ヨッシー・クライン・ハレヴィ著の『我が親愛なるパレスチナ隣人へ イスラエルのユダヤ人からの手紙』(神藤誉武訳)を読んで
神藤誉武さんが邦訳されたヨッシー・クライン・ハレヴィ著の『我が親愛なるパレスチナ隣人へ イスラエルのユダヤ人からの手紙』を読んで私は、宗教の違いを超えた対話の必要性を痛感しました。2018年6月、天台宗の横山照泰師を団長とした「葉上照澄大阿闍梨の足跡を辿る」ツアーの一行として、私はイスラエルを訪問しましたが、そこでニューヨークから通訳として参加された、神藤さんと知りあいになり、それからのお付き合いです。
葉上照澄大阿闍梨の功績を讃える
「訳者あとがき」で神藤さんは「葉上照澄大阿闍梨のこと」という見出しで、私どもの天台宗の大阿闍梨である葉上照澄尊者の経歴と足跡を紹介しています。
「戦前はドイツ哲学の教授、新聞記者を生業としていたが、妻の死と日本の敗戦が契機となり、四十歳を越えていた戦後間もなく、日本の再建のために、先ずは自分の建て直しから取り組まなければならないと思い、比叡山に入られた。入山の翌年、七年を要する難中難の千日回峰行に挑み、さらに運心回峰行千日、法華三昧行千日とあわせて三千日の聖行を満行して大行満になられた。そして、新日本を担う人間づくりに励むと共に、人類の和解を求めて日本内外で積極的に活動された」
また、葉上尊師がなぜ中東和平に関係するようになったかについても、詳しく書いています。ある日、鎌倉円覚寺の朝比奈宗源老師から会いたいとの連絡があり、隠寮を訪れると、開口一番「エジプトに行ってほしい」と言われたのでした。エジプトのサダト大統領の宗教的信念に期待し、朝比奈老師自ら中東に出向こうとしましたが、健康が許さないので、葉上尊師に依頼したのです。それから葉上尊師は、何度もエジプトやバチカンを訪問し、サダト大統領との信頼関係を築いたのです。1977年11月19日、サダト大統領がイスラエルを電撃的に訪問、翌々年にエジプト・イスラエル平和条約が締結されました。同年11月19日にはシナイ半島が返還されたことを受け、その式典と一緒に、サダト大統領の呼びかけでユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共同礼拝が実施されたのでした。それが実現したのは、葉上尊師がサダト大統領を説得したからなのです。
サダト大統領が過激派によって1984年に暗殺されましたが、その悲しみを乗り越えるために、葉上尊師はシナイ山での共同礼拝を計画し、1984年に再び、シナイ山に世界の宗教者が結集し、人類の和解と世界平和への祈りを捧げる壮挙が行われたのです。仏教徒でもない神藤氏が、葉上尊師の功績を絶賛したのです。そして、葉上尊師の「時間、空間に永遠の存在が二つも三つもあってはたまりません。時代と場所によってその呼び名と性格が違うだけのことです」との言葉を、神藤氏は「本書の根底にある『聖なる実在の前に一つになる』感覚と相通じる感性である」と評価したのでした。
宗教が異なる人との出会い
この本はパレスチナの隣人にあてた「手紙1」から「手紙10」が中心で、それ以外にエピローグとして「パレスチナ隣人からの返信[初版に対する反響]」、著者のヨッシー・クライン・ハレヴィ氏と、パレチナ人平和活動家のムハンマド・ダジャーニ・ダウーディ氏への神藤氏の特別インタビューで構成されています。
とくに重要なのは「手紙1」の「私たちの間にある壁」です。著者のヨッシー・クライン・ハレヴィ氏は、イスラエル人とパレスチナ人との争いに終止符を打つことを主張し、イスラエルとパレスチナの二国家共存を支持しています。「私は、宗教を異にする人たちが出会うことは、神の名を聖とすることに繋がると信じています。異なる信仰を持つ人々と交わりを持つことは、宗教的な謙虚さを育み、真理と神聖さは一つの宗教宗派に限定されないことを認識させてくれます」との立場であって、ヨッシー氏はイスラム教を敵と見ないのです。それは天台宗の考え方と一致します、だからこそ私どもは、あらゆる宗教との交流に力を入れてきたのです。その象徴的なお方が葉上尊師なのです。
