はざまの庵

分類し難い存在を愛でる覚え書き by aiwendil お気軽にコメントをどうぞ。

3月11日とその後。

2011-04-10 23:51:00 | 日記・エッセイ・コラム

長らく放置しておりました。
発災により各方面の方々にご心配をおかけしていたかもしれません。
本震時は震度6強の内陸地域に居りました。
自宅内部は悲惨な有様でしたが、幸い建家には被害が無く、家族共々無事でした。
7日の余震時は震度6弱。
再び室内被害を受けましたが、建家被害はありませんでした。

内陸地域であったため、地震による被害はインフラ等に集中していて、命の危険はほとんどありませんでした。
地震前の状況までとは決して言えませんが、内陸部では着実に生活インフラが復旧しつつあります。
一方で、沿岸地域の状況は想像を絶するものがあり、職場でも身内を亡くされた方が複数います。
加えて、原発事故に起因する様々な不安憶測が実生活にも影を投げかけています。

どうやら内陸地域の災害対策は、地元の復旧対応から被災者受け入れ対応にシフトしてきているようです。
余震の影響で新たな復旧作業も発生したでしょうが、内陸地域は今後、最前線である沿岸地域の後方支援基地として機能してゆくのではと思います。
色々な業界が、多くの人達が、様々な影響を受けました。
出来事の無情さと人間の強さ弱さ、人の愚かさ温かさが身に滲みた日々だったと思います。
今できることは何か、すべきことは何か、ということと冷静に向き合わされた日々でもあったと思います。
学んだことも数多くありました。
どんな時でもいたわりを持てる人は必ずいるということ。
つながりが人を支えるということ。
善意は搾取されやすいということ。
極限状態下ではその人の本質が露呈するということ。
世界は人間の都合では動いていないということ。
近代の暮らしは案外脆弱だということ。
暮らし方を根本から見直さねばならない時期にあるということ。
乾物は素晴らしいということ。
お風呂はとても贅沢なものだということ。
他愛も無いことから重大なことまで、様々な気付きがありました。
twitterで暖かい言葉、暖かい申し出を複数いただいたことにも感激しました。
このような状況の中ですが、色々なことに感謝しています。

