過日発売された小林賢太郎プロデュース公演#3「PAPER RUNNER」のDVDを、ようやく腰を据えて観ることができました。
わたくしの感想をひとことで言うなら「納得」です。
KKP#2「Sweet7」と第14回公演「STUDY」を経て、KKP#4「レンズ」に到る前。
そこに位置する作品として、とても納得のゆく内容に思えました。
とりわけKKPとしては、回を重ねるごとに表現形式と構成を模索してゆく、その軌跡を顕著に示す過渡的な作品のように感じられます。
断章形式の棄却、メタフィクショナルな構成、磨き上げたデフォルメ-ション、セルフオマージュを取り込んだ小様式、中心的人物の客演・・・・・
「Sweet7」から課題を抽出し、新たにそれをクリアしていったのではないかという印象を受けます。
そうやって生み出した「PAPER RUNNER」の、さらにそこから課題を抽出して、それをクリアすべく別の形に結実させたもの、それが「レンズ」ではなかったか、と。
今回の「PAPER RUNNER」映像を観て、表面的にはどうあれ「レンズ」は現時点のKKP公演の中でもっとも完成度の高い作品なのではないかという個人的確信が強まりました(笑)。
ここでは具体的内容には触れませんが、この「PAPER RUNNER」、なにがしかのモノ、なにがしかの創作物を生み出したことがある人間には、心に響く部分の大きい作品なのではないかと思えます。
作り手の視点で観るか、受け手の視点で観るか、あるいはその両者の視点を持てるか、それによって大きく評価の変わってくる作品なのではないでしょうか。
生で観られなかったのが心残りです。
わたくしの感想をひとことで言うなら「納得」です。
KKP#2「Sweet7」と第14回公演「STUDY」を経て、KKP#4「レンズ」に到る前。
そこに位置する作品として、とても納得のゆく内容に思えました。
とりわけKKPとしては、回を重ねるごとに表現形式と構成を模索してゆく、その軌跡を顕著に示す過渡的な作品のように感じられます。
断章形式の棄却、メタフィクショナルな構成、磨き上げたデフォルメ-ション、セルフオマージュを取り込んだ小様式、中心的人物の客演・・・・・
「Sweet7」から課題を抽出し、新たにそれをクリアしていったのではないかという印象を受けます。
そうやって生み出した「PAPER RUNNER」の、さらにそこから課題を抽出して、それをクリアすべく別の形に結実させたもの、それが「レンズ」ではなかったか、と。
今回の「PAPER RUNNER」映像を観て、表面的にはどうあれ「レンズ」は現時点のKKP公演の中でもっとも完成度の高い作品なのではないかという個人的確信が強まりました(笑)。
ここでは具体的内容には触れませんが、この「PAPER RUNNER」、なにがしかのモノ、なにがしかの創作物を生み出したことがある人間には、心に響く部分の大きい作品なのではないかと思えます。
作り手の視点で観るか、受け手の視点で観るか、あるいはその両者の視点を持てるか、それによって大きく評価の変わってくる作品なのではないでしょうか。
生で観られなかったのが心残りです。
私にはどうも、小説にしろ映画にしろ芝居にしろアートにしろ、創作物はつい作り手の意図を読み解くような視点で構造を分析してしまうという習性があるのです。
学生時代に物書きをしていたのと、サイエンティストのはしくれとしての習慣が混ざり合った結果だと思われます。
元々がそんなですから、視点としては作り手7割、受け手3割、といったところでしょうか。観客としては相当に変わった見方をしているはずです(笑)。
この「PAPER RUNNER」、作り手が意図したものごとはきれいに描けているような感触を受けます。ノルマは枠の中にきっちり収まり、想定課題はクリアされた、そのような構造上の「良く出来ている感」を私は感じるのです。
ただ、じゃあこの作品が大好きか、と訊かれると実はそうでもない(^^;。
なので、あとは好みの問題なのかな、と思った次第。
とりあえずは決してけなされるような内容では無いと個人的にはそう思っています。
ちなみに例の読者論、私はけっこう共感しました。
指輪物語が映画化されたときに巻き起こった映画批判現象に戸惑ったこと、そして、ボルヘスの「読者の錯誤の論理」という評論を読んで感心したことを思い出しました。
批判と批評は別物だと思うのです。
辛口でも批評は作者の役に立ちますから。
しかし論拠の明確な批判ならまだしも、立脚点のあやふやな、的外れな批判にはどうにも戸惑います。
戸惑うけれども、そういった批判にあふれているのが世の中です。
そう考えると実は人間って、隙あらば何かを批判したい生き物なのかもしれませんね。
理だけでは計れない、人間、だから不思議で面白いのでしょうか(笑)。
作り手7割受け手3割とは!それでしたら例の読者論も共感されたこと、合点がいきます。
それでも分析と評価(好み)は別ですよね。そこも知りたかったのです。大好きだったらどうしよう、カタイヌだったらどうしようと思っていたので。(別にどうもならないのですが・・・)
ところでボルヘスの論議のエッセー、図書館で読みました。たった8ページなのに難しくて合わせて1ページ分くらいしか理解が覚束なかったですが、読者のことを書いていつつ最終的には作者の姿勢のことを書いているように読めました。全く大筋に関係のない「修辞学の起源が裁判にあり、抒情詩の起源が音楽にある」という豆知識に目がいってしまいました(苦笑)。
じつはボルヘスの評論、5年も前に読んだきりなのでかなり記憶が胡乱です(^^;。
「無限の言語」と「論議」のどちらに入っていたか忘れてしまっていたんですが、「論議」のほうでしたか!
たしか、セルバンテスを引き合いに出して、文章表現の巧拙だけで作品を評価することのナンセンスさを論じていた部分がありましたよね。「ドン・キ・ホーテー」が読み継がれているのは、文章表現(修辞)が素晴らしいからではなく、その描いている内容が秀逸だったからだ、といった論旨だったと思うのですが、それが目からウロコで感心したことだけを妙にはっきりと憶えているんです(笑)。
この機会に読み直してみたいと思います。
ところでこのボルヘスというお方、圧倒的な博識を誇り、文章のいたるところに博覧強記のネタをちりばめておられます。ところがどっこい、いかにも意味深に配置した記述が冗談だったり、逆に、いかにもどうでもよさそうに書いたことに深い意味があったり、かと思うと深遠な哲学的幻想を紡いでいるような顔をしながらマカロニウエスタンばりのガウチョ仁侠ものが大好きだったりと、とにかく余人にははかり知れない文学者なのです。読んでいて翻弄されること多々(笑)。
それでも(いや、だから?)、このお方の紡ぎ出す、くらくら感に満ちた作品は個人的に大好きです。
ラーメンズの初期作品(「時間電話」など)に通じるものがあるかもしれません(笑)。
不思議なクラクラ感がお好きな方には「バベルの図書館」「アレフ」「八岐の園」などがおすすめです(^^。
興味があったらぜひどうぞ。(←布教活動:笑)