天台宗は「円教、密教、禅法、戒法、念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合し、これを実践する」(『天台宗宗憲』)とい信仰です。このため座禅も重視しています。ひろさちや先生の『坐らぬ禅』を読みまして、禅はどうあるべきかについて、多くの示唆を得ました。
最後の書下ろしの本ということあり、すぐに購入して一日で読み終わってしまいました。私がその話を若い人にしたところ、ぜひ私の話を聞きたいということになりました。それで昨日は喜多方にまで出向いて、子供が小さいお母さんや、高校生など数人の前で本の感想を述べて、禅とか信仰に関して、色々と話をしました。
ひろさちや先生の凄いのは「阿保になれ?馬鹿になれ?」と書いていることです。大阪の生まれのせいで、「阿保」という言葉にこだわったのでした。不登校への対処の仕方でも「馬鹿」と「阿保」と違いがあるというのです。「馬鹿」は何とか学校に行くように、カウンセラーに相談したり、時には暴力をふるったりする。それでうまくいくこともありますが、そうでないことの方が多く、最悪の場合は自殺したりします。「阿保」は子供が学校に行きたくないと言えば、自分も会社を休んで付き合い、無理に学校に行かせないというのです。一緒に寄り添って、親子して話し合いをするのです。そうすれば心の対話が成立しますから、突破口が見出せる可能性が高まります。
そうした考え方のエッセンスがつまっているのは、その本の「まえがき」です。「坐らぬ禅」という言い方をしているからです。「行・住・坐・臥(が)、つまり行く(歩く)も住むも、坐るも臥(ふ)すも、すべてが禅であり、禅でなければなりません」と言い切ったのです。
禅寺で禅をすることだけが禅ではないというのは、身につまされる意見です。つまり、禅の実践とは、日常的なありふれた生活の中でこそ、試されるからだと思います。立派な禅を組む人であっても、酒の席でとんでもない振る舞いをするのであれば、禅を理解していないことになるからです。
「阿保」になるために、どうすればよいかということまで触れており、それもまた参考になります。「なんだっていい」と欲望を捨てる。「そのまんまそのまんま」で現状を肯定いながら、そこで生きがいを見つけていくのです さらに、「禅僧列伝」として、釈尊、菩提達磨、慧可(えか)、六祖慧能、馬祖道一、第珠慧海(だいじゅえかい)、龐居士(ほうこじ)、鳥窠道林(ちょうかどうりん)、南泉普願(なんせんふがん)、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)、法眼文益(ほうげんもんえき)、俱胝(ぐてい)、臨済義玄(りんざいぎげん)、明庵栄西(みょうあんえいさい)、希玄道元(きげんどうげん)、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、鈴木正さん、盤珪永輝琢(ばんけいようたく)、白隠慧鶴(はくいんえかく)、誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)、大愚良寛を取り上げています。
私の知らない人もいますが、ひろさちや先生は、手を抜くことなく、それぞれの禅僧のエッセンスをまとめてくれています。禅といっても様々なアプローチがあり、歴史的な変遷を理解することができます。
そして、最終章の「終りと始め」で、日常語の「方便」が、便宜的な手段を意味するのではなく、サンスクリット語の「ウパーヤ」の訳語であって、「接近する」との意味であることに言及し、一歩一歩死ぬまで歩み続けることを説いたのでした。「嬉しいときは喜び、悲しいときはしっかり泣くこと」であり、「そのまんま、そのまんま」でいいのです。
そんなことを私は話しましたが、若い人たちからは「無理せずありのままがいいんですね」とか、「仏教の教えに親近感を覚えるようになりました」と感想をいただきました。今後ともお茶会などに顔を出したいと思っています。
合掌
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