以下、自分の経験を時系列順にだらだらと。


3月11日(金) 職場で被災。携帯エリアメールの緊急地震速報直後に揺れが発生。短い初期微動の後に東西方向の強い揺れが数分続く。窓から見える外の風景の中で電柱が揺れてしなっているのが見えた。折れるのではないかと懸念したが折れはしなかった。(後に外回りから戻った同僚に、トランスやコンデンサが落ちていた、との話を複数聞いた。)職場内は意外に被害が少なかったが、場所によっては事務机が倒れかかり、キャビネットの間にはさまれそうになった人もいた。机の引き出しが飛び出して床に落ちたり、キャビネットの上の書類が総崩れになったりした。給湯室では冷蔵庫の上の電子レンジが落ちてクラッシュした。私の机は存外に被害が少なく、ブックエンド代わりに置いていた分厚い六法が落ちてファイルが崩れただけで済んだ。意外にも、コップやマグカップの類いは全く倒れたり落ちたりしなかった。揺れが収まったところでテレビをつけるが写らない。携帯に届いた地震速報メールを見ると震度6強。近隣の栗原市では震度7。速報値を告げて非常配備体制に入るが、停電と余震で一旦屋外へ退避。非常口のコンクリ基礎と地面との間に大きな段差と亀裂が生じている。周囲がガス臭い。アスファルトにも至る所に亀裂が生じている。車のラジオから情報収集を試みた上司が「6mの大津波警報だって!」と慌てた様相で車を横付け。余震は続く。そうこうしているうちに、外回りから戻ってくる同僚が数名。ホテルのロビーでシャンデリアが落ちてきた、ガラスが割れた、受水槽に上っていて死ぬかと思った、信号が止まっていた、古川駅の新幹線高架からパイプが落ちて車がつぶれている、電線が切れている、電柱からトランスが落ちていた、橋がズレて通れない場所があった、マンホールが浮き上がっていた、道路がガタガタだった.....生々しい報告の数々。
職場建物は大丈夫そうなので、戻って復旧作業にあたる。落ちたものを片付け、引き出しを戻す。室内は停電から自家発電に切り替わっており、非常照明が点灯している。しかし情報が無い。非常電源から延長ドラムを引っぱってテレビをつけるが、アンテナがやられたらしく地デジが映らない。誰かが非常配備用のラジオを持ってきて、それを情報収集の手段に使う。受水槽の水があるうちは水が出るが、当然断水も予想されるので、皆で水の汲み置きに奔走。自家発電もいつまで持つかわからないため節電の呼びかけ。一息ついたところで1台だけパソコンを非常電源に繋いでみる。ネットは繋がるものの、遅い。しかも情報は限られる。加えて、職場システムのアクセス制限でtwitterなどへはアクセスできない。沿岸部にも同僚が多数いる。自宅が沿岸という同僚も複数。皆、気が気ではない。携帯メールで家族と友人には連絡がついた。通話はかなり制限されている。仙台へ出張中の後輩と連絡を取ろうとするも繋がらない。上の階の人が青ざめた顔で「上司がけがをしたので救急箱をください」とやってくる。次第にただ事ではない状況が明らかになってくると、上司が皆のデスク内の備蓄食料を供出依頼し、全員にカロリーベースで均等配布。しばらくこれで食い繋げ、との指令。
次第に外が暗くなってくる。近場の人は一旦帰宅し、自宅から毛布やキャンプ用品、米(30kg入り玄米数袋!)や野菜を持ってくる人が続出。精米機や1升炊きの炊飯器も調達。これから泊まり込みで災害対応支援にあたるはずだと社員一同わかっているので、とにかく何でも自己調達。農村地域万歳。
夕方になってから、携帯充電器があったのを思い出す。携帯一台を繋いでワンセグを見る。コンビナート火災など憂鬱なニュースが続々と流れる。
暗くなって動き回れなくなったため、皆で電源周りに集まって毛布をかぶる。
とにかく寒い。ひとまず3交代で当直することになった。
携帯からtwitterで情報収集するが、わかったのは首都圏が存外に大変そうだということと、福島原発が不穏な状況だということが主。沿岸部状況が知りたかったが、いまひとつ。最悪を想定して内心暗澹たる覚悟を決めた。
余震が続く中、3時から6時まで断続的に落ち着かない仮眠をとった。夢は見ていない。

