8月も終わりました(既に9月3日です)。
学校などでは2学期制に変更するところがあって、その場合夏休みが1週間程度短くなるとか・・・その場合は夏休みが1週間程度短くなるらしい。
それでは秋の半ばに1学期と2学期の境目が来て、秋休み(皆でどこかへ出かけましょう?)が3,4日あるかと思ったら・・・そうではなくて授業が年間で20数時間増えるのだそうで・・・なんだか生徒にとっては良いことだけでは無さそう・・・
こういう事でその筋から当の生徒たちに「A案ではこう、B案ではこう変わる」というアンケートとか、投票って無いですね。
前提として「良かれ」と言う立場の改革案ですから、よくも悪くも?相変わらず「黙って従いなさい」調です。
自分自身が子供だったら、どう感じたでしょうね?
子ども時代に戻って想像しようとするのですが、想像することも難しくなっている・・・それだけ年をとったのでしょう・・・自分が子供だった頃もあったことを思い出せないみたいな。
自分の性格から言うと、最後の1週間は夏休みと言っても、休み疲れていると言うか夏休みの課題が気になるので、無くてもいいかな・・・もっともその分その前の1週間にラストスパートがスライドするだけですが。
今では夏休みとは縁が無い年でして・・・イヤ勤務形態が夏休みとは縁が無い。 年休はたくさんあるので、周りの都合を見ながら休めるので文句は言えませんが、盆暮れ、年明けなど人様が休みのときにやや休暇が短いかな。
ところで、今年の夏はオリンピックなどがあってなんとなく長かったような、アッと言う間だったような変な夏でした(今年は特別?)。
あるタレントさんによると、人間は経験したことの繰り返しは時間の経過を早く感じ、経験が無いことに接していると長く感じるのだそうです。
ですから年をとると、経験済みの事ばかりですから1年などすぐに過ぎてしまう・・・『あわれ、今年の夏(秋)もいぬめり』今年も去年と同じと感じていればその年は早い。
「また、今日も昨日と同じ」で、日記帳の2ページ以降は「〃」で済んでしまう?
そういうことの繰り返しで、あっという間に年をとる・・・いや、年をとっていると速くなる。
逆に子ども時代は、未経験なことを一杯体験するから、周りをきょろきょろしている感じで、時間も長い。
ということは、年をとっても常に新しいことをやっているとか、興味・好奇心の幅を広げてゆくなら、1年もそれ相応の長さに感じるでしょう。
逆に「どうせ人生なんて、毎年同じことの繰り返しに過ぎない」と思ったらドンドン老化のスパイラルに陥りそうです。
さて私の場合「長かったような、短かったような」という、半端な部分があるだけ多少救われるところがあるかもと思いたい。
そして、囲碁のザル的理解・解釈で言うと、毎局毎局似たような碁を飽きもせずに・・・と感じるか、毎局どこかに初めての部分を感じ、少しでも新鮮なことを感じるかどうかで随分違うような気がします。
囲碁で言うと、二つの大きな柱があるような気がします。
(私にとって)一つは「形」、これは幅広いですが、定石とか戦法とか、○○流などと言うものなどで、基本線は自分が打ち慣れた・得意な形をもっと進化させたい。
あるいは、同じ形ばかりでは、マンネリになるし、逆に相手が打ってくるときの対策の勉強のためにも、自分の得意戦法を攻めてみる・・・
具体的には黒番では中国流含みから小林流が一番多い。
これに対する白さんの対策もあるようなので・・・
二つ目は、大げさに言うと「心」でしょうか。
一つ目は黒番に向いているようで、二つ目は白番に向いていそうです。
相手の石をどっしりと受け止められるかどうか、「定石」「形」「戦法」などの知識以上に「心」「気持ち」が大事な気がします。
囲碁で負けるとき、終盤の寄せ合いで負けることもありますがそれは少ない。
中盤の攻め合いで悪くすることが多い、しかも読み不足と同じくらいに、前提となる目線が間違ってたとか、見えてるものが理解できていないとか・・・更に序盤で景気を悪くしていることの方がもっと多い。
読み以前の、目線であったり、視野であったり、ものを見る目・見えているはずのものの認識であったり。
素人ですから、面白ければ良いのですから、こんな肩が凝りそうなことを考えなくても良さそうですが、いろんなことを考えながら打つのも、楽しみとする楽しみ方です。
さて8月はどうやら7勝6敗
実のところ×○××○○××○○○○×ですから、まず負けて追いつくことの繰り返し
何とか現状維持で、自己MAXに半歩のところを徘徊している。
登山ならば、八合目・・・(頂上直下のやや下)の胸突き八丁でもがいています。
頂上に僅かでもにじり寄れるか、足を踏み外して5合目辺りまで転がり落ちるのか・・・この辺りは僅かな差が大きな違いになりそう。
碁盤の内容はともかく、何かの形で緊張感を維持しないといけないですね。
学校などでは2学期制に変更するところがあって、その場合夏休みが1週間程度短くなるとか・・・その場合は夏休みが1週間程度短くなるらしい。
それでは秋の半ばに1学期と2学期の境目が来て、秋休み(皆でどこかへ出かけましょう?)が3,4日あるかと思ったら・・・そうではなくて授業が年間で20数時間増えるのだそうで・・・なんだか生徒にとっては良いことだけでは無さそう・・・
こういう事でその筋から当の生徒たちに「A案ではこう、B案ではこう変わる」というアンケートとか、投票って無いですね。
前提として「良かれ」と言う立場の改革案ですから、よくも悪くも?相変わらず「黙って従いなさい」調です。
自分自身が子供だったら、どう感じたでしょうね?
