは、松江市立高等女学校の第一回卒業生。首席卒業で東京高等女子師範に合格するも、養父に反対されて、松江で高等女学校の教員となる。優秀な家系であったことは明らかです。
 中村先生の経歴についても、大正14年に15歳で東京高等師範学校付属中学に合格し、同4年で第一高等学校分科乙類に入学。昭和8年にそこを卒業し、東京帝国大学文学部印度哲学梵文字科に入学してから、昭和52年に文化勲章、昭和59年に勲一等瑞宝章を授与されるまでのことが、詳しく記述されています。
 さらに、少年期から晩年までの中村元先生の手書きの原稿も収録されており、「書くことで鍛えられた考える力」という特集も組まれています。
 後半部分では、中村先生のその業績を紹介しています。「インド思想を深化、発展させた」「歴史的人物としてゴーダマ・ブツダの姿を浮かび上がらせた」「難解な仏典を、平易でしかも正確な邦訳で、多くの一般読者のみならず専門家に対しても、提供した」「日本における比較思想研究の分野を開拓した」ことなどを指摘しています。  表紙の写真からしても、慈愛に満ちた中村先生の人柄が伝わってきます。ガイドブックであると同時に、中村先生を知る上での貴重な資料が満載されています。

          合掌

           

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東日本大震災慰霊法要が南相馬市で執り行われました

2023-03-18 11:30:15 | 天台宗

 また今年も忘れることができない3月11日がめぐってきました。それに先立って、天台宗では去る4日午後1時から南相馬市原町区高見町、フローラメモリアル原町において、東日本大震災13回忌物故者慰霊法要を執り行いました。
 この法要には本山から宗務総長の阿部昌宏師、延暦寺からは執行の水尾寂芳師が参列されて読経を上げました。私も参列者の一人として合唱いたしましたが、目をつむると、津波で廃墟と化した浜通りの光景が、未だに瞼の裏に焼き付いています。
 東日本大震災での死者は、東北地方を中心にして、2万2318名の死者・不明者が出ました。家族や肉親を奪われた人たちの悲しみは、未だに拭い去れずにいると思います。 
 そこに思いをいたすとき「諸行無常」という言葉を考えてしまいます。あくまでも現象世界はつかの間のときであることを再認識させられました。人生の儚さを嘆くとともに、生きていく上で、もっとも大事なのは信仰を持てるかどうかなのです。
 あれから12年の歳月があっという間に経過しましたが、まだ復興の途上であります。生老病死からは、誰も免れることはできません。今回の法要に参列いたしまして、天台宗のことを一人でも多くの人に知っていただけるように、これまで以上に尽力せねば、と思いを新たにした次第です。

         合掌

 

   あいさつをされる延暦寺執行の水尾寂芳師

             参列者によるご焼香  

 

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令和5年の比叡山から発する言葉は開発真心 柴田聖寛

2023-02-26 14:38:20 | 天台宗

 

 

 令和5年の比叡山から発する言葉は「開発真心(かいはつしんしん」と決まりました。本年1月1日の年明けと同時に、一隅を照らす会館前でその言葉「書」の除幕式が執り行われ、水尾寂芳延暦寺執行より発表がありました。
 この言葉には「人に本来具わって嘘偽りの無い<真実の心(真心)>は<仏性>つまり<ほとけごころ>に他ならない」との考えのもと、「相手にも真心が具わっている以上、真心を込めれば相手に通じる。お互いの<真心>を開き発こうして目覚めさせよう」との願いが込められています。
 発表にあたって、水尾執行は「自らが待つ真心を<開発>して動かし、今年一年間どんなことにも心を込めて取り組んでいきましょう」との思いを語られました。
 天台宗はどんな人にも仏性があるという立場ですから、人が人と接する場合にも、自らが誠実に対応さえすれば、どの人とも理解し合えるということです。殺伐とした昨今の世界にあっては、すぐに敵味方に分かれて、血みどろの争いをしていますが、それは本来の人間の姿ではないのです。
「書」は比叡山の願いを象徴するものとして、根本中堂と一隅を照らす会館前に今後1年間掲げられるほか、『比叡山時報』表紙の題字下、さらには、比叡山延暦寺のホームページで閲覧することができます。
      合掌