3月12日(土) 職場内焚き出し隊によるおにぎり。シンプルな塩おにぎりがこの上なく美味しく感じた。
朝9時頃、携帯が通じなくなる。基地局の自家発電燃料又はバッテリーが切れてしまった模様。
いつ切れるともわからない自家発電と水に戦々恐々としながら引き続き情報収集。災害対応のためのガソリンを入手するのが急務となり、ガソリン給油隊が組織される。この頃から深刻なガソリン不足を認識。小売り店舗も開かないため食料入手の難しさも懸念。
そんな不安いっぱいの中、ふと空を見ればこの上ない快晴。ヒバリが陽気にさえずり、トビが空を悠々と旋回していた。地震や津波でこんなに大変なことになっても鳥は関係ないんだなあ、と、むしろ困っているのは人間だけなんだなあ、と複雑な気持ちになった。この時の光景と心象が今も心に焼き付いて離れない。
役に立たない地デジテレビに業を煮やし、アンテナジャックを引っこ抜いて針金を繋いでアナログ波をつかまえた。画質は悪いがちゃんと映る。アナログ波は止めてはいけない、と心底思った。
その後、細々とした雑務が続き、忙しかった。石巻方面への先遣隊が組織されたり、職場に帰れなくなった他支店の同僚たちがやってきたり。携帯が通じない状況下では口づての情報が頼り。外に出た人達から通行止め箇所を聞き、アナログ地図に落とし込んで配布したりした。
夕方になると、仙台出張組がどうにかこうにか帰ってきた。国道4号線は大渋滞。信号も消えている。唯一ミヤコーバスが朝から古川―仙台間で不定時ながら定期運行していて、日常をつなぎ止めているらしい。すばらしき宮城交通。
この日は、帰れる人は一旦自宅へ帰ることになった。
何とか日没前に同方面在住の同僚を車に乗せて家に向かう。途中、道路が割れて片側が崩落していたり、橋と道路の継ぎ目に数十cmの段差ができたり、歩道が崩落していたり、道路が陥没していたり、川の堤防が崩落していたり、家が潰れていたり、ブロック塀が倒れていたり、橋が崩落しかかって通行止めになっていたり、様々な被害が生じているのが見受けられた。主要国道は渋滞がひどく、迂回が必要なところもある。土地勘が無いと運転はつらいだろうなと思った。
家は停電と断水。幸いプロパンガスは健在。書庫の本棚が壊滅状態。テレビやHDDレコーダーは空中ダイブしたらしい。食器棚が倒れたり、食器乾燥棚、調味料入れが落ちたりした。気に入って使っている食器ほど壊れるの法則は健在。寒いのが幸いして、冷蔵庫内の食料はほぼ無傷。冷凍品はまだ大丈夫。パーシャル冷凍状態になってきたら職場へ寄付することにした。
普段から貯食行動に走っているので、乾物類やレトルト、出汁類には事欠かない。水の汲み置きもたくさん。米も農家さんから直接売ってもらった玄米が一袋(30kg)あるので困らない。お歳暮でもらったりんごジュースが売るほどあって助かった。
反射式ストーブはあるものの、灯油が入手困難の様相を呈していたので使用を控える。ガスコンロでみそ汁とごはんを炊く。
幸いランタンと懐中電灯があったので最低限の明かりは手に入った。しかし、ラジオが無いため情報が手に入らない。
ワンセグで原発関連の不穏なニュースを見るが、電池が勿体ないのでそれもすぐに止めた。
寒いのと情報が無いのが一番困った。
ほんの100年前までは電気も水道もガスも下水もない生活ができたはずなのに、今となってはそれらが「生命線」になってしまっているこの状況。
決定的な出来事に思えた。日本と世界にとって決定的な転換点。エネルギー施策や暮らし方が根本的に変わるだろうことを予感した。
暗く、通信手段も無い中では何も出来ないので早々に就寝。服を着たまま落ち着かない眠りについた。
ランタンや懐中電灯など今回役立っているグッズは、ほとんどが昨年8月に富山遠征車中泊のために買い求めたもの。発電所美術館で開催されたヤノベケンジさん関連の展覧会「MYTHOS」展を観るために決行した遠征だった。黒い太陽と大洪水。ヤノベさんの作品世界が現実になってしまったようで、どこかざわざわした複雑な心境になった。
はたして虹のふもとにたどり着く日は訪れるのだろうか。

3月13日(日) 日の出とともに目が覚める。ヒバリの陽気な声。防災無線で給水情報が流れているが、災害対応に関与していると並ぶことすら出来ないのが悲しい。
しかし、ごはん、みそ汁が食べられるだけ有り難い。
同僚を拾って出勤。この日は情報収集の外回り組に加わる。土地勘を活かしてあちこちを回る。通信手段も電気も無い中で、皆が不安を募らせていた。今目の前にあることを、できることをがんばりましょうと互いに励まし合う。
どこでも水とトイレが問題になっていたし、通信手段とガソリンがないことが決定的に状況を深刻化させていた。
道路では信号機停電に加えて給油待ちで渋滞が発生。
次第に明らかになってゆく沿岸部の深刻な被害。知っている場所、深く関わった場所が見る影も無く変貌しているのを報道で目にする。現地には行けないのがもどかしく、つらい。
この時期のことは、宿直と当直が不定期で繰り返されたため、記憶が曖昧。

