最近、つくづく思うことがある。
昨夜のテレビで、アメリカだったが「旦那の浮気が許せない」ととち狂った女が、結局旦那を銃で撃ち殺して、10歳前後の子供を二人、「父親殺しの母親」を持つ無残な人生を背負わせ、自分の人生を台無しにしてしまう。赤の他人でしかない「旦那」の浮気など、気にしないか、放っておくか、少なくとも「許せ」ばいい。キリストだって、言う。爾の敵を許せって。敵だって許せと言うのだ。自分の生活を支え、大事な子供の父親なんだから、「敵」より「味方」に近いではないか?
殺された旦那は死んでしまうので、後は知ったこちゃない。女は、自分の手ではちゃめちゃにした人生を牢獄で生きる。それって、性分でしょ。性格というか、感情。
幕末の偉人、西郷隆盛だって、結局、島流しにあったあの島で、藍那だったか、結婚しているのだから、そのまま、島で幸せに暮らしました、と言う人生もあっただろうし、少なくとも明治政府を支えながら、ヨーロッパの視察に加わらなかったので、帰国後の大久保利通ら政権運営者と意見が対立して、明治政府の反対勢力になってしまうのは、なんとも情けない。他に道はなかったのだろうか? 明治政府軍の軍隊に追い詰められる姿は、哀れでしかない。何せ、あっちが大勢で、圧倒的に、こっちは少ない。
政権批判は、時に「社会正義」や「弱者の正義」を追求するが、長続きもしないし、真実はごく一部でしかない。悪い奴ほど、長生きするし、長続きする。それって、不思議じゃないか? 権力を乱用する悪い政府が長続きするとしたら、大衆を統治する政権運営が、理にかなっている事になる。
車や機械は動いてナンボ。故障があれば、ストップするし、治せなければ廃棄処分。政治も同様だ。長続きできれば、社会が動いている証拠だ。それが裏金の買収工作だろうとなんだろうと、人間社会の理にかなっていると考察すべきだろう。悪代官を懲らしめる桃太郎侍は、あくまでも大衆願望の絵に描いた餅。そこでもはっきりしていることは、力がなきゃ、悪者は懲らしめられない、と言う事実。
結局は、「社会正義」とはインフルエンザに近い。