
―山頭火の一句―
大正6(1917)年夏の作か。この頃、当時五高の学生であった工藤好美-英文学者-と知り合い、歌誌「極光」の短歌会に誘われ出るようになっている。
この短歌会には木村緑平の従弟にあたる古賀某もおり、彼は偶々大牟田から訪ねてきた緑平を山頭火に引き合せた。この後の生涯を通じ、困った時の神ならぬ緑平頼み、ともなる山頭火にとってはかけがえのない友であり理解者との邂逅であった。
―表象の森― 島尾敏雄とミホ夫人
先に彫刻の栄利秋さんからOAP彫刻の小径2008展の案内を戴いた折、一枚の新聞記事の切抜きが添えられていた。
紙面は南海日日新聞の3月27日付、「思い出の地で安らかに」の見出しに「呑之浦で島尾さん墓碑除幕」と副見出し。
故島尾敏雄の妻ミホが逝ったのは昨年の3月25日、その一周忌を迎えての墓碑建設であり除幕式であった。敏雄とミホの出会いの場所でもある奄美諸島の加計呂麻島呑之浦、すでに島尾敏雄文学碑の建つ記念公園の小高くなったところ。この墓碑の製作を担当したのが栄さんで、彼は加計呂麻島のさらに南の請島出身、むろん先の文学碑も彼の製作で、同郷を頼りに依嘱されたとのこと。
島尾敏雄は海軍予備学生として魚雷艇の訓練を受け、のちに特攻志願が許されて震洋艇乗務に転じ、昭和19年11月、第18震洋特攻隊の指揮官として180余名の部下を引きつれ、奄美諸島加計呂麻島に渡り呑之浦に基地を設営、終戦まで出撃-死-を待つ日々を送った。島民たちから「隊長さま」と慕われ親しまれていたが、やがて、翌20年の春頃からか、島の娘大平ミホと恋に落ちた。ミホは島長-シマオサ-で祭祀を司るノロの家系に生まれ、巫女の後継者たるべき娘だった。
弓立社刊の「幼年期-島尾敏雄初期作品集」の巻末には、「戦中往復書簡」と題した、敏雄とミホとの間に交された書簡が掲載されている。時に敏雄28歳、ミホ25歳。
「七月二日」
心を込めて御贈り申し上げます。今はもう何にも申し上げることはございませぬ様に存せられます。
此のしろきぬの征き征くところ、海原の果、天雲の果、ただ黙ってミホも永遠のお供申し上げまいります。
どうぞお供をおゆるし遊されて下さいませ
――ミホ
「七月七日」
山の上を通ったら 海も静か山も静か
満点に星がいっぱい うそのやう
これが戦のさなか大いなる日のしまかげ
ぼくはただひとり峠道を歩いて
大空の星に向って 力のかぎり一つのよびなをよんだ
mi-ho
涙がわいた
杖をふり廻して峠を下りて来た
mi-ho ,mi-ho, mi-ho,
いろいろのうつそみかなしみは
考へません
ただ任務と mi-ho
ただ二つ
mi-hoのかなしみを 沢山知ってゐます
ぼくは弱虫ですが
任務とmi-hoがあるから
強い
――トシオ
「七月」 -日付不詳-
‥‥
どうぞお元気をお出しになって下さい。
あなたがお淋しそうになさると、ミホかなしくなります。でもあなたがお淋しくなった時、ミホもいっしょにさみしがってはいけませんわね、ミホ元気を出します。
島尾隊長の歌をうたって元気を出します。
あれみよ島尾隊長は
人情深くて豪傑で
僕等の優しいお兄さま
あなたの為なら喜んで
みんなの生命捧げます
(村うちでは一ツの児も知ってゐます)
‥‥
あなたと御一緒に生のいのちを生き度い。
死ぬ時は、どうしても御一緒に。
悲しみに顫えながら、戦争に怯えながら生きてきましたミホ。
何時もあらゆるものと立ち向ひ乍らミホをお護り下さった「あなた」
この悲しい迄に切ない私達のせめて最後のたまゆらなりと、二人一緒に昇天する事を、神さまがおゆるし下されたらと切ない程に願はずには居られません。
「武人」の道にはそれは許されない事でございませうか。
とても、とてもミホ悲しみます。
‥‥
――ミホ
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