3月14日(月) 食事はごはんとみそ汁、青豆。出勤。自宅冷凍庫から解凍されそうな肉類を職場へ供出。
電気の復旧が西側から進んでいることを聞く。自家発電が切れるのが早いか、電気復旧が早いか。受水槽の自家発ポンプが止まれば水が出なくなる。皆であわてて再度水の汲み置きにいそしむ。昼過ぎに、職場の自家発電があと10分で切れる、とうとう孤立か?というところで劇的な復電。同僚らから歓声が上がる。このころから携帯の電波状況が回復しはじめる。
当直。相変わらず寒い。

3月15日(火) いつから始まったか覚えていないが、深夜早朝に救援物資搬送の手伝いが続く。我々も欲しいねえなどと冗談にならない冗談を言い合いながらの作業。基礎代謝量の高い方々は相当ひもじい思いをしていたようだ。そんな中、届いた生米に非難囂々。米だけは有り余っている土地柄だけに洒落にならない。すぐ食べられない食料は支援物資として受け取ってもらえない可能性。ミスマッチ。薪と釜をセットにして送ってくるならまだしも、電気もガスも無いところで米をもらっても困るのでは?と話題に。生米は薪と釜、ガス釜とプロパンガス、自家発電装置と燃料と電気釜をセットにして沿岸部に送るのが妥当。
寝ない、食べない、が続いたせいか昼頃に貧血を起こして一時間ほどダウン。
細々とした雑務と情報収集が続く。前例のない事態に様々な問題も発生。力技で調整すること多々。情報共有の重要性を改めて思い知る。
この日は帰宅。ガソリン給油ができないので戦々恐々のエコドライブ。
みそ汁と豆とごはんで夕飯。
自宅は未だ携帯圏外。この日も早々に就寝。

3月16日(水) 早朝に携帯メール受信。不安定ながら断片的な電波が入ってくるらしい。基地局復旧が近づいていることに希望を感じる。
石巻との職場内定期便が発足。蛇田地区までの冠水、三陸道を越えての水田への海水流入に唖然。石巻の同僚が自衛隊に救出された話、場所を変えて石巻にとどまって仕事をしている話を伝え聞く。
ガソリン不足は相変わらず。少しづつ営業開始する商店も現れる。しかしどこでも長蛇の列。
帰宅してみると自宅も携帯圏内に復帰していた。通信が出来ることに大きな安堵を覚える。
この日は遅くまで主にtwitterでもろもろを情報収集。おかげでここ数日の世の中の動きを何となく知ることができた。

3月17日(木) 気温計が外気温マイナス4℃を示す朝。三月も後半だと言うのに雪が降っている。職場のテレビではひっきりなしに原発事故のニュース。上層部が影響を懸念しはじめる。原子力技術のことはわからないが、放射線医学やRI取扱者講習の知識を総動員し、状況を解説。技術者集団としての役割を改めて意識。こういうときだからこそ技術者の出番なのだと実感する。情報収集と知識更新につとめる。
帰宅してみると自宅も復電していた。蛍光灯の明るさに改めてありがたみを覚える。おそるおそる家電類に通電し、動作確認。意外にもテレビは生きていた。
電気膝掛けを掘り出す。水はまだ使えないが、凍えなくて済むのがとにかく嬉しい。

