会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

仙台藩が弱かったのは門閥の力が強かったからだ 柴田聖寛

2022-12-31 11:08:27 | 読書

 ー作家の中村彰彦先生—

 東京都新宿の花園神社社務所が発行する「花園神社社報」が月一回送られてきます。私が楽しみにしているのは、作家の中村彰彦先生が書かれる「歴史の坂道」のコラムです。
 令和4年11月1日号には「仙台藩が連戦連敗した『お家の事情』」という一文が掲載されていました。戊辰戦争で仙台伊達藩が連戦連敗した理由として中村先生は、藩主に権力が集中しておらず、「奉行(仙台藩では家老)は一門から宿老まで六十一人に掣肘を加えられる羽目になり、仙台藩政は伊達騒動の起こった江戸時代初期とおなじ多頭政治がつづいていた」ことを指摘されています。そんなことでは「不動心を持った精兵たちは育たない傾向がある」からです。
 いくら仙台藩の図体が奥羽最大の六二万石で、総兵力は一五、六万を誇ったとしても、石高の約四五・四%は門閥が占有し、兵力にしても直臣は三六一二人にとどまり、それ以外は圧倒的に門閥なのです。これでは藩主への忠誠心は直臣に限られてしまい、激動の時代に歴史の舞台に登場しても、脇役すら演じることは難しいのです。
 仙台藩と比べて会津藩は、藩主を中心にした結束がありました。だからこそ、多いときには二〇〇〇人の兵を京都に送ることができたのです。しかし、それは同時に、藩論を決めるにあたって、反対派の意見を封じることにもなり、最終的には悲劇を招くことになったのです。
 仙台藩の場合は、藩内で勤皇派と佐幕派が争い、一時は佐幕派の奉行但木土佐らが主導権を握りましたが、東軍の敗北がほぼ確定すると、門閥を復帰させて西軍との交渉を行ったのです。どちらがよかったというのは結果論ではありますが、中村先生の着眼点はユニークだと思います。
 今年はロシアのウクライナ侵攻など大変な出来事は相次ぎましたが、私にとっては信仰の大事さを確認する年となりました。皆様におかれましては、良い年を迎えられるよう、心より祈念申し上げます。

            合掌


天台宗と法華経について - 誰もが救われる信仰とは- 柴田聖寛

2022-12-30 12:02:20 | 天台宗

 

 伝教大師最澄様が書かれたものに『顕戒論』があります。「大乗戒壇」を比叡山につくるために書かれましたが、そこではなぜ「大乗戒壇」でなければならないのかについて触れています。小乗とは違った「大乗戒壇」があるべきだという主張は、「法華経」を信仰する最澄様にとっては、最大の懸案でした。
『法華経』は初期の大乗経典に属し、鳩摩羅什(くらまじゅう)訳で知られ、全体で27章(28章)からなっています。
 お経の王様といわれています。鳩摩羅什は父親がインド系で、母親が漢民族でした。『法華経』を最初から最後まで読んで理解したという人は稀だといわれています。
 方便品を中心とする部分を第一部分、法師品から嘱累品までを第二部分、嘱累品から後の六品を第三部分としており、この順で成立したとの見方が有力です。
「方便」というのは「巧みな手段」ということであり、声聞や縁覚のための小乗の教えも、菩薩を説く大乗の教えも、最終的には「一切衆生が」仏になることができるという信仰に導くというのです。
 第二の部分では、「法華経」の信仰者が、どのように試練に耐えたかを祥介しています。第三の部分は、もともとは独立していたものが取り込まれたとみられているが、そこに『観世音菩薩普門品』も入っています。
『観世音菩薩普門品』は、『観音経』としても独立しており、「念彼観音力(ねんぴーかんのんりき) 」「観世音菩薩」の二つを唱えれば、それぞれ「観音様の力を念ずることで救われる」「心から観世音菩薩をたたえれば、必ず救われる」と書かれていますが、『法華経』の誰もが成仏できるという信仰が根本にあるからです。
 『法華経』の信仰で忘れてならないのは、聖徳太子です。厩戸皇子とも呼ばれていますが、曽我馬子とも近く、仏教の崇拝をめぐって物部氏と対立したとみられていることです。17条の憲法を制定したことで知られています。
 さらに、特筆されるべきは、聖徳太子が、禅定と法華信仰の僧であった南岳慧思(なんがくえし)の後身であるとの説があることです。慧思は天台宗を開いた智顗(ちぎ)の先生ですから、そういう話が奈良時代にはすでに広まっていました。しかも、その話を広めたのが鑑真の弟子筋であったというのですから、それなりに説得力があったのです。
 聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈書である『三経義疏』を書いたともいわれていますが、最近の研究では、末木文美士氏が『日本仏教史』で、聖徳大太子の手になるという説を支持しています。著者自身の詩翁の表明の箇所が多く、漢文の不適切な箇所や誤字が見られることからです。
 とくに、末木氏は「単なる『大乗』を超えた絶対的な『一大乗』を主張しているが、」これはのちの最澄などの運動につらなるものといえる」と書いています。
 その後に奈良時代となり、南都仏教が栄えますが、それと対抗する意味で、再度『法華経』が見直される時代が到来したのです。伝教大師最澄以前にも、日本に『法華経』の信仰が根付いていたのでした。
 『法華経』は誰でも成仏できるという信仰であるとともに、今も生きる知恵があるというので、現世的なご利益に関しても語っている。
 宮沢賢治などの文学者にも大きな影響を与えました。賢治の家は、もともとは浄土真宗でしたが、18歳で、島地大等編の『漢和訳対照妙法蓮華経』を読み、それで法華経を信仰するようになり、日蓮宗の宗教団体「国柱会」のメンバーとなりました。
 『雨ニモマケズ』の詩の関しては、自分のことを捨ておく菩薩道の実践であり、まさしく『法華経』の教えそのものなのです。(去る12月15日、柳津温泉花ホテルで、私が講演した要旨をまとめたものです)