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叡南祖賢大阿闍梨の功徳を偲ぶ本を読む 柴田聖寛

2023-01-20 16:41:23 | 読書

 以前にもお話したことがありますが、私が天台宗の僧侶になったのは、二本松市杉田の光恩寺の梅津聖豊(香村)御住職の弟子になったのが始まりです。梅津御住職のおかげで、私は比叡山や大原三千院で修行させていたくことができ、その縁で今日の私があるわけです。
 梅津御住職がよく口にされていたのが、叡南祖賢大阿闍梨についての思い出話でした。信仰者としても、人間としても、傑出しておられた、ということを語ってくださいました。梅津御住職もまた叡南祖賢大阿闍梨門下の一人であられたからです。
 それだけに私は『戦後初の北嶺千日回峰行者叡南祖賢大阿闍梨 叡南覺範・村上光田・藤光賢・堀澤祖門が語る「比叡山の快僧」』が本年一月四日に発刊されたので、すぐに読みまさせていただきました。編著は山田恭久師、序は叡南俊照師が担当され、山田修康師が聞き手となられ、叡南覺範師、村上光田師、藤光賢師、堀澤祖門師から思い出話をお伺いして、それを中心にして一冊の本がまとめたのです。
 序で北嶺千日回峰行大行満大阿闍梨・叡南照師は「師の年齢を超えた大僧正たちの証言を通じまして師僧である叡南祖賢大和上の教え、活躍の教え、活躍の様子を時代に伝承しようと試みた比叡出版のオーラルヒストリーであります」と述べられるとともに、「この本に記されている叡南祖賢大和上の足跡をご一読いただくことを契機に天台宗、伝教大師最澄上人、比叡山延暦寺にご関心をおもちいただけますと幸甚に存じます」と書かれています。
 第一章の「和尚はどんなことに対しても判断が適切でした」では、叡南覺範探題大僧正・毘沙門堂門跡前門主(第六十一世)は「私が和尚の門下に入った頃は、『叡山三地獄』の一つといわれる『回峰行』の修行中でしたけど、その後見ていると、三十人もの小僧一人ひとりの資質を見ていましたね」と思い出を語られ、宗教家としてだけでなく、教育者としても卓越していたことが分かります。
 第二章の「これ以上厳しい師はいなかった。だけどあれほど優しい師もいなかった」では、村上光田大僧正・善光寺長臈(ちょうろう)は「あんなに貧しかったけど小僧が何十人もいても一人として僻(ひが)む人はいませんでした。小僧同士で喧嘩をすることはあっても、お互い僻むというのはなかったのです。別にこれと言って教えるわけではないのですよ。我々は師の行動を見て学んだ」と回顧し、「僻む心」が修行をする上でも、仕事をする上でも障害になるということに、気付かされたというのです。
 第三章の「あなたたちのお師匠さんは本当に立派な方なのですね」では、藤光賢探題大僧正・曼珠院門跡前門主(第四十二世)は「和尚は学者であり行者ですから、『拝む時は一生懸命拝め、一生懸命仏様にお仕えせよ』と申していたことを思い出します。学問と行の観佛観想両方をお持ちになっていたまさに教観二門、解行双修の大導師が和尚だと思います。護摩の修法の時にしても、弁天供、聖天供にしても、密教のいわゆる行者と本尊様が一体になっているのが叡南祖賢和尚だと思います」とその功徳を讃えられました。『学者であり行者であり』というのはなかなか難しいことですが、その両方を叡南祖賢大阿闍梨は兼ね備えられておられたのです。

 

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令和五年の新年のご挨拶 柴田聖寛

2023-01-01 06:52:26 | 御挨拶

 

 新年おめでとうございます。世界中がきな臭くなっていましが、まずは平和な一年であることを祈念いたします。新型コロナの影響はまだまだ残りそうですが、トンネルの出口が見えてきましたから、もう少しの忍耐ではないでしょうか。
 今年の私は、伝教大師最澄様の「忘己利他」の教えを、一人でも多くの人に知ってもらうように努めたいと思っています。とくに、私が力説したいのは「利他」についてです。八十代後半になられたひろさちや先生も、最近出版された『最澄を生きる』のなかで、私と同じようなことを述べておられます。
 ひろさちや先生は、世の中の役に立つとか立たないとかいう議論は差別でしかなく、「すべての人が世の中の役に立っているのだ、というのが大乗仏教の考え方であり、最澄の『忘己利他』です」とお書きになっておられます。   
 人は人として区別されることはあっても、この世で成功して大金持ちになっても、優等生であり続けても、そんなことで幸福になることはできないのです。自分が成功者になったことを鼻にかけるのではなく、普通の以上に「利他」の心で他の人と接するべきなのです。それを実践に移して始めて、信仰の道が見えてくるのです。
 ひろさちや先生は「金持ちは金持ちらしく布施行に励む。優等生は優等生らしく、自分が学んだことを社会のために還元する。そういう生き方が最澄の利行だと思います。金持ちやエリートが、なおも自利にがつがつしている現代日本のあり方を、きっと最澄は、『おまえたちは小乗根性の人間だ』と叱るだろうと思います」と述べておられます。
 今年はどんな年になるか分かりませんが、私としては、これまで以上に精進を重ねていくつもりですので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

          合掌

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