私は父の時は余りにも突然で、涙が枯れてしまう程泣いていた様な気がする。母の時はいつかはこんな日が来るけれど、延命処置はしないようにしようと兄弟で話し合ったりした事も有った。痩せてしまって骨と皮だけの母だったけれど、頭の方は最後までごくごく普通に会話が出来ていた。ある意味やっぱり突然とも言える状態だった。あれほど覚悟していたのに・・・役に立たなかった。
しかし田舎では、親戚や隣近所の皆さんが、一大事の時は、ここぞとばかり連携力を発揮して呉れて、兄を支えてくれた。私など出る幕は無い。言われた儘動いているだけだった。
告別式は、午前10:00から始り1時間後には火葬場に移動し、1時間足らずで荼毘に付された。
今の火葬場は、煙突もない。以前は御前様と一緒に立ち上る煙を見ながら「あの煙が故人が天に上って行く所です・・・・」なんて言われながら見送ったものだった。これも見送りの趣きがあった気がした。それにね、ゴー!と強い火力の音がしてたまらない切なさを感じたけれど、今は全く音がしない。葬儀場も、火葬場も出来たての新しく機能的な建物だった。
92歳で身体もすっかり小さくなった母の身体は、お骨も少なく二人でお骨拾いをするのにも、最後の人迄残らないのではないかと、心配する程少なく軽かった。
頭蓋骨も紙の様な薄さになってしまっていて形も成していなかった。
だんだん母の形は無くなり、骨壷が大きすぎる程の量になってしまった。92年の人生の残った物は記憶と、少ないお骨に変わり、私の頭の中は無機質な感覚に変わって行った。
僅かな時間で、変わり果てたその速度が早過ぎて気持ちが付いて行けなかった。
原っぱを挟んで自宅やビニールハウスが見える。墓地から二人で自宅を眺めて下さい。
この辺を里山と表現する人もいる
その足でバスに乗り込み、自宅の見渡せる地元の共同墓地に納骨に行った。広い原っぱの中に小高く造った墓地へ向かう様子、野辺送りの雰囲気
読経の後納骨
丸いのが両親の骨壷 ↑
墓地はお盆になると、幼馴染などと再会する楽しい場所でもあった。
三年半前に先に入って待っていた父の隣に、静かに並べられた。嬉しそうに思えた。
お線香を上げて、再びバスに乗って葬儀場に帰り精進落としをゆっくりした。兄は前夜のお通夜のご挨拶に「私の母はこれと言った趣味の無い人だったけれど、お喋りが大好きで、何時も近所の人達と楽しく話していました。家では寡黙な父を相手に朝から晩までお喋りばかりしていました」なんて挨拶に入れていた。精進落としの際には、親戚代表挨拶がやはり「お喋りが大好きな人だった」と。本当に話相手がいてくれて、の皆さんに感謝です。何をそんなに話したいのか?、二代目お喋り好きも真似が出来ない。
でも楽しそうだと言われれば、嬉しい。多く皆さんにご足労いただき、全ての予定は滞りなく終わった。
本当に皆さん有難うございました。こんなに大勢で送って頂ける葬儀と言うのは、今後はなかなか無いかもしれない。
※写真は娘、息子からの提供
しかし田舎では、親戚や隣近所の皆さんが、一大事の時は、ここぞとばかり連携力を発揮して呉れて、兄を支えてくれた。私など出る幕は無い。言われた儘動いているだけだった。
告別式は、午前10:00から始り1時間後には火葬場に移動し、1時間足らずで荼毘に付された。
今の火葬場は、煙突もない。以前は御前様と一緒に立ち上る煙を見ながら「あの煙が故人が天に上って行く所です・・・・」なんて言われながら見送ったものだった。これも見送りの趣きがあった気がした。それにね、ゴー!と強い火力の音がしてたまらない切なさを感じたけれど、今は全く音がしない。葬儀場も、火葬場も出来たての新しく機能的な建物だった。
92歳で身体もすっかり小さくなった母の身体は、お骨も少なく二人でお骨拾いをするのにも、最後の人迄残らないのではないかと、心配する程少なく軽かった。
頭蓋骨も紙の様な薄さになってしまっていて形も成していなかった。
だんだん母の形は無くなり、骨壷が大きすぎる程の量になってしまった。92年の人生の残った物は記憶と、少ないお骨に変わり、私の頭の中は無機質な感覚に変わって行った。
僅かな時間で、変わり果てたその速度が早過ぎて気持ちが付いて行けなかった。
原っぱを挟んで自宅やビニールハウスが見える。墓地から二人で自宅を眺めて下さい。
この辺を里山と表現する人もいる
その足でバスに乗り込み、自宅の見渡せる地元の共同墓地に納骨に行った。広い原っぱの中に小高く造った墓地へ向かう様子、野辺送りの雰囲気
読経の後納骨
丸いのが両親の骨壷 ↑
墓地はお盆になると、幼馴染などと再会する楽しい場所でもあった。
三年半前に先に入って待っていた父の隣に、静かに並べられた。嬉しそうに思えた。
お線香を上げて、再びバスに乗って葬儀場に帰り精進落としをゆっくりした。兄は前夜のお通夜のご挨拶に「私の母はこれと言った趣味の無い人だったけれど、お喋りが大好きで、何時も近所の人達と楽しく話していました。家では寡黙な父を相手に朝から晩までお喋りばかりしていました」なんて挨拶に入れていた。精進落としの際には、親戚代表挨拶がやはり「お喋りが大好きな人だった」と。本当に話相手がいてくれて、の皆さんに感謝です。何をそんなに話したいのか?、二代目お喋り好きも真似が出来ない。
でも楽しそうだと言われれば、嬉しい。多く皆さんにご足労いただき、全ての予定は滞りなく終わった。
本当に皆さん有難うございました。こんなに大勢で送って頂ける葬儀と言うのは、今後はなかなか無いかもしれない。
※写真は娘、息子からの提供