 


徳一の藤原仲麻呂子息説が最近になって急浮上 柴田聖寛

2022-11-27 12:11:24 | 天台宗

 

 伝教大師最澄様と論争した法相宗の僧徳一に付いては、私は関係する書籍を片っ端から目を通すようにしていますが、最近になって次々と新たな研究成果が発表されています。小林祟仁師の『日本古代の仏教者と山林修行』は昨年八月に出たばかりですが、私には大変参考になりました。
 といいますのは、それまで否定されていたことが、逆に脚光を浴びるようになってきたからです。資料が乏しいとはいえ、徳一の説明をめぐっては、立場立場で大きな食い違いがあるからです。
 小林師が特筆したのは下記の点です。私はそれに関して論じる知識を持ち合わせてはいませんが、私なりに勉強したいと思っております。「藤原仲麻呂(恵美押勝)子息説は、薗田香融氏が仔細に検討し、その可能性は極めて低いとしたが、近年に保立道久氏は子息説に大きな矛盾は発生しないとする。また興福寺修円の弟子との説は、塩入亮忠氏が両者の年齢関係から疑問視をしたが、そもそも両者の生没自体に不明の点があり判断しかねる。むしろ玄奘や窺基の流れを汲む正統唯識学派の学的系譜からして、南都時代の徳一が、修円と近しい位置にあった可能性は十分にあり得る」
 ここで注目されるのは、藤原仲麻呂子息説の再評価です。小林師は保立道久東京大学史料編纂所名誉教授が「藤原仲麻呂息徳一と藤原氏の東国留住」(『千葉史学』六七・二〇一五)を執筆し、「徳一が仲麻呂の子として七四九年(天平勝宝一)頃に生まれたという想定と徳一の生涯の事績との間に大きな矛盾は発生しない」と主張したのを紹介しています。
 さらに、保立同名誉教授の説明の文章を注釈において引用しており、それは衝撃的な見方でした。「天平宝宇八年(七六四)の仲麻呂蜂起事件に際し、当時十六歳であった徳一は陸奥に流罪になるものの、後に許されて東大寺へ戻り、さらに藤原氏の氏寺である興福寺に拠点を移したというのは十分に考えられるとする。そして、『徳一があらためて会津に下った理由は、やはり一つの別世界を希求したためと理解すべきであろうか』と述べる。また、仲麻呂の弟の巨勢麻呂の子孫が、常陸や上総などと深い関係をもっていたことを指摘し、『徳一の開基伝承をもつ諸寺院は常陸国から上総にかけて広がる徳一の同族の藤原氏の留住者たちの存在を背景として理解すべきものである』とし、京都と地方の双方で活動した貴族、いわゆる留住貴族の問題を論じている。徳一が実際に仲麻呂の子息で、仲麻呂蜂起事件を契機として同族が東国に留住していたとなれば、それは徳一が斗藪(とそう)の行き先として東国を選択する大きな背景になったと考えられる」
 このほか、徳一を修円の弟子とする説については、修円と徳一の双方の生没年が不明であることから、断定を避けることで、可能性の余地を残したともいわれます。このことに関しては今後新たな展開があるとみられていますが、興福寺や室生寺との関係からも、修円と徳一が無関係であったと断定することの方が間違っているのだと思います。


