題の続きは「この世の別れ」となっていて、時代劇などでの闇打ちのシーン、信じている相手に裏切られるシーンでしょうか。
全く予期していない重大な事故に巻き込まれた場合は「アッ!」と言う間があるかどうか・・・
ともかく囲碁では「全く心配していないところを突然切られた場合」、それは読み違いの場合もあるし、相手がその上を行った読みで、密かにタイミングを計っていた場合などに炸裂して「アッと言ったがこの世の別れ」などと大見得を切られて、相手がいい気分になる場面です。
あるいは、完璧な見落としで打った瞬間、相手がニンマリして・・・
アマ・ザルではこういうシーンは珍しくなくて、碁盤を並べて打っている碁会所のようなところでは日に何度も出現しそうな場面です。
尤も、ザル碁ですから切られたらそのまんま地獄参りになるとは限らなくて、斬った方の悪徳侍が地獄に行ったりするから、まことに筋書きの無いドラマが展開されるわけです。
さて最近打った瞬間に「アッ!」と言いたくなるような場面が多くて困っています。
勿論「アッ!」というのは相手ではなくて、打ったほうの私だからだらしが無い
マア、実際には声には出しませんが(もっとも声を出したところでネットですから相手には届かないはずですが・・・)
自分では完璧な悪手では無いと思うのですが・・・
例えば、割合考えた末Aと言う手を打ったとします。
それは、そこまでの流れから言って打ちたくなる手であり、気合から言っても他には行きにくい状況・・・では有るが一旦自分の守備を固めるBという手も捨てがたい。
あるいはCも地の大きさでは馬鹿にならない・・・
そういうことを考えた上でのAなのに、それでも打った瞬間『もしかしたらこれは間違いではないか?』という疑念に支配される。
打ってから悩むのなら、何故その時点で打つのかが問題ではある、それでも
『もし、相手がAに手抜きしてBの方に来たら・・・』
『Bもそれなりに価値のある手で、もしかしたらBに対する折衝で、最初に打ったAがぼかされたりすると殆ど半手パスになりはしないか?』
どうも、悲観論者になってしまいます。
相手が打つまでの間は、無信心の私が神様仏様にすがりたくなるような気持ち
ところがAに相手が受けてくれて、当方の読みどおりだとしても形勢がよくなるかどうかは分からないのが素人の面白さ。
逆に、こちらに手に相手が最強らしく打った手が最善とは限らないから世の中何が起こるかわからない見本みたいなものです。
それでも、最近考えて打ったはずなのに打った瞬間後悔に近い気になったりする。
これは一体なんでしょうね。
もしかしたら、時計シンドローム?=つまり、「あれこれ考えることと」「一定の時間・あるいは時間に制約のあるリズムで打つ事」が別々に存在していて、必ずしも結論に達してから打つのではなくて、ある程度の時間内で打つ習慣。
だから、「決定後」に打っていないので、打った後も迷いが続くみたいな
素人レベルで「これくらい考えれば、マア良いでしょう」というのは無いし、考えればよい手が打てるという考え方そのものも真理ではないでしょうから恐いものです。
考えても「下手な考え」の見本だってあるし、考えなくてもまぐれで最善手が思い浮かぶ時もあるに違いない・・・
しかし「確率的」に考えなくては酷い手の連発でどうなっていくか分からないし、下手な考えでも考えて打てば崩壊しないで打てるのかも知れない。
となると、打った瞬間「アッ」は減っていかなくてはいけないのですが、当分これからも続きそうな気配がします。
全く予期していない重大な事故に巻き込まれた場合は「アッ!」と言う間があるかどうか・・・
ともかく囲碁では「全く心配していないところを突然切られた場合」、それは読み違いの場合もあるし、相手がその上を行った読みで、密かにタイミングを計っていた場合などに炸裂して「アッと言ったがこの世の別れ」などと大見得を切られて、相手がいい気分になる場面です。
あるいは、完璧な見落としで打った瞬間、相手がニンマリして・・・
アマ・ザルではこういうシーンは珍しくなくて、碁盤を並べて打っている碁会所のようなところでは日に何度も出現しそうな場面です。
尤も、ザル碁ですから切られたらそのまんま地獄参りになるとは限らなくて、斬った方の悪徳侍が地獄に行ったりするから、まことに筋書きの無いドラマが展開されるわけです。
さて最近打った瞬間に「アッ!」と言いたくなるような場面が多くて困っています。
勿論「アッ!」というのは相手ではなくて、打ったほうの私だからだらしが無い
マア、実際には声には出しませんが(もっとも声を出したところでネットですから相手には届かないはずですが・・・)
自分では完璧な悪手では無いと思うのですが・・・
例えば、割合考えた末Aと言う手を打ったとします。
それは、そこまでの流れから言って打ちたくなる手であり、気合から言っても他には行きにくい状況・・・では有るが一旦自分の守備を固めるBという手も捨てがたい。
あるいはCも地の大きさでは馬鹿にならない・・・
そういうことを考えた上でのAなのに、それでも打った瞬間『もしかしたらこれは間違いではないか?』という疑念に支配される。
打ってから悩むのなら、何故その時点で打つのかが問題ではある、それでも
『もし、相手がAに手抜きしてBの方に来たら・・・』
『Bもそれなりに価値のある手で、もしかしたらBに対する折衝で、最初に打ったAがぼかされたりすると殆ど半手パスになりはしないか?』
どうも、悲観論者になってしまいます。
相手が打つまでの間は、無信心の私が神様仏様にすがりたくなるような気持ち
ところがAに相手が受けてくれて、当方の読みどおりだとしても形勢がよくなるかどうかは分からないのが素人の面白さ。
逆に、こちらに手に相手が最強らしく打った手が最善とは限らないから世の中何が起こるかわからない見本みたいなものです。
それでも、最近考えて打ったはずなのに打った瞬間後悔に近い気になったりする。
これは一体なんでしょうね。
もしかしたら、時計シンドローム?=つまり、「あれこれ考えることと」「一定の時間・あるいは時間に制約のあるリズムで打つ事」が別々に存在していて、必ずしも結論に達してから打つのではなくて、ある程度の時間内で打つ習慣。
だから、「決定後」に打っていないので、打った後も迷いが続くみたいな
素人レベルで「これくらい考えれば、マア良いでしょう」というのは無いし、考えればよい手が打てるという考え方そのものも真理ではないでしょうから恐いものです。
考えても「下手な考え」の見本だってあるし、考えなくてもまぐれで最善手が思い浮かぶ時もあるに違いない・・・
しかし「確率的」に考えなくては酷い手の連発でどうなっていくか分からないし、下手な考えでも考えて打てば崩壊しないで打てるのかも知れない。
となると、打った瞬間「アッ」は減っていかなくてはいけないのですが、当分これからも続きそうな気配がします。