山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

押合て寝ては又立つかりまくら

2008-07-12 23:08:47 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 13回忌の法要に

今朝、このあたりでは蝉が鳴きはじめた。
梅雨明けも近い、愈々本格的な夏の到来、七十二候なら蓮始華。
宇治の御三室戸寺は、ツツジやあじさい寺として名高いが、蓮の寺でもよく知られ、もう次々と花を咲かせているそうな。

今日は叔母の13回忌の法事とて九条へと出向いた。
叔父・叔母の一家も九条の実家のほんの近くに住んでいたのだ。いまは二人とも鬼籍となって従弟の代となっており、ご無沙汰ばかりで、その子、孫となると、まるで今浦島のごとく、誰が誰だかほとんど判らない。それでも内々の法要ということらしく、叔父・叔母の直系にプラス我が兄弟群というのが本日の顔ぶれで、総勢24.5名か。

この叔母とは、私の母の弟、すなわち叔父に嫁いだ妻だから、いわゆる血族ではなく姻族となる。叔父が胃癌で急逝したのがもう22.3年前だったか、たしか65歳前後だったと記憶するから、私の父親ともほぼ同じの寿命だったことになる。

その叔父が死んでからまもなく叔母に精神の変調がきたしはじめた。まだ60歳を越したばかりの若さで痴呆がはじまったのには、とても驚かされたものだったが、その一方、彼女の気質に癇症の強い人だなあとの印象を、幼い頃から抱いてきた私には、叔父の死を前に彼女の心はきっと、よほど強い衝撃を受けたにちがいない、どう考えても彼女の変調は、叔父の死が引き金となっている、そのことが主要因なのだろうと思ったりしたものだった。

まだ60代にさしかかったばかりの健康な肉体に、精神の変調をきたしはじめたのだから、なにしろ体力はあり、どんな行動に出るか予測がつくはずもなく、周囲の者にとってこれは大変である。叔母はほぼ10年近くの歳月を生き、徐々に体力を弱め、やがて自ら動こうとしなくなり、旅立っていった。

その10年間の闘病に、同居の親族たちの苦も並大抵のものではなかったろうが、苦を苦とそのまま受けとめていては病者に見え透いてしまい、さらに心を傷つけてしまう。病者を機嫌良く安穏におくには周囲が道化のごとく仮面を被ってやらずばなるまい。彼らにとってはそんな10年だったのではないかと、読経の声を聞きながら、そんなことに思いをめぐらせていた。

そういえば「月刊みすず」7月号に中井久夫が「認知症におずおず接近する」と題した小論で、
「認知症が析出するきっかけの一つに、自分の力を超えた絶望的な事態への直面があると思います。この絶望は無力感であり自己尊厳の崩壊と表裏一体でしょう」と云っていた。彼自身の父親も「母に手遅れの胃癌を発見された当日に崩壊が起こりました」と書いていた。

「認知症の人も暗黒星雲のようなものを掻き分けて何とか考えとおそうとしている時があるように」見える時があり、これは「自尊心を何とか取り戻そうとしていること」なのだとも。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-33

   ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ  

  押合て寝ては又立つかりまくら  芭蕉

押合-おしあう-て

次男曰く、着ぶくれが草庵冬籠りのたのしみなら、旅のたのしみは雑魚寝をすることだ、と付けている。

旅上手の体験的句作りで、「ぬのこ着習ふ」「押合て寝る」は言葉のうつりのうまい取出しだが、「風」の縁語「立つ」をつかって脱俗-旅立-の工夫のみならず、時分-朝立-の含まで読取らせる。

凡兆の作りでは「夕ぐれ」は表現上の気分に過ぎないが、芭蕉はそれすら只捨てるのは勿体ないと言いたげだ。まったくしたたかな連句師である。ならば「かりまくら」も只の仮枕-仮寝-ではあるまい。

「今宵は羽紅夫婦をとどめて、蚊屋一張に上下五人挙り伏たれば、夜も寝ねがたうて夜半過よりおのおの起出て、昼の菓子、盃などを取出て暁ちかきまではなし明す。二畳の蚊屋に四国の人伏たり。おもふ事四つにして夢もまた四種と書捨てたる事共など、云出して笑ひぬ。明れば羽紅、凡兆京に帰る。去来猶とどまる」

「猿蓑」撰もようやく大詰を迎えた元禄4年4月20日のこと、「嵯峨日記」に記す一節である。「四国の人」のあと一人は丈草のことか。凡兆の妻羽紅は何処の人とも知れない。肥前長崎・加賀金沢・尾張犬山・伊賀上野四ヶ国の出が京に上り、日夜風狂の吟席を重ねている因縁の面白さを言っていて、その会者定離の心を、俳諧師はふと「おもふ事四つにして夢もまた四種」と戯れたくなったらしい。

それから一年、いまだに物好きはやまぬ、と「日記」は記している。帰る者あり留る者あり、これは懐かしい文章だ。「かりまくら」の句は、旅寝の体験的事実はもちろんのこと、その辺の寄合の情とも微妙にからんだ作りのようだ。

旅の句は恋句と並んで一巻の曲だが、この歌仙はその双方共、芭蕉自らこれに当っている。相槌は、かたや凡兆の「隣をかりて車引こむ」-前句-、かたや去来の「たゝらの雲のまだ赤き空」-次句-、どちらも短句で、恋は相伴に仕掛けさせ、正客には道案内の興を促している。興行の性格に照せば、理に適った趣向である。十二分に計算された段取だったろう。

先に「吸物は先出来されしすいぜんじ-芭蕉」、「三里あまりの道かゝへける-去来」-初裏七、八句目-とあれば、むろん目差す先は九州を措いて、ない。名残ノ折も余すところ四句、二句後に一巻祝言の花の座を控えて、長征の機はいよいよ熟した、と芭蕉は言い切っている、と。


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