テレビでお馴染みの田﨑史郎氏の講演会に出席 柴田聖寛

2022-11-03 12:40:46 | オピニオン

 

 

 私は先月29日、会津若松市のワシントンホテルで行われた、政治ジャーナリストの田﨑史郎氏の講演を聞いてきました。会津信用金庫とあいしんたから会が主催したもので、演題は「日本政治の舞台裏」。あくまでも新聞などが伝えてくれるのは、表舞台で起きたことが中心です。それだけに、田﨑氏がどんな話をするが興味があったからです。
 田﨑氏は、岸田首相に付いては、辛い点を付けていました。安倍元首相のような明確な政策がなく、場当たり的な対応に終始しているからです。旧統一教会との関係で山際経済再生相をクビにしましたが、「瀬戸際大臣」といわれながらも、なかなか決断できなかったのは、ドミノ倒しになるのを恐れたからだそうです。
 岸田首相は、政策的には一貫性がなくても、権力に対する執着は人一倍で、内閣支持率を気にするのは、いつまで権力の座にいられるかの目安になるからだとか。菅前首相を待望する声があることに関しては、田﨑氏は「やっても一期くらい」と断言していました。
 将来の自民党を担うリーダーとしては、小泉進次郎代議士の名前を挙げていましたが、まだまだ修行が足りないといったようなことを、口にしていました。田﨑氏の講演内容は、分かりやすく歯切れもよく、本当に勉強になりました。
 私のような宗教界に身を置く人間であっても、政治には無関心ではいられません。色々な情報を仕入れて、大事な一票を行使したいと思っています。
             合掌             

 


住職30年勤続功労者として表彰されました 柴田聖寛

2022-10-31 08:21:13 | 天台宗

 

 令和4年度の天台宗功労者表彰式が去る10月25日午前11時から比叡山の延暦寺会館で開かれました。30年にわたって天王寺住職を勤め、布教に功労があったというので、大樹孝啓天台座主猊下が私に表彰状と記念品(袈裟)を手渡されときには、熱いものがこみあげてなりませんでした。住職30年勤続功労者は全国で56名。東北地方からは6人、福島県は私一人でした。
 ついで、大樹座主猊下からお言葉があり、阿部昌宏宗務総長からの挨拶があり、記念撮影が行われました。続いて水尾寂芳延暦寺執行の祝辞のあと祝宴が行われました。
 今年度は天台宗の住職を50年、30年と勤められた41人の方が出席されましたが、その一人として私も光栄に浴することができました。祝宴の場で水尾執行から「柴田さん。お若いですね」と声をかけられましたが、その一言で励まされて元気が出ました。私は75歳を迎えましたが、今後も日々精進を重ねていきたいと思っております。
 思い起こせば天王寺の住職になったのは、私が40代前半のときでした。中通り生まれで会津との結びつきはほとんどありませんでした。御仏の命じられるままに、単身で会津美里町に移り住んだのです。私は50代で結婚して家族を持ち今日にいたりました。何もない所から出発し、新寺建立と同じような苦労がありました。檀信徒の皆さんのご支援のおかげで、門構えや庭を整備しました。とくに庭に関しては、山形県の鳥海山の石の寄進を受けて、寺院らしい雰囲気になりました。
 住職としてのお勤め以外に、天王寺が会津三十三観音霊場の二十八番札所の高田観音であることから、私は会津三十三観音霊場についての本を過去に出版するとともに、伝教大師最澄様と論争をした法相宗の僧徳一が、会津の慧日寺にいたということを知り、私なりに研鑽を深めております。また、布教活動の一つとして、会津天王寺通信のブログをアップしています。
 できれば私は、これから20年住職を勤めさせていただき、住職50年勤続功労者として、比叡山に招かれるのが夢です。日々精進に努めたいと思っておりますので、皆様のご指導とご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。

           合掌