三月九日朝8時前、姉から電話が入った。
「お母さんが亡くなったの」と。町内の太平洋を見渡せる丘の上にある、老健施設に一年余りお世話になっていた母。献身的な施設の職員さん達には、いつも感謝していた。
一瞬何が起こったの?熱があったわけでも無く近々訪ねる予定になっていた。
2010年8月(亡)父と、70年にわたり、何時もいつもお喋りを楽しんでいた母にとって、自分だけ残されてしまった様な孤独感にさいなまされる日々だった。「早く迎えに来て欲しい」と口を開けば言っていた。父は母と向い合った儘、お昼寝かと思っていたら、息が絶えていた、と言う逝き方で、95年の人生を終えた。母は姉が毎日朝晩、実家に通って面倒を見ていてくれたが、気候が余りにも過酷過ぎて、自宅では老人にはストレスが多過ぎるので老健にお願いした。酷く暑くもなく、しんしんと冷えるのでもなく、安心していた。
数年前から、自力で歩行も出来なくなり、車いすで施設の中で安定した生活を送った。規則正しい生活で朝食時も、自分で車椅子をこいで食堂に向かい、自分の席で待っていた。たった数分の内に、椅子から崩れる事もなく息を引き取った・・・・と。
老健にいて下さる先生の死亡診断書には「老衰」と二文字だけ書かれていた。その二文字が家族を安堵させた。
納棺式も美しく若い女性が、手早く化粧をし奇麗に仕上げて下さった。兄は「俺は今迄一緒に生活して来たけど一番きれいな顔を見た」と92歳の母を礼賛していた。
旅支度は近所の方々や親戚の者が二人一組で、整わせた。何と幸せな母だろうと、心から有難く思った。
葬儀場での通夜の晩は、姉と私が会場の一室でお守りをした。夜遅く、母の実家の方から姉弟二人の方が、来て下さり、思い出話や母の両親の事等昔の事なのに、細かく話しずっとお線香を絶やさず見守って下さった。こんな事でも無ければ絶対お会い出来ないお二人だけれど、子供の頃の私達をよく覚えていて下さり、私の知らない話題等も、聞かせて下さった。嬉しいお通夜の晩だった。朝方2時間横になり5時に起きた時はお線香もとぼってしまっていた、慌てて点けた。今のお線香は匂いも少なく、1時間も持たない様な物だ。まあ無事にお通夜のお守りが出来てホッとした。そして午前10時から告別式の運びになり大切な儀式は滞りなく進んで行く。
「お母さんが亡くなったの」と。町内の太平洋を見渡せる丘の上にある、老健施設に一年余りお世話になっていた母。献身的な施設の職員さん達には、いつも感謝していた。
一瞬何が起こったの?熱があったわけでも無く近々訪ねる予定になっていた。
2010年8月(亡)父と、70年にわたり、何時もいつもお喋りを楽しんでいた母にとって、自分だけ残されてしまった様な孤独感にさいなまされる日々だった。「早く迎えに来て欲しい」と口を開けば言っていた。父は母と向い合った儘、お昼寝かと思っていたら、息が絶えていた、と言う逝き方で、95年の人生を終えた。母は姉が毎日朝晩、実家に通って面倒を見ていてくれたが、気候が余りにも過酷過ぎて、自宅では老人にはストレスが多過ぎるので老健にお願いした。酷く暑くもなく、しんしんと冷えるのでもなく、安心していた。
数年前から、自力で歩行も出来なくなり、車いすで施設の中で安定した生活を送った。規則正しい生活で朝食時も、自分で車椅子をこいで食堂に向かい、自分の席で待っていた。たった数分の内に、椅子から崩れる事もなく息を引き取った・・・・と。
老健にいて下さる先生の死亡診断書には「老衰」と二文字だけ書かれていた。その二文字が家族を安堵させた。
納棺式も美しく若い女性が、手早く化粧をし奇麗に仕上げて下さった。兄は「俺は今迄一緒に生活して来たけど一番きれいな顔を見た」と92歳の母を礼賛していた。
旅支度は近所の方々や親戚の者が二人一組で、整わせた。何と幸せな母だろうと、心から有難く思った。
葬儀場での通夜の晩は、姉と私が会場の一室でお守りをした。夜遅く、母の実家の方から姉弟二人の方が、来て下さり、思い出話や母の両親の事等昔の事なのに、細かく話しずっとお線香を絶やさず見守って下さった。こんな事でも無ければ絶対お会い出来ないお二人だけれど、子供の頃の私達をよく覚えていて下さり、私の知らない話題等も、聞かせて下さった。嬉しいお通夜の晩だった。朝方2時間横になり5時に起きた時はお線香もとぼってしまっていた、慌てて点けた。今のお線香は匂いも少なく、1時間も持たない様な物だ。まあ無事にお通夜のお守りが出来てホッとした。そして午前10時から告別式の運びになり大切な儀式は滞りなく進んで行く。