ヨッシー氏はその点において徹底していました。カザ地区にある難民キャンプに出かけて行って、そこでイスラム教の神秘主義者との対話を通じて、イスラム教を愛するようになったのでした。とくに「死に直面した際の心構えは素晴らしいと思います」と評したのでした。そして、パレスチナ人の視点から物事を見ようとしたのです。
二国家共存の足掛かりとして、1993年9月13日、ホワイトハウスの芝生の上でヤセル・アラファトとイスラエルの首相イツハク・ラビンが握手したのはその第一歩として期待されましたが、現実は生易しくはありませんでした。いかにエフード・バラク首相がパレスチナ国家の建設を認めても、アラファトは歩み寄りませんでした。紛争解決の可能性を信じていたヨッシー氏のようなイスラエル左派は、失意のどん底に落とされたのでした。
しかし、ヨッシー氏は希望を捨てたわけではありません。だからこそ、イスラエル政府に「積極的に二国家共存案を推し進め、たとえ道のりは遠くとも、合意のための可能性を探ってくれることを」望むのです。さらに、ヨッシー氏は「占領終結の鍵は、私たちユダヤ人が占領地から撤退して領土を縮小する意志を示すこと。その返礼としてはあなたの側は、西岸地区とガザ地区をパレスチナ国家の領土と認め、イスラエル国家を脅かすことはないという意志を表明して、何らかの希望をユダヤ人に示すことです」と実現可能な提案をしたのでした。
お互いの物語を認め合う
「手紙2」の「要請と熱望」では、ユダヤ人の歴史を回顧しながら、イスラエルの地へのこだわりを語ったのでした。「イスラエル人は、復活した言語を話して復興した郷土で暮らす自らの存在そのものを奇跡だと感じています」「今もなおユダヤ人として生き続けているのは、人知を超えた信仰を保ち続けてきた人たちの子孫です。うち萎れていた私たちの先祖は、語り継がれてきた離散と帰還のユダヤの物語が、いつの日か成就すると信じてきました」。それは深い信仰に支えられていたのです。
「手紙3」の「運命と使命」では、ユダヤ教はイスラム教やキリスト教とどこが違うかに関して言及しています。ヨッシー氏はユダヤ教の信仰を理解してもらうために、相違点を指摘しながらも、新たな一致点を見い出そうとしたのです。
「ユダヤ教の役割は霊的な先駆者となることであり、主に、自らの常識を覆すような存続を通して、神の臨在を証しすることです。そして、人類が超越界に突入するための道備えを手助けすることです。つまり普遍的な目標のために特定の民族が選ばれるという神の計画なのです」。一つの民族を選んだということで、選民思想と批判されることを想定して、「地上の諸国民はすべて祝福される」という目的を達成するために、ユダヤ民族が白羽の矢を立ったというのです。
「手紙4」の「物語と存在」では、今あるイスラエルという国家がどのように成立したかを、誇り高き歴史として記述しています。パレスチナの人たちの物語があることを念頭に置きながらも、その点では一歩も引かないのでした。
「一九四八年にイスラエルが建国し、守り抜いた五十万人のユダヤ人は、歴史上最も類まれなユダヤ人コミュニティかも知れません。彼らは建設者であり、革命家であり、神秘家でした。死後を復活させた作家や詩人、世界の救済を夢見た夢想家でした。独立をどのように成し遂げられるか、未来のユダヤ国家の国柄はどうあるべきか、口角泡を飛ばして論じ合いました。彼らは、自分たちが歴史的な瞬間に生きていること、打ちひしがれた民族を背負っていることを自覚していました」。
