会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

「伝教大師伝⑨伝教大師最澄と徳一の論争Ⅰ」 柴田聖寛

2022-02-07 18:24:31 | 天台宗

 

 伝教大師最澄と会津の慧日寺の徳一との論争は、それこそ日本思想上最大の出来事であったといわれるが、そのきっかけは、会津を中心にして、福島県全域や茨城県にまで影響力を拡大していた法相宗の徳一教団と、栃木県から群馬県にかけて勢力圏をもっていた道忠教団の争いが発端だといわれています。それが宗教的な論争にまで発展したともみられています。
 田村晃裕編の『最澄辞典』によると、道忠というのは「最澄を後援した東国の僧」で、『元亨釈書』では「鑑真につかえて戒学をうく、真、持戒第一と称す」、『本朝高僧伝』には『出家習学し、鑑真を拝するに及び具足戒に進む』と記されていることに言及しています。また、比叡山おいて修行中で無名であった伝教大師最澄が仏教の書籍を写すのを依頼したときに、率先して協力したことで関係が深まり、それ以降、道忠の弟子や孫弟子が比叡山で修行するようになり、その中から天台教団を支えた人たちが出たのでした。第二代天台座主円澄、第三代天台座主円仁、第四天台座主安慧といったように、実に三十五年間にわたって道忠系の人たちが占めたのでした。
 古くからのそうした関係もあって、弘仁八年(817)に東国を訪問し、上野国(群馬県)浄土院、下野国(栃木県)に一級の宝塔を築き、それぞれに法華経1000部を書写しておさめることとしました。そのときには円澄、円仁、徳円(下総国出身)を帯同しています。そこで徳一が『仏性抄』で『法華経』を方便の教えとして批判していることを知り、最初は道忠教団に向けられた書への反論を自ら書いたのでした。
 この論争についてもっとも簡潔に述べているのは『最澄辞典』です。伝教大師最澄を語ることが同時に徳一を語ることでもあり、最澄研究家の泰斗であった田村氏が徳一研究家としても抜きん出ているからです。
「恐らく発端をなしたのは徳一が『仏性抄』を著わして『法華経』を方便の教えであると批判したことに始まるのであろう。それに対して、最澄は『照権実鏡』を著わして、方便の教えと真実の教えとを区別する基準が一乗思想にあることを示し、併せて前に書いておいた、諸宗の学匠が天台宗を拠り所にしていることを示した『依憑天台集』(もっとも古いのが天台であり、それ以外の影響を受けなかった諸宗はなかったと主張・伝教大師伝⑧で取り上げています)を徳一におくり、更に『法華経』の内容として、天台教学と一乗思想の要点を記した『原守護国界章』を著わし、ここから相手の文々句々を引用して批判する本格的な論争に発展したものと思われる。『中辺義鏡』での批判、『守護国界章』での反論、『遮異見章』の再批判という系列で、天台教学と法相教学・一乗と三乗との問題がとりあげられ、この中、一乗思想について『決権実論』『通六九証破比量文』をめぐる論争に展開され、最後に、最澄はこれらの論争の要点をまとめ、反論を行いながら、『法華経』の他の経典・宗派よりすぐれた思想であること10点にまとめた『法華秀句』を弘仁十二年に著わして、最澄に関する限りでは論争の最後をなし、その翌年弘仁十三年六月に没くなっていったのであった」


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1 コメント

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Unknown (門間健太)
2022-02-10 11:40:53
ご住職にお聞きしたいのですが、背中に刺青がある者は天台宗僧侶に成ることは不可能でしょうか。
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