子ども時代に戻って想像しようとするのですが、想像することも難しくなっている・・・それだけ年をとったのでしょう・・・自分が子供だった頃もあったことを思い出せないみたいな。
自分の性格から言うと、最後の1週間は夏休みと言っても、休み疲れていると言うか夏休みの課題が気になるので、無くてもいいかな・・・もっともその分その前の1週間にラストスパートがスライドするだけですが。
今では夏休みとは縁が無い年でして・・・イヤ勤務形態が夏休みとは縁が無い。 年休はたくさんあるので、周りの都合を見ながら休めるので文句は言えませんが、盆暮れ、年明けなど人様が休みのときにやや休暇が短いかな。
ところで、今年の夏はオリンピックなどがあってなんとなく長かったような、アッと言う間だったような変な夏でした(今年は特別?)。
あるタレントさんによると、人間は経験したことの繰り返しは時間の経過を早く感じ、経験が無いことに接していると長く感じるのだそうです。
ですから年をとると、経験済みの事ばかりですから1年などすぐに過ぎてしまう・・・『あわれ、今年の夏(秋)もいぬめり』今年も去年と同じと感じていればその年は早い。
「また、今日も昨日と同じ」で、日記帳の2ページ以降は「〃」で済んでしまう?
そういうことの繰り返しで、あっという間に年をとる・・・いや、年をとっていると速くなる。
逆に子ども時代は、未経験なことを一杯体験するから、周りをきょろきょろしている感じで、時間も長い。
ということは、年をとっても常に新しいことをやっているとか、興味・好奇心の幅を広げてゆくなら、1年もそれ相応の長さに感じるでしょう。
逆に「どうせ人生なんて、毎年同じことの繰り返しに過ぎない」と思ったらドンドン老化のスパイラルに陥りそうです。
さて私の場合「長かったような、短かったような」という、半端な部分があるだけ多少救われるところがあるかもと思いたい。
そして、囲碁のザル的理解・解釈で言うと、毎局毎局似たような碁を飽きもせずに・・・と感じるか、毎局どこかに初めての部分を感じ、少しでも新鮮なことを感じるかどうかで随分違うような気がします。
囲碁で言うと、二つの大きな柱があるような気がします。
(私にとって)一つは「形」、これは幅広いですが、定石とか戦法とか、○○流などと言うものなどで、基本線は自分が打ち慣れた・得意な形をもっと進化させたい。
あるいは、同じ形ばかりでは、マンネリになるし、逆に相手が打ってくるときの対策の勉強のためにも、自分の得意戦法を攻めてみる・・・
具体的には黒番では中国流含みから小林流が一番多い。
これに対する白さんの対策もあるようなので・・・
二つ目は、大げさに言うと「心」でしょうか。
一つ目は黒番に向いているようで、二つ目は白番に向いていそうです。
相手の石をどっしりと受け止められるかどうか、「定石」「形」「戦法」などの知識以上に「心」「気持ち」が大事な気がします。
囲碁で負けるとき、終盤の寄せ合いで負けることもありますがそれは少ない。
中盤の攻め合いで悪くすることが多い、しかも読み不足と同じくらいに、前提となる目線が間違ってたとか、見えてるものが理解できていないとか・・・更に序盤で景気を悪くしていることの方がもっと多い。
読み以前の、目線であったり、視野であったり、ものを見る目・見えているはずのものの認識であったり。
素人ですから、面白ければ良いのですから、こんな肩が凝りそうなことを考えなくても良さそうですが、いろんなことを考えながら打つのも、楽しみとする楽しみ方です。
さて8月はどうやら7勝6敗
実のところ×○××○○××○○○○×ですから、まず負けて追いつくことの繰り返し
何とか現状維持で、自己MAXに半歩のところを徘徊している。
登山ならば、八合目・・・(頂上直下のやや下)の胸突き八丁でもがいています。
頂上に僅かでもにじり寄れるか、足を踏み外して5合目辺りまで転がり落ちるのか・・・この辺りは僅かな差が大きな違いになりそう。
碁盤の内容はともかく、何かの形で緊張感を維持しないといけないですね。