そうした建国の理想を大事にしながらも、かつて内向きであったことを反省し、ヨッシー氏は「私の世代のイスラエル人が直面する挑戦は、外向きで、つまり隣人さん、あなたと向かい合わなければなりません。というのも、私の未来とあなたの未来を分けて考えることはできないからです」と書いたのです。
二国家分割を主張
「手紙5」の「六日と五十年」では、一九六七年の六日戦争において、イスラエルが滅亡の危機に直面したことを回顧し、ニューヨークのブルックリンに住む十三歳の少年であったヨッシー氏自身も「一度も訪れたことのない国のために自分の命を捧げてもいい」と思ったのでした。しかし、その戦争を肯定する一方で、西岸地区に入植し、領土を拡大したことに対しては、舌鋒鋭く批判します。
「私は、同世代の多くのイスラエル人と同じように、第一次インティファーダ(抵抗運動)を通して、イスラエルは占領を止めなければならないと思うようになりました。それもあなたたちのためではなく、私たち自身のためです。私たちが民族として大切にしてきたすべてを貶める占領から、自ら解放しなければならない。正義、慈愛、思いやり、それは数千年にわたってユダヤ人の生活基盤でした」。ヨッシー氏は、軍人として配属されたばかりの頃、パレスチナの少年を辱めることをした、イスラエル兵士の仕打ちが許せなかったのです。
「手紙6」の「分割案という正義」では、二つの国家に分割することしか解決策がないという現実を直視したのでした。お互いに不満があることを認めつつ、イスラエルが一九六七年に獲得した領土の大部分をパレスチナに譲渡することと引き換えに、一九四八年のイスラエル建国を受け入れてもらうことを提案しているのです。帰還をめぐっても、イスラエルとパレスチナ国家が主権を尊重すればいいというのです。
「手紙7」の「イサクとイシマエル」では、ユダヤ教とイスラム教が共通性を探りあてようとしたのでした。聖書ではアブラハムが捧げたのはイサクだと記されているのに、イスラム教ではイシマルが捧げられたことになっています。そのことをもって、お互いが反目することの無意味さにヨッシーが気付いたのは、イスラム神秘主義者であるシェイフ・イブラヒーム師の語った言葉でした。
「何てことない。イシマエルの偉大さとは何か。イサクの偉大さとは何か。それは、神が望まれたことは何であれ受け入れたことではないか、私が、ヨッシー・ハレヴィの子供たちと、イブラヒームの子供たちに望むのは、イサクとイシマエルのようになることだ」。違いよりも、共通する過去に目を向けることが大切だからです。ユダヤ教徒でありながら、イスラム教徒を隣人として遇することで、奥深い所での対話が成立したのです。
強靭なイスラエル国家
「手紙8」の「イスラエルの逆説」では、イスラエルという国家が矛盾を抱えていることを告白し、そこに活路を見い出そうとしたのでした。
「私たちの独立宣言は、イスラエルをユダヤ的で民主的な国家と定義しました。その立案者たちによれば、イスラエルは、イスラエル国民であるなしに関係なく、世界中のユダヤ人の郷土となる。と同時に、イスラエルは、ユダヤ人であるかなしかにかかわらず、すべての国民にとっての民主的な国家となるということでした。ユダヤ的かつ民主的という、この二重のアイデンティティは、この国の創立者たちが私たちに残した大いなる挑戦です」。ユダヤ教を重んじながらも、世俗的なことも取り入れています。それがアラブ系イスラエル人を受け入れるベースになるというのです。ヨッシー氏が説く普通の国家になるというのは、宗教の違いを超えて、アラブ系の国民の不公正を無くすことなのです。
「手紙9」の「犠牲者と生存者」では、ユダヤ人にとってのホロコーストの意味に関して、ヨッシー氏は、ユダヤ人として、犠牲者への憐れみを請うのではなく、逆境に打ち克った先人の勇気を讃えたのでした。