3月18日(金)ガソリン不足がますます深刻化。通勤すら怪しくなる同僚が続出。リッター制限で満タンにできないためか、ガソリン行列は一向になくならない。働いている限り給油はほぼ不可能なので、自分の車への給油は諦める。最悪10キロの自転車通勤を覚悟。幸い家人の車は災害前日に満タンになっていたので心理的な余裕があった。
職場近くの商店が開いているらしいと聞き、昼休みに並んでみる。炊き出しに使えそうな食材を入手。職場ではそれぞれが食材調達に奔走していて、実家で養鶏場を営む同僚が卵をケースで持ってきて皆の喝采を浴びていたりした。
贅沢だとはわかっているものの、牛乳が飲めないことに相当のストレスを感じる。酪農家が泣く泣く原乳を廃棄しているという話や、無料配布していると言う話も耳に入るが、ガソリンが無いためどうにもならない。
自宅では高野豆腐や油麩、豆類が大活躍。乾物って素晴らしい、と再認識。

3月19日(土) 当直。炊き出しに終始。

3月20日(日) 当直明け。震災後初めての休み。石巻の同僚へ食料を届けに行く。三陸道付近は水がだいぶ引いていた。帰りに産直市場で手売りの野菜を入手。店頭で焼いている加工肉類も手に入れた。ホームセンターやドラッグストアも部分的に営業。室内片付け用の段ボールを手に入れる。ひょんなことから給油も出来た。
地域に悲壮感はなくなってきたのを感じるが、唯一、ガソリンだけがやはりどうしても足りない。買い物では殺気立たないが、給油に関してだけは皆ピリピリしているのを感じる。

3月21日(月) 祝日で休み。ようやく自宅の片付け。本棚は復旧不能。段ボールに詰めて積み上げる。本棚を買わないと片付けられない。

3月22日(火) 出勤。次第に忙しくなってくる。出先で昼になり、限定メニューで営業している飲食店を見つけてラーメンを食べる。久々の外食。感無量。

3月23日(水) 出勤。やたら忙しかった。この頃から当直人員が縮小される。

3月24日(木) 出勤。予定外の業務が複数重なってなかなか帰れず。

3月25日(金) 朝、自宅の蛇口からかすかに水が出た。水圧微弱のため試験通水と思われたが、明らかな復旧の兆しに希望を感じる。
帰宅後も同様の状況だがわずかに水量は増えている。漏水箇所が多いための水圧低下と判断。水道の復旧に喜ぶ。しかし、給湯器が深刻なダメージを受けたらしく、給湯復旧の目処は立たず。近隣の温泉施設が営業再開するらしいと聞き、希望を託す。

3月26日(土) 休日。近隣の温泉施設へ。やっとのお風呂。洗い場に長蛇の列。

3月27日(日) 出勤。24時間当直。

3月28日(月) 当直明けの休日。食材と牛乳を求めてスーパーをハシゴ。全国チェーンの大型店は長蛇の列ができている割には品薄で欲しいものが手に入り難い。一方で、地元密着型のローカル店は並ばずに入れて品揃えも豊富だった。中でも、農協直営スーパーの牛乳充実ぶりはさすがとしか言いようが無い。
17日ぶりのカフェオレを飲む。感無量。

3月29日(火) 出勤。忙しい。夜に近隣の温泉施設へ。

3月30日(水) 出勤。忙殺。

3月31日(木) 出勤。容赦無い年度末。慌ただしい。日本気象学会の件で疑心暗鬼。

4月1日(金) 出勤。新年度。予想された混乱は無く。夜に給油の旅へ。1時間待ちで満タンに出来た。ガソリン事情は相当に改善。

4月2日(土) 休日。お風呂を求める旅へ。混雑を避け方々を回るが、結局は芋洗い。

4月3日(日) 休日。腰痛にヘルニア再発の予感。SPEEDIに関する報道に怒り心頭。日本気象学会の件もあるので、この日から海外メディアのニュースサイトを見るようになった。

4月4日(月) 代休。買い出しへ。スーパーは近日中に夜8時までの営業に戻るらしいことを知る。勤務後に買い物可能な環境回復の見通しに安堵。ガソリンは待ち時間無しで満タンに。灯油も上限18Lで購入可能。燃料需給は完全に正常化した模様。

4月5日(火) 出勤。足先に痺れ。嫌な予感。

4月6日(水) 出勤。腰痛と痺れが続く。夜に近隣の温泉施設へ。腰痛緩和。

4月7日(木) 出勤。帰宅後、深夜に震度6弱の余震。再び停電、断水。被害そっちのけで職場へ舞い戻る。再び自家発電装置稼働。今回は情報が少ない。テレビ局の報道もおざなりで、NHKですらすぐに大リーグ中継に戻ってしまった。民放ならいざ知らず、あんまりな扱い。そのまま朝まで緊急待機。

4月8日(金) 待機明け。朝から緊急出動が続く。信号は軒並み消えていて、国道4号線は大渋滞。せっかく補修された道路も再びひび割れ、あちこちに段差や陥没が。電柱も傾く。若柳方面の被害は甚大。フィールド調査で消耗ピーク。夕方には待機解除。帰宅。給湯器修理の予定が流れ、落胆。暗く寒い中、早々に就寝。

4月9日(土) 休み。明け方に復電。予想外に早い復電に喜ぶが、朝から体調不良。流れたと思っていた給湯器修理の業者さんが一日遅れで訪問。機器修理は完了したが、水圧不足のため動作確認はできず。業を煮やして鳴子温泉へ遠征。湯治。いろいろほぐれた。帰宅してみると水圧が若干回復していた。

4月10日(日) 休み。水圧がある程度回復。やっと蛇口からお湯が出た。1ヶ月目にしてようやくライフラインが完全復旧。感無量。
しかし、沿岸部との落差は依然大きい。複雑な心境。


このとおり、今日、ちょうど一ヶ月でライフラインが完全復旧したところです。
今後もおそらく余震が続くでしょう。
停電断水に逆戻りするかもしれません。
沿岸支援も長丁場になることでしょう。

震災前の6日にはちょうど女川を訪れていたばかりでした。12日にも訪れるつもりでしたから、発生日が1日ずれていたら完全に巻き込まれていたと思います。
野蒜の海岸線で、仕事で48時間調査にあたったこともあります。
家人は福島の出身ですし、同僚には旧大熊町の出身者もいます。
他人事ではない、というのを肌で感じています。
大枠で見れば被災の当事者のはずですが、沿岸部や福島の状況を知るにつけ、自分は当事者とは言えないのでは?という想いが消えません。
まだまだ何かを語れる状態にはない、というのが本当のところです。
しかしながら、発災から一月と言う区切りと、ライフライン完全復旧という区切りが重なったこの機会に、忘れ得ないはずだけれどいつか忘れてしまうかもしれない日々の記録をここに記しておこうと思います。

被災したすべての地域、とりわけ沿岸部とそこに暮らす人々が一日も早く生活を取り戻せるよう切に願って止みません。
また、願うだけではなく、できることをできる限りやってゆきたいと考えています。
長い道のりです。直接間接問わず、無理なく息の長い手当てを続けてゆきたいです。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
冷静に記録する余裕があるのは、インターネット時... (時雨)
2011-04-11 08:31:30
冷静に記録する余裕があるのは、インターネット時代だからでしょうか。スマートフォンに記録するのはいいのだけれど、電池が持たない、という声が多数聞かれました。だいたい二十四時間くらいで、電源が落ちるようです。
電気依存の社会になると、さすがにうすら寒いですね。高層マンションの夏場なんて・・・考えるのも怖いw
ご無事で何よりだと思います。なくなった方を考えると、依然として気が重いのですが。
返信する
ご無事でなによりでした。 (mog)
2011-04-12 00:54:13
ご無事でなによりでした。
それにしても今回の災害の惨さには心底人の無力さを思い知り、また人の心の不屈さに打たれました。
お体くれく゜れもご自愛ください。
返信する

コメントを投稿