「生存者の息子である私にとって、ホロコーストで最も重要なのは、私たちが犠牲者としてではなく、勝者として生き残ったということです。私たちは忍耐力に長けている民族です。エジプトやバビロンやローマまで遡って歴史を顧みても、私たちを抹消しようとした帝国よりも長く私たちは存続しています。しかし、考えられないほど長い私たちの歴史の中でも、二十世紀にユダヤ人が成し遂げた復活に匹敵するものはありません。あたかもそれまでの歴史は序曲でしかなかったようです。存続か絶滅か、ユダヤ人がどちらかの選択を迫られる時に備えての予行演習のようでした」。ヨッシー氏が訴えたいのは、生存が脅かされれば、反撃せざるを得ないということです。その保証が担保されることを前提にして、和解の手を差し伸べるのです。
「手紙10」の「沙漠の端の仮庵」では、イスラエルの民が荒野を旅した記憶を想起させる自宅の仮庵から、イスラム教徒に向かって対話を呼びかけたのでした。
「隣人さん。私たちの霊魂を引き寄せて、お互いの傷跡や恐怖心を超克することはできないでしょうか。幾世紀もの間、無数の霊魂の愛と献身と期待によって聖別されてきたこの地で、私たちは宗教者としてどんな責任を負っているのでしょう。歴史上最も危険な時代に、私たちは、人類にとって最も解決が難しい紛争の一つを委託された『管理人』として、どんな責任を担うべきでしょう」。ヨッシー氏は深刻な問いかけを隣人に発することで、いつか出会える日が来ること期待し、「我が家の仮庵にお迎えできることを願っています」と締めくくったのです。
パレスチナ人にも賛同者
「エピローグ―パレスチナ隣人からの返信[初版に対する反響]」では、「二国家解決案を信じていないのはユダヤ人です」という厳しい意見があるものの、その一方では「あなたのような真摯な声だけが、ユダヤ人が民族であることをパレスチナ人に認識させてくれます」「私たち二つの民族の間で和平が成立し、共通の未来を実現させるためには、パレスチナ人もアラブ人もイスラム教徒も、あなたの物語に耳を傾け、あなたの手紙に心を留めなければなりません」との感想も寄せられました。ヨッシー氏の思いが伝わったのでした。
ヨッシー・クライン・ハレヴィ氏と、パレチナ人平和活動家のムハンマド・ダジャーニ・ダウーディ氏への特別インタビューは、神藤氏の邦訳版で追加されたものですが、かなり突っ込んだ議論が展開され、何が問題かが炙り出されています。
ヨッシー氏が強調しているのは、宗教的な要素を抜きにしては解決できないという現実です。「和平交渉や痛みの伴う譲歩を宗教的に裏付けられなかったら、正当性に欠けてしまう。イスラム教の側はもちろん、ユダヤ教の側でも同様です」との発言を引きだした神藤さんは見事だと思います。
ダジャーニ氏は返信の手紙を書いた一人で、「ヨルダンではレバノンやシリア、イラク、パレスチナから避難した人たちが住んでいます。ヨルダンと連邦を結んだらパレスチナ国家にとっても有益です。この連邦機構にイスラエルも組み込むこともできるはずです」とパレスチナ国家の未来についての展望を語ったのでした。
聖寛の感想
イスラエルという国家がすごいのは、ユダヤ教というバックボーンがあるからだと思います。そこで培われた信仰心にもとづき、隣人のパレスチナ人との対話を試みたことは、信仰者として深い意味があると思います。信仰を無視して、政治のレベルで解決しようとしても、それは土台無理であるからです。信仰者であるからこそ、平和の大切さを知っており、信仰を通して何をすべきかを分かっているのです。そのことを確認するためにも、ぜひ多くの日本人に読んで欲しいと思います。
合掌
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